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備忘録

2021/7/11 いつものように看取り介護中の母との面会に行く。


5月の終わりから始まった看取り介護。その時は憔悴しきった顔をしていて、
もう長くは持たないだろうと思ったけれど、6月になると少し回復したように感じた。職員さんからも「きっと息子さんが沢山会いに来てくれているからです。」
と言ってくれて僕も一安心。
家では母への手紙を書きつつ、母の好きなCDを沢山施設に持ち込んで、
もう喋ることはできないけれど、冗談を言ったら笑ってくれる母と
静かな時間を過ごしていた。

話は戻り、7/11、母との時間を過ごしていると、施設医さんが部屋に入ってきた。
「お母さんの容態が少しずつ変わってきています。脈も以前よりは下がってきていて、もしかしたらあと数日、、、。容態が急変した際は、すぐに連絡します。」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます。」

薄々分かってはいた。6月に入ってご飯も少しずつ食べられるようになってはいたが、6月後半頃から、階段を転げ落ちるかのように体調が悪くなっていた。
ご飯の量も減ってるみたいだし、表情の変化も少なくなった。
起きているのかどうかも怪しい。それでも僕は声をかける。
その日の話をする。バイト先での事。音楽のこと、明日の話。
お母さんの調子を聞いたり、何気ないことを話す。

その日の面会が終わった後、そのまま町の公園に行く。
時間を持て余した時や、何か考え事をしたい時に行く場所。
まだ母がかろうじて歩けた時に一緒に散歩した場所でもある。
その時に二人で座ったベンチに腰掛ける。
目の前の芝生では家族が笑顔で走り回る。
どうしても楽しかった僕らの営みを重ねてしまう。
泣きたくないから少し歩いてすぐに家に帰った。

次の日、朝から出勤。
職場の人にお母さんが長くないことを伝える。
その日の昼過ぎ、施設から連絡が来る。
「お母さんそろそろかもしれません。
 恐らく今日の夜遅く。ご予定大丈夫でしたらきてあげて下さい。」

運が良かったと今は思える。
その日はお昼過ぎまでのシフトですぐに施設に向かうことができた。
妹に連絡をして、一旦家に帰り、諸々の準備をして施設に向かう。


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母のいる部屋に入ると、職員さんが「今日は長丁場になりますから」と
母のベッドの横に長椅子を置いてくれていた。仮眠のための布団まで用意してくれた。
僕と妹は長椅子に座り、いつものように母と話をする。
ずっと母の呼吸が荒い。「ヒュー、ヒュー」と苦しそうに息をしている。
あ、もう長くないんだ。と誰にでもわかるような様子で、見ているのが辛い。
それを察してか、施設医さんが「この状態は、少しずつ臓器等の各機能が低下していて、声帯が少しずつ小さくなっているのです。それでこうして息をする度に音が出て苦しそうに聞こえますが、本人は苦しいわけではないので安心して下さい。」

もはやそれは専門家であれど、第三者の見解であって、母自身が本当にそうなのかはわからないのではないか。と嫌なことを考えたりもしたが、ひとまずそれを信じるしかないと顔を上げた。

その後は家族だけの時間を取ってくれた。家族3人でできる限り、いつも通りを心がけて、母に笑顔で接した。
とはいえど、定期的に母と仲良くしてくれていた職員さん達が母を訪ねてくれたりもした。勤務外なのに駆けつけてくれたりもした。
「お母さんね、本当にずっと穏やかでね、僕らがしょうもない冗談言ったら笑ってくれて、この施設のアイドルなんですよ。肌もめちゃくちゃ綺麗でね。羨ましいなぁってみんなで話したりしてね。いつも優しくて。
、、、、ねぇもっと元気でいて欲しいなぁ。なぁ?重田さん?」

