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知っておきたいデザイナー№2: 東京オリンピックのビジュアルを作った「亀倉雄策」

ビジネスに使えるデザインの話

ビジネスにデザインの知識はけっこう使えます。苦手な人も多いから1つ知るだけでもその分アドバンテージになることもあります。noteは毎日午前7時に更新しています


“知っておきたいデザイナー” × 7

グラフィックデザインというものを俯瞰するには、いくつかのマイルストーンを目印にすると良いでしょう。「あそこに山があって、ここに川があって……だからわたしたちはこのあたりを目指そう……」という具合に、現在位置や目的地が直感的に理解しやすくなります。そんなマイルストーンになるのがグラフィックデザインの巨匠たち。彼らを知ることで、過去、現在、世界、日本などの要所を見つけられれます。前回は、スティーブ・ジョブズに怒った逸話を持つ(記事ではその辺は詳しく解説していなかった!)アメリカ合衆国のポール・ランド氏。今回は、日本の巨匠にフォーカスしてみたいと思います。「知っておきたいデザイナー」シリーズは毎週金曜日にアップしていきます。

亀倉 雄策

亀倉雄策氏
By 朝日新聞社 - 『アサヒグラフ』 1952年12月3日号, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=33519397

生没:1915年–1997年
国:日本

亀倉雄策(かめくら ゆうさく)氏は、日本のグラフィックデザイナー。日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)初代会長。1915年という年は、第一次世界大戦が始まった翌年です。彼の代表作の一つは、最初の東京オリンピックの公式ポスターやエンブレム。

東京1964オリンピックのエンブレム
画像引用:コカ・コーラ

亀倉氏は、日本と欧米とのデザインのクオリティの格差を憂い、その差を埋めようとして画策奮闘した人物。「デザイン」という言葉を日本に浸透させたのも亀倉氏です。まずは亀倉氏が、どんなデザインをしたのか、代表作のいくつかをみていきましょう。


亀倉雄策氏のデザイン

亀倉氏がデザインした日本企業のロゴは、現代でも使われ続けているものがお送りあります。商品についているのを目にすることがある「グッドデザイン賞」のあのマークも亀倉氏のデザインです。


NTTロゴ(1985)
左のマークは、「ダイナミックループ」と呼ばれています。
旧フジテレビのロゴ


TDKのロゴ


旧明治製菓旧ロゴ


グッドデザイン賞のマーク


ヤマギワのロゴ
大阪万博に向けて1967年に作られたポスター
画像引用:https://twitter.com/SIDE_7/status/1078163796357668864?s=20&t=Q3ZCo9M89yyuIOMuChEBMQ
札幌オリンピック(1970)のポスター


東京オリンピックのポスターの逸話

東京オリンピック1964のポスターは4部作で1年に1枚発表され、開催までの高まりを演出していました。

デザイン:亀倉雄策
フォトディレクション:村越襄
撮影:早崎治

このポスターは亀倉氏の作品としてとても有名ですが、半世紀も前の制作だったので、現在では想像できない多くの困難がありました。まず撮影に使うストロボの数が多く必要でした。東京じゅうのストロボを集めて撮影したそうです。背景を暗くするために夜間撮影で、構図を成立させるために望遠レンズを使用しています。ちなみに亀倉氏は、ディレクションとカメラマンを村越襄氏と早崎治氏に依頼したいために、会社を辞めています。理由は、このふたりが、亀倉氏が専務を務めていた日本デザインセンターのライバル会社のライトパブリシティに所属していたため。撮影は30回以上に及んだそうです。また撮影はオフセット印刷ではなく、グラビア印刷(凹版印刷:お金がかかる)。印刷した凸版印刷の社長が、「お金がかかりすぎます。勘弁してください」と断るも、亀倉氏は「お国のためだと思って泣いてくれないか」と食い下がり、結局、凸版印刷が自腹を切ってグラビア印刷をしています。

こちらが東京オリンピック(1964)の1つめのポスター

このポスターの文字は、原弘氏のデザイン。大きな赤い円は、聖火の「火」と「日(太陽)」を重ね合わせたものです。ポスターはコンペティションによるものでしたが、亀倉氏は、コンペティションの締め切りを忘れていて一番着手が遅かったそうです。

