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【体験の形式知化】無自覚無能・自覚有能

「君は優秀だが、無自覚だ。無自覚は、無能に劣る。」という言葉を、若き頃、今の一生の恩人から、静かに、言葉を選んで、目を見てまっすぐに言われたことがある。その言葉を意識的に反芻するように、判断を行う際はフラッシュバックのように思い出しながら、今を生きている。

20代のころ、猪突猛進に仕事をし続けていた結果、売上は上がり、社内で評価されて、そのまま会社を代表して様々な事業者でチーム編成を組んだ事業にアサインされた。私はできる、といったどこか天狗のような想いがあったのかもしれない。ある日、仕事終わりのそのままの流れで事業統括者T氏と会食の約束をした。自分の経歴を話していた際、ふと前を見ると、静かに、どこか慎重に言葉を選んでいるT氏がいた。「君がしてきた仕事はわかった。ただ、私は君の人となりを知りたい。君はどういう人なんだ?」

言葉が詰まった。気が付くと私は仕事のことばかり考え続けており、自分がどういう人間か、あまり振り返る機会がなかった。言葉に表現できず、しどろもどろになっている私を見て、T氏は選んでいた言葉を切り出した。

「無自覚無能、自覚有能、という言葉を知っているか?仕事も、人生も、何をやるにおいても、ただ流れに身を任せていては、何も成長しない。ちょっとは成長するかもしれない。ただ、これからの君は、全てにおいて自覚をすることで、急激に成長することができる。君は優秀だが、無自覚だ。無自覚は、無能に劣る。君はそんな人間であってはいけない。自覚をして、自分だけじゃなく周りを守れる男になれ。とりあえず、目の前の杯を乾かせ。」

いまでいうとパワハラかもしれない。ただ、ビジネスの枠外の環境下において、相手の目を見て、言葉を選び、メッセージを伝えるということは、利害関係を抜きにした、成長機会の場をいただいているように感じた。

その日から、自分がどういう人間か、常に分析を行うようになった。どう感じ、どう考え、また何を目的として働いているか、を自問自答することで、やるべきことが必然とクリアになった。また、自分がどのような人間と見られているかを知るため、相手の目を見てよく話すようになった。 「自分という人間」を意識することで「他人」をより意識するようになった。相手の反応を見て、その人となりに応じて、話し方、立ち振る舞いを気を付けるようになった。

そうした意識だけで、コミュニケーションでの相互理解は深まり、狭間に落ちているポテンヒットもキャッチアップでき、自分の仕事だけでなく、周りの仕事も管理・サポートできるようになり、チーム全体の質は向上した。なにより、自分の発言や立場に責任を持って仕事を進められるようになった、と、そう感じている。

ただ、まだまだ複雑な内容になればなるほど、自分でも何を言っているのかよくわからないようなことを言う機会もよくある。

まだまだ学ぶことは大いにある。

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鹿(Shika)

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