施設に向かう途中に、コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、
母との時間を過ごす。
その間、部屋では僕のCDがコンポから流れている。何周も何周も。
僕が家から持ってきたCDの中に密かに僕のCDを忍ばせてみたら、
職員さんが気付いてずっと流してくれていたのだ。
すると母と仲良くしてくれていた職員さんが部屋に来て
「お母さんきっと息子さんの声聴くと喜ぶと思って、ずっと息子さんのCDかけさせてもらってます。よかったら生で歌っても良いですよーなんて。笑」
「、、、あの、もしよかったら今からギター持ってきてちょっと歌っても良いですか?その、あんまり大きな声は出さないので。」
「わかりました。ちょっと確認取ってきますね。。。。。。OK出ました。是非お母さんの前で歌ってあげて下さい。」
僕は背後で夜勤明けで仮眠を取っていた妹を叩き起こし、お母さんを見ててくれと言付け、車で家にギターを取りに行った。

「おかんギター持ってきたで。職員さんがOKしてくれたから、今からライブすんで。おかんの前で歌うなんて、何年ぶりやろなぁ。緊張するわ。」

何を歌おうか。大きな声は出せないから、ピックを使うのはやめよう。
まぁやっぱ最初はシネマかなぁ。

「ありがとう。どやおかん?ええ曲やろ。まだまだ歌うで。」

次は最近リズムの練習でよくやってるし、ハロー、グッバイ、ハローかな。

「ありがとうございます。いつもおかん、ひろはええ声やなぁって言ってくれたやろ。生やと一層ええやろ。なんて。」

次は「いつか、また」を歌った。
もう何年も前の唄だし、全然歌ってもいなかったけれど、何故か今歌いたくなった。
歌詞もうろ覚え。でも歌おう。


歌っている途中、母が旅立った。
今でも忘れられないあの景色。
アウトロ寸前。
ずっと目を閉じていたのに、ぐっと見開いた瞳。あぁ、お母さんの目、綺麗やなぁ。
そして流れた一筋の涙。
母の舌が喉の奥に張り付いた音。
身体をピクッとさせてそのまま目を閉じた。


不思議なことに涙を流した瞬間に母の最期を僕は悟っていた。
もう何もできない。母の前でただ歌うことしかできないことも悟った。
看護学校に通っていた妹が母の脈を確認している。
その間も僕はずっと歌っていた。どうすることもできず、
頭も回らず、泣きながらずっとずっと、正しいことなのか、自分に酔っているのか、そういうのではない。言葉にはなかなかできないけれど、とにかく今の自分には歌い始めたからには歌い終わるまで歌い続けることしかできなかった。
ずっとずっと。メリー、メリーゴーランド。。。。。

妹が職員さんを呼びに行く。部屋に入ってくる施設医さんと職員さん達。
脈を確かめた後、「死亡診断書の作成のため、今からお医者さんを呼びます。
しばらくお待ちください。その間にお母さんのことを知らせたい人がいれば、
いまのうちに連絡をお願いします。」

そこからは泣きたいのに、泣いている場合じゃなかった。
母と仲の良かった人や、母のことを知ってくれている幼馴染に連絡をした。
連絡をした人は少なかったが、急いで駆けつけてくれた人たちがいた。
「連絡をくれてありがとね。」

「息子さん。まだお辛いでしょうが、これからのお話をします。
葬儀等のことは何か決めていますでしょうか?」
「はい。一応は。その、ゆっくり静かに見送りたいというのと、その、、お金もあまりないので、このまま家族二人で直葬させてもらおうと思ってます。」
前もって役所にて相談した上で決めていたことを職員さんに話した。

「ですが、お母様が亡くなられた現時刻がもう夜遅くなので、今から直葬は厳しいかと。一旦施設でお母様を安置して、明日に火葬場の予約を取ることはできますが、基本的に火葬場は予約が取り辛いので、、、。」

非常に困ったことになった。
すると駆けつけてくださった方達の中で、
母の昔からの友人の旦那さんが、仕事柄、町の大体の葬儀屋さんに顔が利くからと
良心的なお値段で小さな家族葬を提案してくださった。
その話をありがたく頂戴し、思わぬことに葬儀をすることになったのである。