生涯

亀倉雄策氏は1915年4月6日、新潟県西蒲原郡吉田町で生まれ。1933年に日本大学高等学院を卒業。図案家(今で言うグラフィックデザイナー)を目指す。

1935年、 新建築工芸学院に進学、バウハウスの構成理論などを学ぶ。
同校は、バウハウス・デザイン運動の理念を日本に伝えるために川喜多廉士郎によって設立されました。 亀倉氏は、バウハウスに加えて、アドルフ・ムーロン・カッサンドルやロシアの構成主義から影響を受けました。

アドルフ・ムーロン・カッサンドルによるポスター「ノール・エクスプレス」1927年
バツアートギャラリーコレクション蔵 ©MOURON.CASSANDRE. Lic 2017-27-02-02 www.cassandre.fr

1938年、日本工房に入社し、アートディレクターとして雑誌「NIPPON」、「カウパープ」などのアートディレクションやエディトリアルデザインを手がける。
1954年、ニッポン放送のロゴ制作(1986年まで使用)。
1957年、通商産業省(現・経済産業省)のグッドデザイン賞のロゴを手がける。
1959年、フジテレビジョンのロゴ制作(1986年まで使用)。
1960年、日本デザインセンター創立に参加、専務になる。
1961年、芸術選奨文部大臣賞受賞。
1962年、亀倉デザイン研究室を創設。
1964年、東京オリンピックの公式ポスターと大会エンブレムを制作。
1966年、ヤマギワのロゴを制作。
1967年、東京電気化学工業(現・TDK)のロゴ制作。
1970年、講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。
1978年、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)創立に参加し、初代会長に就任。
1980年、紫綬褒章(しじゅほうしょう:日本の褒章の一つ。 学術、芸術、技術開発等の功労者を対象とし、スポーツで顕著な業績を上げた人も含まれる。 記章及びメダルの綬(リボン)は紫色)受章。
1985年、勲三等瑞宝章(ずいほうしょう:日本の勲章の一つ。)受章。日本国際賞 (Japan Prize) のロゴ制作。日本電信電話(NTT)のロゴ制作。株式会社リクルートに入社、取締役に就任。
1986年、国際文化デザイン大賞受賞。
1991年、文化功労者(ぶんかこうろうしゃ:日本の文化の向上発達に関し特に功績顕著な者を指す称号)に選ばれる。
1996年、ワルシャワ美術アカデミー(Akademia Sztuk Pięknych w Warszawie)より名誉博士号を授与される。
1997年、5月11日、心不全のため死去。82歳没。


亀倉雄策とポール・ランド

“Trademarks and Symbols of the World”という亀倉雄策氏の著書の序文をポール・ランド氏が書いています。ポール・ランド氏は、アメリカの代表的なグラフィックデザイナー。代表作の一つがIBMのロゴ。


亀倉雄策賞

没後、亀倉氏の遺族の寄付により、亀倉氏の業績を讃えるとともにグラフィックデザインのさらなる発展をめざして、日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)において亀倉雄策賞が設けられています。

第1回 田中一光
第2回 永井一正
第3回 原研哉
第4回 佐藤可士和
第5回 仲條正義
第6回 服部一成
第7回 勝井三雄
第8回 該当作品なし
第9回 松永真
第10回 佐藤卓
第11回 植原亮輔
第12回 浅葉克己
第13回 該当作品なし
第14回 澁谷克彦
第15回 平野敬子
第16回 葛西薫
第17回 佐野研二郎
第18回 三木健
第19回 渡邉良重
第20回 中村至男
第21回 色部義昭
第22回 菊地敦己
第23回 田中良治


まとめ

いかがでしょう?ざっと亀倉雄策氏の軌跡をみてみると、彼が日本のグラフィックデザインの土台をしっかり形成したことが理解できると思います。もちろん、彼ひとりではなく、東京オリンピックのポスターの制作をみても分かる通り、多くの他のクリエイターたちとともによる偉業ではあります。しかし彼が牽引したところはとても大きい。日本と海外を二分してみると、日本の戦前から戦後にかけて、列強諸国との差をいかに埋めていくか、追いつき、追い越さんとするモチベーションが経済や為政のみならず、グラフィックデザインにおいても有り、それを亀倉雄策氏に残してきたもののなかに観ることができます。

そんなわけで、亀倉雄策とその仕事、知っておきたいところであります。


関連書籍



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亀倉氏が尊敬していたデザイナーの一人、カッサンドルのデザインした書体、Peignotについての記事です。

亀倉氏は、1935年(20歳)のとき、新建築工芸学院に進学し、バウハウスの構成理論を学んでいます。



参照

*1


*2



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