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パワハラを乗り越えて

この記事は、2018年9月7日 8時22分に『20代最後の誕生日』を迎え、29歳になった際、別のブログに書いた文章のリライトです。

残り1年の20代を後悔のないカタチで締め括りたいと思い、あえて辛かった瞬間を切り抜いて記録しておこうと、文章を起こすことにしました。

この記事を書くことで、告発したいとか、同情が欲しい…ということではありませんが、同じような状況にいる人の背中を押すキッカケになったり、自分と関係ないと思っている方も、ちょっとでも考えてもらえれば幸いです。

執筆のキッカケ

2012年の3月、私は都内の大学を卒業後、第一志望だった都内金融機関に就職。丸5年間をそこで過ごしましたが、2017年3月末に退職しました。
2017年6月から転職活動をはじめ、現在は新たな会社で働いています。
金融機関を退職するキッカケは、職場でのパワハラでした。

精神的に徐々に追い詰められ、辞表を提出するも、営業店の人手不足を理由に手続きを先延ばしにされ、最終的には出勤途中に職場の最寄駅で倒れ、救急搬送されました。

正直、自分の居場所なんて、もうどこにもないんじゃないかと悩みました。
でも、大丈夫。
必ず、自分の居場所はある。
何の意味もなく、この世に生を受けた人なんていない。
今ではそう思えるし、実感しています。

辛くて、苦しくて、何度も自ら命を絶つことを考えたし、そのことを口にして、親に涙させてしまったこともあります。
でも、今こうして、当時の状況を自分の口で語ることができるようになれたのは、前向きに進めている証拠だと考えています。

今は、親に「産んでくれてありがとう」という気持ちでいっぱいです。
この気持ちが、あえて誕生日に、記事をアップしようと思った根底にあります。
そして、自分の発信が、似たような経験をした人の心の支えや、今まさに悩んでいる人の助けになれば幸いです。

私の5年間① 〜第一志望へ就職

私が金融機関で働き始め、倒れて辞めるまでの5年間を振り返ります。

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2012年3月で都内の大学を卒業した私は、その年の4月から都内の金融機関で働きはじめました。
就職活動中には、東日本大震災がありました。銀座の時事通信社ビルで被災した記憶は、忘れられません。就職氷河期と呼ばれた時代とも相まって、就職活動は困難を極め、採用を取り止めた企業による内定切りに悩まされた友達もいました。
なかなか決まらない就職先。青森出身の私は、帰省できないけれど、故郷の様子も、とても気がかりでした。
そんな中、第一志望だった金融機関で内定をもらい、親や親戚からは「安定した企業に就職できて良かったね」と喜んでもらいました。

記憶力がよく、仕事の要領もそこそこ良い方なので、入社してから営業店では、"期待の新人"と呼ばれていました。

入社一年目は、二年目から営業で出るための基礎づくりということで、預金業務と融資業務の基礎・事務を、OJTで半年ずつに分けて学びました。
二年目からは営業になり、自分の担当地区を割り振られました。
もともと、人と話をするのは好きでしたし、そんな自分のことを好いてくれるお客さんも多くいました。
個人事業主や法人先への融資や住宅ローンの借換など、お客さんに喜ばれることに、喜びも感じていました。

しかし、ノルマを達成するために、お客さんが望まない定期預金作成や保険契約、年金受給口座の指定替えなど、自分たち本位のお願いセールスに、疑問を感じている部分もありました。

私の5年間② 〜入社三年目の違和感

ちょっと歯車が狂い始めてきたなぁ…と感じたのは、入社三年目の頃です。

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金融機関の営業は、バリバリ体育会系ノリです。飲み会でのイッキもあるし、夜にプライベートの予定があっても、上司や先輩が「今日、飲みに行くぞ!」と言ったら、キャンセルせざるを得ませんでした。
「お前みたいな細くてナヨナヨしたヤツ、どうせ文系だろ?」なんて言われてましたが、私も高校まではずっと陸上部で、800mを専門に走っていました。
ストイックに自分を追い込んでいくのは好きですが、大人数でワイワイ騒ぐのは、あまり得意ではありませんでした。

