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たりないものだらけ

蒸し暑い部屋に寝転んで怠惰に過ごす。これほど待ち望んでいたものがまた再び平常になりつつある感覚を安楽に受け入れてはビールを飲むこと以上に、素敵なものがこの世界にあるものか。そしてまだまだエアコンを必要とするこの天候にあって、ついつい虫を撮るのも億劫になって万年床に横たわる。我が身の重みを隅々まで感じては、敷布団に開放するときの至福よ。もういっときたりともお前を逃しはしないぞよ。

ゲームでもしようと正午前には起きたものの、いつもの頭痛に少し釈然としない意識は、それは僕自身である。
鹿田です、よろしくね。

おじゃんになった旅行も今月末にリベンジを控え、(3泊が2泊になってしまったが、今年発散しきれなかったものをすべて来年の夏にぶつければよいのだ)(…今も夏だが)、エアコンの効いた部屋でまだ空の明るいうちからビールを飲んだならば「予は満足じゃ」といい、宴もたけなわになれば「この世をばわが世と思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」など堂々と有名な句を盗み、あたかも自然と口から出ました私の今の本当の気持ちです、沁沁。とまぶたを閉じては神妙な面持ちでうなずいて見せる。

ま、要するに憑き物が落ちて、「自由だー!」となっちゃってるわけである。藤原道真もこれには呆れてものもいえんと、タイムマシンに乗って平安時代に帰ってしまう始末。それを脇目に(よしっ、計画通り)となれば鹿田も大したものだが、一切藤原道真が来ていたことなど知らず、その上鹿田の知識辞書には藤原道真などという名前は一切載っていなかった。そもそも常識が鹿田にはないので当然である。また常識がないなどというと、一見一種の特殊な脳の持ち主なのではと誤解されるが、そもそも全てが不足しているのである。なぜなら我が脳に、「夏」以外の要素は何一つとて、必要がない。夏のことさえしれたなら僕は十分なのである。しかし「吾唯足るを知る」ということなのか?と聞かれると誤解が生まれる。僕は未だかつて、夏に満足したことなど一つもないのだから。

いつも夏の核を探し求めては見つからず夏の背中を見送る。まして今年は殆ど夏に居れなかったので、正面さえはっきりと捉えていない。夏の顔は厳しくも優しくて、見つめているだけで幸せになれてしまうのも厄介な点の一つだ。いつか夏の胸元までたどり着き、その肉を切り取り、きれいな心臓を手に入れなくてはならない。それが僕のアイディンティティの確立の要だから。そしてふさぁっと倒れる夏はまた、僕の知らない夏になり、僕は嬉しく笑うだろうか、それともやはり悲しく泣くだろうか、今はまだ分からないが、知らなくてはならない。

知らなくてもいいこと。知らないほうがいいこと。知るべきではないこと。知らなくてはならないこと。知っていなくてはならないこと。知る、の捉え方はいくつもあるが、結局は知ったら、知る。知らないうちはしらない。そのか細い一本線と、どう足掻こうと届かない宇宙に浮かぶ未知、しかない。ついつい未知のほうがきらめいて、正体を暴きたくなってしまう。そうして夜の中で泳ぐ。それを、知らないまま死ぬということは、どういうことなのだろう?そう考えると足の裏がそわそわしてじっとしていられなくなる。人それぞれにそれがあって、僕はその一つが夏で、もう一つが宇宙で、いつか友達とみた花火大会のあとのペルセウス座流星群、ひときわ大きく輝いた流星の発した音、3人共きいたあの音。すぐ消えてしまった音。夏の扉は四次元で、今の僕では解けないから。

流星の光と同時に、流星の流れる音がする。光は早く、音は遅い、はずなのに。
そんなものが、頭の中でぐるぐるまるで流星のように巡る。

そっと夏は終わっていくが、頭の中はいつもヒート、している。


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眠れない夜に

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