徒然話、「リスキリング」とか、そういうことで思うこと。


※こちらは、少し前に書いた記事になります※

皆様、鹿人(仮)です。

ちかごろ、「リスキリング」という言葉をニュースで聞きます。要は、会社や政府などの支援により、新しい職能を身につけることで、社会的に需要の高い能力を身に着けた人材を増やそう、ということのようです。

 これ自体、様々な分野で人材難が言われる中で、重要なことのようにことのように思います。もちろん、社会的に課題は山積していると思います。たとえば、対象のスキルを学んで、業務レベルで活躍できるよう、人を育て、フォローアップしていく体制を構築する必要があるとか、希望者をどのように確保するかとか、業務と人材のアンマッチしたときどのようにフォローするか、とか…どうやって行くんでしょう。

 そういった疑問はありますが、当ブログでは政治的立場を言ったり、言いっ放しのジャストアイディアをひけらかすつもりはありません。ここは、「知を愛する(フィロソフィア=哲学)」者として、スキルとは何かについて、少し思いを馳せてみたいと思います。

まず、スキルってなんでしょうか。ウィキペディアによれば、「物事を行うための能力」だけでなく、「交渉力などの仕事を潤滑に進めるために必要な能力や、技術を証明するための資格、運動を行うための肉体的能力」を指すようです。

 本記事では、さきほど「職能」と記述しましたが、それは狭義のスキルだと言えそうです。

 さて、その「スキル」ですが、どうやら私たちは、気づかないうちにか、意識的に努力したりしてきたことによって、多くのそれを獲得しているようです。たとえば、今この文章を読んで、声に出して読んだり、意味を理解したりすることもスキルと言えるでしょう。(そして、この画面を開いていることさえも、スキルと言えそうです!)そう考えると、自分は何ができるだろうと思いを巡らせたとき、思ったよりたくさんのことができるんだな、と思える気がします。

 そのように考えたとき、私には、少しこういった問いが浮かび上がります。これから、自分の身につけていない「未知のスキル」は、どのように獲得できるのだろう。そして、私たち自身の過去に遡ってみれば、一番最初に獲得したスキルは何だったのだろう…。
 このような問いを解きほぐすためには、「認識論」という哲学の分野で論じられてきた議論を用いることができそうですが、今回は専門的なこと抜きに、考えてみようと思います。(関連する議論はいずれ紹介できたら、と思います。)

 では、「未知のスキル」というものについて考えてみましょう。普通、スキルというものは(資格や、業務マニュアルといったものを想定しています)、ある程度順序と体系だてられて「教えることができる」ものだ、と認識されているのではないでしょうか。

実際、社会の多くの現場で、新たに人を雇用したり、退職などによる引き継ぎが発生します。その時、対象となる業務に対して、一定のスキルセット(それをこなすための各能力の集まり)が必要とされますが、新たにその業務にあたる人に、研修やトレーニングを実施して、その業務を行うことができるように取計らったりする、と思います。少なくとも、このように想定されるスキルは、「教えることができる」ものであり、スキル獲得の道筋が示されているものの例と言う事ができるでしょう。
 翻して、「未知のスキル」を考えてみましょう。先程の例に上げたような道筋が与えられていないものも、一つの「未知のスキル」だということができます。つまり、「どのようにして、そのスキルが獲得できるかわからないもの」も一つの「未知のスキル」だということです。

 皆さんお気づきかもしれませんが、このように言ってしまうことには問題があります。先に、どんな小さなことでも言ってしまえばスキルだ、ということを述べました。であれば、自然に呼吸したり、体を動かしたり、とか、基礎的でどのように獲得したかわからないものでも、「未知のスキル」ということになりそうです。
 いや、そんなはずはない、と思うでしょうか。でも、よくよく考えてみれば、さっき例に上げた普通のスキルだって、その道筋は自明的で、それをしさえすれば、誰もが習得できるもの、と言えるものなのでしょうか。

私としては、それはケースバイケースというか、スキル獲得のためのステップがどれだけ事細かに定義できているか、が重要だと思います。スキル獲得という観点だけで言えば、多くの人が普通にできることから、そのスキルを説明していくことで、多くの場合でそれを実施することができるはずです。(車の運転の例で言えば、ブレーキを踏んで、シフトレバーをDに入れて、アクセルを踏む、これら各々の言葉を理解可能であれば、車は始動できる。)そこに、哲学的問題が介入する余地はないのです。
 ただ問題は、そういった定義が難しい場合です。例えば、コミュニケーションの場で「空気をよみながら」発言しつつ、その場をコントロールしたりするようなこともある種のスキルといっていいとおもいますが、この「空気をよみながら」、というのはどういうステップを踏めばいいのでしょうか?あるいは、創造的場面で、AとBを組み合わせて「いい感じに」仕上げるとき、そのステップを定義できるのでしょうか。このような、微妙な飛躍にこそ、哲学の問題が潜んでいるように思います。

こうして考えていくと、「リスキリング」自体にも、制度上の問題だけではなく、そうした飛躍の問題が潜んでいるように思うのです。実際どんな飛躍があるかは、その分野、そのスキルをつぶさに見なければわかりません。そして、現実には時間と費用の問題があり、時間を有せずその飛躍を飛び越えていける人たちが、スキルを獲得し活躍していけるのでしょう。
 哲学をしている間だけは、そうした時間に囚われず、飛躍を飛び越えずに思索していきたいものですね。

あとがき

今回話題に出した、「スキルは教えることが可能か」という問題は、「知識は教えることが可能か」という問いで、プラトンの『メノン』という著作にあらわれています。また、同『テアイテトス』はそれを引き継ぐ形で少し議論が進められています。また、これらの問題は「知識論」として、哲学的には扱われていますので、興味のある方は調べてみてください。(こちらも、再履修し、更に深めていければと思います。)ちなみに、知識の哲学については、次のような入門書もありますので、是非お手に取ってみてください。



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