普段も、飲み会の時も、上司にゴマをするのが上手い先輩もいましたが、進んでそういうことをしなかったため、上司や先輩から、少し煙たがられていた節はありました。
「元気が足りない。だから、数字も伸びない」
こんなことをよく言われていました。

最初の事件は、入社三年目の4月。新入社員の歓迎会でした。
私の営業店は、毎年男女が交互に配属される店舗で、新入職員の歓迎会は恒例行事となっていて、その席でのことです。

5つ年上で、身長が高く、体格の良い同郷の先輩(工藤さん・仮称)が苦手だった私は、飲みの場で、その先輩を避けて飲んでいました。この営業店に配属されたのは、私と同郷の工藤さんがいるから、という人事部の粋な計らいもあったようです。
しかし、飲み会も終盤に近づいた頃、工藤さんに絡まれた私は、「お前、どこで飲んでたんだよ。課長にお酌しろよ」と、ネクタイをグイと掴まれて引き寄せられ、そのままの勢いで後ろに突き飛ばされました。
勢いよく倒れ込んだので、心配してくれた人もいましたが、その時は酔っていたのもあって、痛みは全く感じませんでした。

一軒目の後も、「次はカラオケだぞ!」と言われ、二次会のカラオケへ移動するためのタクシーを拾うために奔走したりと忙しく、乱暴されたことは頭から綺麗に消えていました。

翌日。朝目覚めると、右脇腹にチクッとした痛み。
その時は、「あぁ、あの時に突き飛ばされて、軽くぶつけた打撲だろ…」くらいに思っていました。

日曜、月曜、火曜と過ごし、若干の違和感を感じ続けながらも、日々の忙しさの中で慌ただしく生活していました。

水曜日。その日は、有給でした。
当時付き合いはじめた彼女が不定休で、休みを合わせての久し振りのデートでした。
アトラクション施設に出掛けましたが、痛みを増す右脇腹。両手を挙げて万歳すると、激しい痛みが走ります。
お昼までは我慢していたのですが、さすがに耐えられなくなり、デートを切り上げて家まで戻り、整形外科に向かいました。

レントゲン撮影の結果は、右脇腹 第6肋骨骨折でした。
医者には「結構痛かったでしょ。なんでこんなに我慢してたの?もうちょっと酷かったら、肝臓とか臓器傷ついてたよ」と怒られました。

さすがに腹が立った私は、営業の直属の上司(課長代理)と、営業課長(豊田課長・仮称、同期と比較すると出世が少し遅く、課長に昇進して初めて配属された営業店だった)に全てを伝えました。
豊田課長は、先日の飲み会の席で私が突き飛ばされたのを見ており、「あの時のやつか?」と言っていました。

その日の営業課の夕礼。
豊田課長は他の営業課員の前で「こいつ、アバラ折れたってよ。重たい荷物とか1ヶ月くらい持てないから、荷物運びとかサボってても気にするなよ」と言い、「俺もスノボで転んでアバラくらい折ったことあるし、大したことないのにな」と付け加えました。

夕礼の後、私を突き飛ばした工藤さんに呼び出され、「お前、あぁ言うことは、まず俺に言えよ。豊田課長に、気を付けろよ!って注意されたじゃねーか。てか、あれくらいでアバラ折ってんじゃねーよ。お前が弱いのが悪いんだよ」と怒られました。

私の5年間③ 〜終わらない日々

肋骨を折られ、その後の対処も含め、会社や職場に対して、強烈にモヤモヤを抱くようになりました。
しかし、営業の部屋ではほぼ無口ながらも、お客さんとの会話・提案は面白く、それがやり甲斐で、会社を辞める選択肢というのは、その時はまだありませんでした。

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その後、私に対して行われた上司・先輩の言動を列挙していきます。
週の半分以上、仲が良い同期と一緒に飲みに行っていたため、みんなでグチをこぼしながらも、サラリーマンの営業なんてこんなもんかなぁ…と思っていました。
少し感覚がマヒしていたのかもしれません。