今思うと本当にして良かった。
葬儀ってきっと亡くなった人のためでもあるけど、何よりも残された者達の
心の整理のためにするんだなと強く思った。



死亡診断書の作成が終わった後は、葬儀屋さんに母を葬儀屋に運んでもらい、
僕らは一旦家に帰った。
帰り際に施設にご挨拶を済ます。
一旦家に帰り、喪服や諸々の準備をして、葬儀屋さんへ向かう。

口利きのおかげか、町で一番新しい綺麗な葬儀屋さんで
一日お母さんと一緒に過ごすことができた。

出棺までに沢山のことがあった。


施設の職員さんが沢山訪ねてくれた。
施設でのお母さんの様子を面白おかしく伝えてくれた。
「施設ではお母さんが一番若かったから、他の入居者さんからモテモテでしたよ。
私たちもお母さんの介助がとても楽しかったです。
いつもニコニコしてて、私たちの癒しでした。」

お母さんの友達も来てくれた。
「お母さんようあんたらのこと怒ってたでぇ!
二人共専門学校行ってすぐ辞めて、どんだけ金かかったとおもてんねんって。笑
ずっとあんたらのこと心配してたわ。ガサツなとこもあったけど、みんなでいっつも楽しく遊んでたよ。お母さんきっとな、自分の役目は終わったと思ったんやと思う。子供二人、立派に育てて、もう心配は無いって分かったんやと思う。
みんなお疲れさん。よくがんばったね。」
それを聞いて僕はとてもほっとした。
母は本当に何も言わない人だった。「いつも好きなことしたらええから。」
と背中を押してくれていた。
だけどそれが逆に不安だった。学校辞めるとか怒るんじゃないだろうかみたいなことも、「好きにしなさい。」と言ってくれた。
とにかく子供の気持ちを第一に優先してくれたいたのだ。
誰か相談できる友達はいるんだろうか。と。
でもお母さんにも相談できる友達がいて、僕らのことを怒っていたんだな。
僕がそっちに行ったら、沢山怒られよう。

夜は静かにのんびり過ごした。
何回見てもまだ生きてるんじゃないだろうかというほど、綺麗な母の顔。
思い出しては話しかけ、持ってきたギターを母の前で弾き、
ずっと作りかけの母の唄を完成させたり、テレビを見たり、酒を飲んだり。
それにしても遺影写真。よく出来てんなぁ。
スマホの良い感じの写真をスキャンし、きっとフォトショップで
顔を真正面に向けて、良い感じの服を着せて。そりゃまぁまぁお金かかるわな。


風呂に入り、寝る時は3人川の字で寝た。
思ったよりよく眠れた。

朝になると、忙しくなる。
出棺前に母の死化粧をする。
これが納棺師の仕事なのか。
手際良く、美しい所作で母の顔が綺麗になっていく。
死装束を納棺師の指示通りに着せてあげて、
納棺師、葬儀スタッフ達と共に母を抱え、棺に納める。

慣れない手つきでお焼香を終え、出棺。

火葬場にて火葬。火葬ボタンを押させてもらった。
母の骨を拾う。落としてしまわないように必死で拾った。
火葬までお付き合いしてくださった方々にお礼の挨拶を済ませ、
葬儀の全ての工程を終了した。

疲れた。もうそれだけ。人生でこんなに疲れることってあるんだ。
声を大にして言いたい。喪主マジでやばい。
これを読んでくれている方々、もしその時が来た時に備えて、
家族のことをよく把握した方がいいです。
親戚、宗教、友達、葬儀はどういう風にして欲しいか。
喪主は誰がやるのか。その際の他の家族の役割分担。
葬式の儀礼などなどなどなど。

話を戻して、
葬儀を終えた後は帰宅。鏡で自分の顔を見た時、こんなにも疲れた顔ができるのかというくらい酷い顔をしていた。
それでも今このまま布団に入ったら、どこまでも沈んでしまいそうだ。
何かしなくちゃ。脳が回らないまま温泉に直行。サウナで気持ち悪くなり、
トイレで嘔吐。やはり家でゆっくりしておけば良かった。

