ハリボテ万博『ONE PIECE STAMPEDE』

『ONE PIECE STAMPEDE』を見てきました。

ワンピースアニメ放送20周年を迎えて、お祭りのようにたくさんのキャラクターが登場する、「海賊万博」をテーマにした劇場版アニメ。

わりと評判よくて、ぼくもまあ満足は満足なんだけど、思うところもあって記事にすることにしました。

劇場版ワンピースの限界

良い悪いは別にして、ぼくは劇場版ワンピースには限界があると思っている。というかワンピースに限定せずとも、ストーリーがある長期連載作品のサイドストーリーを映画化するには、どうしようもない制限があるような気がする。それは、

①物語の核心に迫ることができない
②キャラクターの関係性や環境を変化させることができない
③原作と矛盾することができない、もしくはパラレルワールドとして割りきる必要がある

こうした点だ。

具体的にワンピースでいえば、劇場版で「ワンピース」を見つけたらダメだし、四皇や大将など因縁のある相手を倒してはいけない。今後鍵を握るキャラクターのまだ見せていない部分を見せてはいけない。

しかも今ではルフィは五番目の皇帝と呼ばれているわけで、説得力のない格上を登場させることもできないし、かといって雑魚がボスでは盛り上がらない。

だから、劇場版ワンピースでは、本編に絡みつつもそんなに物語に大きな影響を与えない、いてもいなくてもいい都合のよいその場限りのステージとボスが必要になる。これは非常に難しい制約だ。

だからよっぽどのアイデアを出さない限り、劇場版作品は「ハリボテ」になってしまう。ハリボテというと、ある程度距離があるところから表面だけ見ると、それらしく見えるものだ。劇場版アニメは、その場限りでそれらしく見えて見せたいものを見せてくれる仮設的なハリボテになりがちだ。これはある程度仕方がないことだと思う。だが、今作は突貫工事的にハリボテが立てられており、まるでハリボテの裏側が丸見えになってしまうかのように、「その場限り」を盛り上げるための粗が見受けられた。そしてそれはワンピースという作品の根幹に関わる「信念」を揺るがしかねないところであった。

具体的にいえば「ルフィの一言の重み」が適切に用いられていない、ルフィが言わない一言、になってしまっていたこと。そして仲間がルフィの何を信じているのか、がズレていたことだとぼくは思う。

ルフィの一言の意味

今作ポスターでは、ルフィのほか、ハンコックやロー、サボ、スモーカーなど、勢力を越えたキャラクターが登場する。本編でも、こうした勢力がお祭り的に共闘する。それはとてもワクワクする光景であった。

ただ影の主人公といってもよい扱いを受けたのは、じつはウソップである。

ロジャー海賊団にいたが実際は孤独で、いまもなおひとりきりで最強を目指しているというバレット。バレットの思想は、ルフィの目指す海賊王像と真逆といってよい。その信念と信念がぶつかるとき、ウソップへの評価が二人で真っ二つにわかれる。バレット側から見ればただの弱者だ。実際にバレットは、ウソップという弱いものがそばにいることが足手まといである、という指摘をする。そしてルフィから見れば必要不可欠な仲間なのであるが、ルフィがこの指摘にたいして行うリアクションが、致命的に、ものすごく致命的に、ルフィの核心をつく一言から逸脱してしまっていた。

なんと言ったかはネタバレにつき省略するが、ここで放つ一言は「ルフィがウソップをどのように見ているのか」という意味を持ち得るし、実はすごく重要なシーンだったのである。そして、その肝心な場面で放つ言葉としてはあまりにも奥行きが足りない一言だったのである。

この構造は、ホールケーキアイランド編の終盤、サンジの実父であるジャッジが、ルフィに問うシーンと一致している。飯炊きに従事し王者のプライドもなくつまらない情に流されるサンジにいったいなんの価値があるのか、と指摘するシーンだ。

このとき、ルフィはジャッジの煽り言葉を受け流す。そしてサンジにたいして「何であいつ急にお前(サンジ)のいいとこ全部言ったんだ?」とリアクションする。今作でウソップについてルフィが言った応答とは、差があまりにも大きい。

なぜルフィは戦うのか、仲間はルフィの何を信じるのか

そもそもウソップにフィーチャーするということが、ある種安易であったとぼくは考えている。ルフィを安全地帯まで運ぶという大役を果たしたはずの後、なぜか急に自分の無能を悔やみ出すウソップ。ここでは、その後のシナリオを進めるため、「戦闘では役に立たない弱者」としてウソップを記号的に扱ってしまっている。海賊万博というテーマを用いつつ、一味の友情と絆を示す感動のフィナーレのため、ハリボテの突貫工事が行われてしまったのだ。

突貫工事は、仲間がルフィをどう見ているかという点でも行われてしまった。原作で、宝そのものを最終目的にルフィが行動することは極めて珍しい。多くの場合において最終目標は仲間や国の奪還であり、ルフィが大切にするものは尊厳や誇り、約束だ。それを傷つけたものを許さないのである。そして仲間は、ルフィがこれらを取り返すこと、そのために強大な敵をも打ち倒すことを信じているのである。しかし今作、発言したのはサンジであるが「ルフィは必ず宝を手に入れてくるから信じよう」と言うのである。ルフィは最終的に敵を倒す。これは間違いない。だから確かに宝も必ず手に入れる。しかし、それは結果であって、仲間が信じているのは宝の入手ではないはずなのだ。ここでは「ルフィを信じる仲間」というハリボテが立てられてしまっているのである。

こうしたことから、今作はお祭り的な仮設ステージを派手に組み上げる一方で、作品の根幹とも言える「信念」を揺るがすハリボテ万博になってしまっているのではないかというのがぼくの印象である。

冒頭でハリボテというのは仕方がない部分があると言った。加えて言えば、必ずしもハリボテは悪いものではない。鑑賞後友人らと面白かった箇所について話していたときに、一致した箇所がある。それは、物語の最終盤、サボがアンの悪魔の実の能力によって実現したことである。ここで実現したことはハリボテでしかない。しかし、ルフィの背中を押すという意味で大きな力になっていた。このラストは見事だからこそ、全編を通して裏側が丸見えになっているものではないような「立派なハリボテ」に仕上がっていないことが残念だと思った。