営業での飲み会の後、私の肋骨を折った先輩・工藤さんに、駅のホームから突き落とされました。

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ちょうど、電車が来ていないタイミングで、ほか一緒にいた上司・先輩が、笑いながら、線路に落とされた私に手を伸ばし、引き上げてくれました。
その場にいた上司は、突き落とした先輩・工藤さんに「お前、危ねーよ。気を付けろよ」と笑いながら注意しました。
私はレールに尻もちをつき、お尻の左側を打撲。10日間程、自転車をこいでいても、デスクに座っていても、痛みに悩まされる日々を過ごしました。


私の営業店では、毎年職員旅行がありました。

その年は箱根で、金曜の夜に大型バスに乗り込み一泊し、翌日に観光して帰って来るという日程でした。
それは、行きのバスの中で起こりました。

私の2歳年上の先輩(野本さん・仮称)は、動画編集が得意で、過去1年間の営業店でのイベント時に撮影した写真をスライドショーにして、持参していました。
バス内に1年間の様々な出来事が流され、みんな笑ったり、しみじみと思い出に浸ったりしていました。
そのままスライドショーが終わるかと思った時、「まだまだ続きます」といったスライドの後に、私の家族写真や彼女と一緒に撮った写真が流されました。
バスの中は爆笑の渦に巻き込まれましたが、私は写真提供しておらず、全く状況理解ができませんでした。

支店長(斎藤一支店長・仮称、本店で営業課長を経験し、支店長に抜擢された人材)が、作成した先輩に「野本、お前、この写真どうしたの?もらったの?」と聞くと、「この前の飲み会の時、こいつがトイレに行った時、テーブルにスマホ置きっ放しで、電源入れたらロックかかってなかったんで、面白そうな写真もらっときました」と、得意げに話すと、「野本、お前すごいな!」と斎藤支店長は再び大爆笑していました。


私の勤める金融機関では、年に一度、お客さんと一緒に行く一泊旅行がありました。

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その年は草津旅行。企画の営業店担当者は私で、斎藤支店長と同行することになっていました。
豪華な旅程ですが、その分旅費が高いのと、町内会の旅行と日程が被ったのとで、なかなか参加してくれるお客さんが集まりませんでした。

私は豊田課長から「旅行での集客率は、お客さんからの人気のバロメーターだ。特に、今回はお前が担当なんだから、お前が一番集めなきゃいけない。しかも、うちの支店は斎藤支店長が同行するんだから、お客さんの人数が少なくて、斎藤支店長に恥をかかせるのか?お客さんでダメなら、親を呼んで数字作れ!」と何度も言われました。

参加するお客さんの名簿を旅行会社に提出するリミットの日。
午前中訪問したお客さんにも、ことごとく断られ、お昼の公園で、私は実家・青森の母親に電話しました。
ちょうど祖母の誕生日の時期も近く、2人で参加してくれることになりましたが、旅行の前日に上京して一泊しないと間に合わないため、東京前泊→草津一泊→東京一泊→東京観光して帰る、という強行スケジュールとなりました。
最終的には、最低人数より数名多い人数が集まり、支店長のメンツは潰さずに済んだようでした。

後から母親に聞いた話、斎藤支店長はバスの中で私の母親と祖母に「今回は、わざわざ青森からありがとうございます。昨日から東京にいらしたんですか?大変だったでしょ?息子さん、いつも頑張ってますよ。彼女もいるみたいで、良かったですね」という主旨の会話を、何度も繰り返し話し掛けて来たそうで、祖母は「不思議な方ね」と話していたそうです。斎藤支店長は、私について話題に出来ることを、それ以外に知らなかったのでしょう。

母親には、突き飛ばされて骨折したことや、線路に突き落とされたことを話しており、バスの中で斎藤支店長に挨拶された時、「こっちが何か言う前に、当たり障りのない不自然な会話で畳み掛けるように話し掛けられ、そそくさと去って行った」みたいに感じられ、すごく不自然だったと言われました。
旅行が終わった後の斎藤支店長は、ご満悦でした。

