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ポリシーを愛してた

もう春と言われる時期になったけれど、私からすると、今日という日はまだまだ寒く感じる。特に今日みたい風が強い日は、どこにも出掛けたくない。少し前までは、休日は必ずどこかに出掛けていたし、そうでなくたって、仕事終わりに活発に動いていた気がする。一昨日からかな。有り余っていた私の気力が切れた、そんな気がする。

この前、前から観たかったフェルメール展に足を運んでみた。最近、もっぱら美術館へ行きたい欲が爆発していて、観たいものをリストアップしては、気になるアーティストの歴史や生い立ちについて、本やウェブで調べて覗きに行った。

どうやら私は、アーティストの生い立ちや育った環境は調べずにはいられない性格らしい。最近、分かった。

フェルメールだって、ゴッホもそう。ドビュッシーに、ベートーベン、アンゼルム・キーファー、そして別れた男達も。

別れた男たちと言えば、だ。

ある人は、胸元にいつもターコイズのペンダントをしていた。そのターコイズは、うろ覚えだけど、祖父の形見だとかなんとかで、大切な形見に敬意を払うかのように、暇があればペンダントを磨き、その青く光るターコイズに合わせるチェーンネックレスを毎年新調していた。

ある人は食事をする際には、必ず左手のすぐ側に綺麗に折り畳んだナプキンを置いていた。そのナプキンで時折、手を拭きながら、もう煙草を吸えなくなった亡き父と同じ銘柄の煙草を吸っていた。

ある人は、熱帯魚を愛でていた。どれだけ仕事で疲れていようが、休みの日には必ず、毎回熱帯魚の水槽を綺麗に掃除し、時間ができると熱帯魚ショップに行っては新しい仲間を増やして、毎晩楽しそうに水槽を見つめていた。

ある人は、寝る際にかならず、室内を完全な無音状態にして、全身を綺麗に毛布にくるまって寝るというルーティンを守っていた。その毛布は、足先から肩まですっぽりと。そうやって眠ることが心地いいんだと嬉しそうに言っていたのを思い出した。

多分、まだまだ思い返せば沢山あると思う。要は、わたしに似て変な奴が多かった。そして、どの人にも共通するのが、大雑把な私には持ち合わせていない、その神経質さだ。その人それぞれが持つ、几帳面で神経質な部分に私は惹かれがちだった。私から見ると、彼らのその神経質に見える行動が、とても繊細で、とても美しく見えた。

私は、彼らの(私にとっての)変なポリシーが堪らなく好きだった。

なぜこんなにも好きだったんだろうと考えてみたけれど、「私にはない神経質さ」以上の答えが出てこなかった。

そんな事を考えていたら、もう夜の21時。

瞼を閉じると、ゴッホの夜のカフェテラスが脳裏に浮かんだ。

もしかしたら、私は自分には無い感覚に潜在的に憧れているのかもしれない。それは、今もずっと。そして、それらは自分の脳内で都合良く、綺麗な想い出に変換できるもの。いつかは色褪せてしまう押し花みたいな想い出達だけど、私は綺麗な想い出として残しおきたいのだ。それが、繊細でいびつであればあるほど。




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