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岸見一郎さんに学ぶ~成功か不成功かで幸福か不幸かは決まらない


こんにちは。

岸見一郎さんのブログになるほど感銘をうけたお話についての感想です。

小さい幸福と対比される「大きな幸福」などない。

大きな幸福があると考えられているとすれば、それは幸福ではなく、成功である。
 
三木清は、幸福と成功を次のように対比している。

「幸福は各人のもの、人格的な、性質的なものであるが、成功は一般的なもの、量的に考えられ得るものである」(『人生論ノート』)

「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるか理解し得なくなった」(前掲書)

https://note.com/kishimi/n/ne7542054df26

岸見一郎さんのnoteによれば、「小確幸」が必要で、例えば、仕事、お金だけを目的とするなら「小確幸」は得られないんだと。ここには心の余裕のようなものが前提として必要になるんだなと。

そして哲学者の三木清著引用のところでは成功と幸福について。成功は量的で客観的、それに対して幸福は質的で主観的なのだと。

「小さな幸福」か「大きな幸福」か


成功を幸福に結びつけてしまった途端、不成功の時は不幸だと思わざるおえなくなるので、あえて成功=幸福と結びつけることをしなければ、主観的な幸福度が高まるんだと。そして岸見さんは主観的な幸福を「小さな幸福」として例えられていることについて、小さいと形容されるのではなく、大きく評価すべき幸福ではないのだろうかの疑問を呈されていました。なるほど、小さな幸福における小さなの部分は、かなり客観的つまり、世間から見たらの意味が含まれている気がしてきました。

成功の枚数で幸福を判断してしまうことの危うさのようなもの

同じものを見ても、千差万別に感性や感じ方があり、同じ事でもどれくらい幸福感を得ることができるかも様々です。
成功と幸福、不成功と不幸について、人を判断する指標として、どうしても目に見える指標に頼りがちで、それが無かったらある人と比較したとき、その人を何の根拠もなく勝手に不幸な人だとみなしてしまう、みなされてしまうところもありそれも誤解というのでしょう。
そして、幸福感は隠れんぼ、ではなく、隠れベールの様なもので、その人にしか分からないところでもあり主張する必要もないと思います。

一番よくないのはこれは虐待の類になりますが、目に見える成功がないのに幸福を感じるなんてとんでもないよの考えです、簡単に言えば状況が状況なのに幸福の追求をするなんてそんな余裕ないでしょ的な。

状況が幸不幸を生み出すわけでもない



さらに言えば、幸福感と状況は全く無関係だと思います。一方、いわゆる成功した状況でさえ幸福感を支配することもできないんだと。一方、幸福だと思われる状況を提供される、つまり親子の関係ですかね、これだけ尽くしてあげているのだから、幸福だと思ってよねと思うのは自由ですが、それを強制することは幸せ感の押し売りで、いくら恵まれていてもお姫様は王子様に不満を抱くというのが昔からの物語で、よく見かけるのはなぜ?こんなに不自由させてないのにで終わるような言い方であったりします。
これは聞いたお話ですが、不登校の子の親の多くは、苦労をさせたことはないと言われるそうで、親にしてみれば状況的には十分に幸福を与えていると思っているということでした。この場合親も悪いとは決していいませんが、子供が親の渡した幸福を幸福として受け取り切れていない状況幸福感を得られていないことについて、それは介護になれば逆の意味になりますが、子供だけのせいにすることについて幸福感の認識にずれの様なもの状況が必ずしも幸福に結びついているわけでもないとガッテン。誰かの幸福感、不幸感についての程度を自分のそれと強制、限定することはできないんだと。

成功=幸福が不成功=不幸をもたらす



目的は?と自問自答したり聞かれたりしたのなら、成功と結びつけて考えてしまいがちに設定することも多く、それは同時に無意識に幸福にも結び付けられているところはあります。
そして、失敗だったり、成功でないとなればそれはもう不幸でしかないというような考え方は自分にとってよろしくないんだと。

そもそも成功さえ限定するの難しくない?



何をもって成功かとするところも大事ですよね。幸せでいたいと思うこと自体、それは成功だということになれば、幸せが成功に完全に一致していることになり厄介です。願望=成功となると、その願望がかなわないとき、たとえば老化したくないという場合、老化しないことが成功となり、このとき成功を幸せに結びつけていれば、それは不幸ということになるからです。もし、成功と幸福を切り離して考えられれば、Aだけど幸福で、別のところに幸福を探せることにもつながるんだと。

バランスが大事



成功を目的に設定することは大事でいいことなのですが、そこへ幸福も結び付け過ぎてしまうことについて考えなければいけないということなんですよね。あの人、自分は成功しているから幸福だ、成功していないから、失敗したから不幸なんだのものさし。成功したのなら何の問題もないんでしょうけれど。失敗したよな不幸だよねの反論にたちうちできないことについて、その構図自体に問題があるんだと。

成功は幸福ではあるんだけれど、日々の愛しい小さな幸福と似て非な的なところもあって。きっと状況による満足感の種類が違うのに、同じ幸福だとくくってしまうところに問題はあるんだろう。

他社への貢献と幸福
たとえば、結婚について、みんなが幸福になるような結婚という言葉があったり、幸福という言葉の中に、みんなの幸福はきってもきりはなせないところはあります。自分の周囲の人も幸福感をもたないと、その幸福度は薄れてしまうと。これが成功と幸福を結び付けてしまうことになり、それだけが幸福にもなっているん問題になっているんだと。


岸見さんは仕事の中にも「小確幸」はあるとされています。

仕事をしている時に、自分がしていることが他者に貢献していると感じられる時、その貢献感は「小確幸」である。

https://note.com/kishimi/n/ne7542054df26



会社の数字としての貢献度としてあらわれない場合でも、相手との関係で自分が貢献できたと思えたとき、その貢献感は「小確幸」であり、客観的でなく主観的でいいんだと。ホームランはうてなかったけれど、誰かのために成れたと思えたらそれでいいんだと。
成功だけを幸福だと取り違えてしまうことによって起こる不幸感ほぐれてくれればいいのにの感想でした。







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