他にも色々ありましたが、ざっと思い出せる記憶を列挙してみました。

正直、自分が悪いのかな?と何度も悩みました。される側に原因があるんじゃないかと。
しかし徐々に、自分のことを冷静に考えられなくなるほど、日々の生活の中で、精神的に追い詰められていきました。

私の5年間④ 〜辞表提出

一番最初に身体に起こった変化は、朝、目覚ましで起きられなくなったことです。

もともと、朝の目覚めは悪い方でしたが、どんなに爆音で複数の目覚ましをセットしても、目覚ましに気づいて起きられなくなりました。
また、家を出る直前には、必ず激しい嘔吐と下痢が襲ってきました。
しかし、その日に約束しているお客さんのことを思うと、出勤しないという選択肢は自分の中に無く、重い身体を鼓舞して出勤していました。

私の勤めていた営業店には"若手の営業課員は、職員通用口を開錠する8時前に出勤して、店舗周辺の掃き掃除をする"という暗黙のルールがありました(始業時間は8時半)。
しかし、上記のような状態だったので、走って駅に向かって電車に乗り、駅から営業店まで走って向かう日々が続き、8時ギリギリに到着するのが精一杯でした。

当然、先輩たちは先に来て掃き掃除をしているため、面白くなく、毎日のように、支店長や豊田課長から「どうして朝早く来られないのか?」と叱責を受けました。

呼び出しを受け、「どうしてあと10〜15分早く出勤して、掃き掃除が出来ないのか?そんなに難しいことか?」と問われ、私は、自分の現状ありのままを伝えました。
すると、「朝起きられなかったり、吐いたりするのは、営業なら誰しも通る道だ。そんなの言い訳にしていたら、社会人として失格だ。朝、先輩たちと同じように掃き掃除すら出来ないなら、辞めてしまえ」と言われました。
いつも最後に、「どうする?会社辞める?明日から早く来る?」と詰め寄られ、自信がないながらも「明日から早く来ます」と答えるのでした。

夜は、翌朝に怒られるのが怖く、寝る前に何度も心の中で「明日は早く起きて出社する」と反芻します。結局、そのことばかり気になり、よく眠れぬままに朝を迎えてしまうのですが…。

約束をした翌日や翌々日までは何とかなっても、4日目には元に戻ってしまい、文字通り三日坊主でした。

最終的には、ほとんどの職員が通用口の前に集まって解錠を待っている7時55分に息を切らして到着。
みんなの前で「朝来れないようなヤツは辞めちまえ!明日の朝、早く起きれるように今日はもう帰れ!」と豊田課長に怒鳴られるのが日常風景になっていきました。

その後、精神科に通い始めてから、医師に話しをすると、朝起きられなくなるのはうつ病の兆候、と言われましたが、当時の上司・先輩からしたら、そもそも"うつ病になること自体が社会人として失格"だったのかもしれません。

そんな状況下で、さらに追い詰められるような事態が続きました。
二個下の男性後輩の退職です。

私の会社では、男性の新入社員は二年目から営業担当になり、女性の新入社員は二年目から預金窓口の担当になるのが、オーソドックスなパターンでした。
しかし、私の次に営業に上がるはずだった二個下の後輩は、私がパワハラを受けるのを見るうちに、営業になるのが怖くなり、人事発令の直前に辞表を提出し、退職してしまいました。

そのタイミングの退職では、代わりの人事異動もままならず、その年の営業課は一名欠の状態でスタートしなくてはなりませんでした。
当然、空白地区が1つできました。
そこで、様々な要因が重なり、白羽の矢が立ったのが、私でした。

「不甲斐ないこいつも、重点地区を担当すれば、少しは自分の仕事に責任を持って頑張れるだろう」という支店長の計らいで、それまでの担当地区から、店周地区に担当替えの予定でした。
しかし、たまたま空白地区になったのが、私が過去に担当経験のある地区。
地区を分割したり、引き継ぎをする時間的な余裕もない…。
前年の店舗業績はあまり良くなかったため、4月からの獲得目標のスタートダッシュは必然…。