そこから数日はふわふわした毎日を過ごした。
まだ母が生きているのではないか。まだ母がいなくなってしまったという実感が湧かない日々。
でも何かが足りない。1日が長く感じる。
そうか。いつもバイトが終わったら施設に直行して母と話していたんだった。
でも今はその必要がなく、家にすぐ帰っているから、だからだ。
少しずつ、少しずつ、母がいなくなった実感が湧いてくる。
それと同時に少しずつ体調も悪くなっていく。
おかしい。明日以降の予定が立てられない。
仕事に集中できない。
何もできない。
歌えない。
やる気がないといういうより、やり方がわからなくなってくる感覚。
これはなかなかにやばいんじゃないだろうか。
まだかろうじてバイトと、母にまつわる用事はできる。
なんなら死亡届や年金申請については葬儀の翌日に全て終わらせた。
でも、もしバイトすらもできなくなったなら本当にやばいかもしれない。
その時は病院に行こう。


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行きつけの呑み屋で、ご主人に母のことを伝えた。
いつも話を聞いてくれていたから。

「こういう時に周りの人達はさ、「お疲れさん。これからは自分の人生を歩んでね。」と励ましてくれるけどさ、それは本当に嬉しいことなんだけどさ、
実際は自分のために生きるってのは、
誰かがいるから、自分を見てくれている人がいるからできることなんだよなぁ。」
少し泣いてしまった。この時、やっとちゃんと泣けたなと。そう思った。
僕がなかなか言葉にできなかった、もやもやした想いを的確に言葉にしてくれたような気がした。


僕は灰になった。やるべきことを、やりたいことを全うできた。
すると目の前が真っ暗になってしまったのだ。
もちろん母が亡くなった後、どうしていくかのビジョンは持っていたけれど、
それは母がいたから考えられたのだ。お母さんがいたから。僕は生きていけたのだ。
一気に身体の力が抜けてしまった。
もう働かなくてもいいんじゃないか。
歌わなくても、何もしなくてもいいんじゃないか。
心は沈むばかり。

ある日のバイト先での出来事。

「、、、、わ、重田さん何かありました?」
「あぁ、はい。実は先日母が亡くなりまして。」
「、、、あの、こんなこと言うのアレなんですけど、なんか憑いてきてます。
実は私、子供の頃よく視えてまして、大人になってからは視えなくなったけど、
まだ少し感じることはできるんですよ。」
「マジスカ。。。でもまぁ色々と身体は重たいんです。良いやつですかね?
お母さんなら別に構わないですけども。笑」
「お母さんは四十九日の間はいろんな場所に行くので違うと思います。
おそらく葬儀屋さんから憑いてきたのかも。悪くはないけれど、
重田さんの気持ち次第です。気を強くもった方がいいです。」

後日、不思議な体験をした。
その日は母の友人が母のためにお線香を渡したいと言ってくださり、
地元の駅前でそれを受け取る用事があった。

駅前にて受け取った後、思った。「逃げたい。」と。
とにかく逃げたい。逃げよう。よくわからないけど逃げなきゃ。
電車にのりこんで天満駅に着いた。
いつもの商店街に立った途端。ブワッと身体が軽くなった。
電車に揺られている間、ずっと身体が重くて疲れ切っていて、やっぱり失敗だったかも。引き返そうかな、なんて考えたりしていて、いやでもとりあえず行けるところまで行こう。身体を引きずりながら天満まで辿り着いた。
本当にその瞬間身体が軽くなった。あれ?なんだこりゃ。

そのまま連絡したら駆けつけてくれた友達と銭湯へ。
さらに身体は軽くなり、そのまま扇町パラダイスに行って久しぶりに音を浴びてみたりして。また軽くなる。
それ以降、身体の調子がどんどん戻ってきた。
単純に愛着のある場所に行って、友達に会って、楽しくて発散できたからなのか、
本当に何かに取り憑かれていて、それが何かの理由で離れたからなのか、
本当のことはわからない。
けれど、とにかくそこから少しずつ体調が戻ってきた。

少しずつ歌えるようになってきた。
でも何故か自分の唄が歌えない。
でもカバーならできることがわかった。
家で小さい音で無理なくカバーを始めた。

「歌う」という行為がどれだけエネルギーを使うことなのか。
この時身に染みてわかった。世の中の全てのシンガーを尊敬します。

カラオケでリハビリ練習を始める。
びっくりするくらい体力が無くなっている。。。
少しずつ、少しずつ戻していこう。
バイトも多めに休みをもらった。
心と身体を休める必要があった。
四十九日が終わるまではできる限り休もう。
フリーター生活を始めて、こんなにも予定の無い休みがあるのは初めてだ。
1日中何もしない日を作った。
何もしない程にやりたいことが明確になっていく。
その時にはそれをやる。
もちろんそうやって少しずつ気力が回復していったのはバイト先の人達や、友達のおかげさま。
心配してくれてありがとうございます。

香典返しの手筈も整い、お世話になった施設への最後の利用料の支払いや、契約解除の申請も終わった。四十九日までゆっくりと過ごす日々が来た。
夜寝る前に母に話しかけてみたり、生前好きだったモンブランを供えてみたり、
次はどんなお花を供えようかと考えてみたり。
ゆっくりと過ごした。

四十九日が終わる前日、僕は母のお骨を持って、
町の公園に赴いた。
周りにはわからないように、カバンに大切にしまった上で。

この公園は、まだ母がギリギリ歩けた時、二人で散歩した公園だった。
手を繋いでゆっくり歩いた。
母と一緒に座ったベンチで空を見上げた。
「また二人でこよな。」って言ったにも関わらず、行けなかったから。
最後に二人で来たかった。
ベンチに座って沢山撮った母の写真や動画を見返した。
天気も良くて、蚊にずいぶん噛まれたけれどたまにはいいか。
薄く、綺麗な綺麗なオレンヂ色と群青のグラデーションが美しい空だった。


その日の夜、母が夢に出てきた。
詳しい内容は憶えていないけれど、一つだけはっきりと憶えているのが
母が少し控えめに

「、、、まぁ、お父さんあんなんやけど、少しだけでいいから優しくしたってね。」

と言ったこと。
これは本当に意外な発言だった。
だらしのない父がきっかけで家庭が崩壊して、沢山の苦労を背負った母がまさか
夢の中であれど、そんなことを言うなんて。
まぁでもそれはごめん。お父さん次第かな。すーぐ余計なこと言うから。
でも善処するよ。おかん。夢に出てきてくれてありがとう。

地元のお寺に納骨をしていただくことになっていたので、
少し早めにお寺に向かう。
四十九日は妹と二人で密やかにおこなう。
とても穏やかで優しそうな住職さん。

住職さんとお弟子さんがお経を唱えてくださる。
まるでミニマルなトラックを聴いている気分になってきて少しトリップする。
お弟子さんが唱えれば唱えるほどに声がガッスガスになってくるので
密かに頑張れとエールを送る。

お経と埋葬が滞りなく終わり、これにて一区切り。
とてもいい天気だった。埋葬日和。なんだそれ。
でもここにくればお母さんに会えるんだなって思うと、
一人じゃない気がしてくる。

そう、一人じゃないなって思える。今は。
母が僕に遺してくれた生きて死ぬ理由。
一緒に火葬してもらった手紙には書けなかった未来の話。
沢山話したいことがこれからできるんだよ僕には。
それ抱えていつか会いに行かなきゃな。
そして生前言葉で話せなかったこと、
あの時本当はこう思ってた。みたいなことや
あまり自分のことを話さなかったお母さんのこと、沢山知りたいな。
僕に怒りたいこともきっと沢山あるはず。
だから僕がそっちに行った時は沢山話そうね。なんでもいいから。
なんでも話そう。それまで


いつか、また。

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