ということで、私が以前の担当地区も含めて、二地区を担当することになったのでした。
担当地区が広がり、ルーティンだけで1日が終わってしまう程、スケジュールは埋まってしまいましたが、もちろん与えられるノルマも増える。
昼食を摂る時間もなく、自転車をこいで駆けずり回るため、体重は激減。
お客さんに「体重減った?」と心配されるほどでした。

営業店には食堂があり、毎月の給料から7,000円天引きされる代わりに、11時〜14時の間で昼食が用意されていました。
しかし、その時間に食堂に行けないため、昼食を摂れないことが多く、それでも夕方には空腹に耐えられなくなってしまい、コンビニでおにぎりを1〜2個買って近くの公園で流し込んでいたので、昼食代も2倍かかりました。

続く執拗ないじめ、自分ではどうしようもない朝の時間、回っても回り切れない担当地区…。
自分の限界を感じた私は、たまたまその時の支店長(お客さんとの旅行に行った際の支店長は異動し、別の人)と同行でお客さん訪問した帰りに、支店長に辞表を提出しました。
社会人四年目の夏のことです。
本来なら、直属の上司である課長代理や豊田課長を通すのが筋ですが、もはや信頼のカケラすらなく、直接、支店長(この時期には支店長も異動していたので、斎藤一支店長・仮称とは別の支店長)に提出しました。

支店長は差し出された辞表に驚くも、営業店の人員が不足していて、辞められると困ること、今我慢すれば時が解決してくれることもある、と受取りを拒否されました。

その後、私が辞表を提出しようとしたことが豊田課長の耳に入り、「順序がちげーだろ!」と怒られ、先輩たちにも「こいつ、会社辞めたいんだってよ!」と大声で言われました。
当然、私への当たりは、一層強くなっていきます。

私の5年間⑤ 〜限界

辞表を提出するも拒否され、自分の限界を感じながらの苦痛な日々が続きました。

朝起きられないのは変わらず、8時ギリギリに出社すると「お前なんか辞めちまえ!朝起きられるように、今日はもう帰れ!」と怒鳴られながらも、実際には辞めさせてもらえない日々が続きました。

そして、忘れもしない、2016年12月29日。

その日を含め、あと2日出社すれば正月休み、という日の朝。

私の身体は限界を迎えました。

電車の中でも、意識が朦朧としていましたが、「あと2日頑張れば…」と自分を鼓舞し、つり革にぶら下がっていました。
最寄駅で降車し、改札を抜け、地上階に上がるためのエスカレーターに乗ろうとした時、瞼の上からゆっくりシャッターが降りるように、目の前がすーっと暗くなっていきました。
エスカレーターに乗るのは危ないと咄嗟に判断し、近くの壁に寄り掛かると、全身から力が抜けていき、目の前が真っ暗になり、その場に崩れ落ちました。

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駅員さんが駆けつけ、遠くで呼びかけていましたが、あまり覚えていません。
自分が救急搬送されている救急車のサイレンが、遠くで鳴っていました。

その日は点滴を打って帰宅し、翌日は有給をもらいました。
その年の正月は全く記憶にありません。実家にも帰れず、部屋で一人で過ごしていました。

異変があったのは、初出勤の2017年1月4日。
前日に、明日から出勤だなぁ…と布団に入って目を閉じて、次に目を開けたのが、翌日の夕方6時でした。

無断欠勤を一応心配した豊田課長がお昼頃に私の住まいまで来て、インターホンを鳴らし続けていたそうですが、全く気付きませんでした。
心配した支店長が、倒れたり死んでいると困るから部屋に入りたいと、不動産屋に連絡するも、両親の許可なく部屋には入れられないと、実家の両親に連絡がいき、母親から何度も携帯に着信が入っていました。

あと一回鳴らしても出なかった場合は、不動産屋さんのスペアキーを使って部屋に入ることになり、母親が最後のワンコールをした時に、ようやく目を覚まし、電話を取りました。

母親は、電話口で「よかった…。よかった…。」と泣いていました。

部屋のドアを開けると、外には支店長と不動産屋さんが突入体勢で待機していました。
支店長からは「正月開けで、まだ取引先もそんなに仕事始まってないから、ひとまず明日もゆっくり休んで、病院に行け」と言われました。

私の5年間⑥ 〜退職まで

精神科を受診し、「パニック障害」と診断され、「2ヶ月間の休職を要する」という診断書をもらった私は、2017年3月末を以って退職できることになりました。

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診断書には「動悸を訴え平成29年1月10日初診。」とありますが、当時、常に自分の心臓の音が大きく聴こえ、「耳元で心臓が鼓動しているような感じがする」と言って受診したのを記憶しています。心臓の音が異様に大きく、そのことがとても不安でした。

しかし、3月末までは会社に籍を置く事になるため、書類関係の引き継ぎをするために出勤し、引き継ぎ作業を行うことと、毎朝8時、豊田課長宛に電話をし、その日のルーティン業務を伝える、という条件でした。「休職とはいえ、給料貰ってるんだから、それくらいは当然だろ。ただでさえ忙しいのに、仕事増やしやがって」と豊田課長に舌打ちされながら、告げられたのを覚えています。

引き継ぎに関しては、「お客さんの前には出せない状態」と判断されたため、机上の引き継ぎのみで、"体調の良い日に半日でも可"という条件で出勤する事になり、引き継ぎ書類作成を行いました。
2〜3回の出勤で終わるだろ、と思われていたようですが、結局1週間かけて引き継ぎ書類は完成しました。
担当していた件数が多かったためですが、引き継ぎ資料を見て初めて「お前、こんなに地区広かったんだな」と言われました。

そして、一番辛かったのは毎朝の豊田課長への電話引き継ぎです。
これは、退職するまでの3ヶ月間、毎日続きました。

電話をすると、豊田課長は面倒臭そうに受話器を取り、「はい、はい。今日はあれもしなきゃいけないのに、余計な仕事増やしやがって…」と言いながら要件を聞き、「もう終わり?終わり?いーよね、じゃぁね、お元気で、はーい」と言って、ガシャン!と思い切り強く受話器を置いて電話を切りました。
ガシャン!という音が耳に残り、脅迫されているような気分になって怖くなり、何度も嘔吐しました。
電話の後、半日以上体調不良が続いたことも、何度もありました。医師からは後日、休職期間中にもかかわらず、そんな事を義務づけするのは普通ではない、全く療養になっていない、と言われましたが、あの人たちにとっては、自分達とお客さんとの関係を維持できれば、私がどんな状態になっていようと、そんな事どうだって良かったのでしょう。

電話引き継ぎと精神科への通院を3ヶ月続け、なんとか退職の日を迎える事ができました。

その日、会社からもらった「雇用保険被保険者離職票」の退職事由の欄には「(個人的理由で)転職」と書かれてありました。

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(ハローワーク提出時、担当者に事情を説明し、直筆で「体調不良」と加筆しました。)

退職してからは、精神的に不安定な日が続き、電車にも乗れず、日中外に出ることもままならず、夜になると行きつけの飲み屋で飲み歩き、記憶を無くして家に帰る…といった日々でした。

手や足から血を流して帰ったり、頭をどこかにぶつけて血を流し、叫んだこともあります。
突然、何かに襲われるような妄想に取り憑かれ、「殺してやる!殺してやる!」と喚き散らし、近所の人に通報され、警察が来たこともありました。

辛い日々が続きましたが、そんな日々の中に居続けることも怖くなり、「もう少し体調が良くなるまで、待った方がいいのでは?」という医師や母親の忠告を振り切って、転職活動を開始。2017年7月1日から、現在の会社で働き始めました。

最初は、休みがちで迷惑をかけてしまいましたが、それでも事情を理解してくれ、辛抱強く回復に期待してくれたおかげで、今では、楽しく元気に仕事をしています。

さいごに

辛い5年間で、29年間の短い人生の中でも印象深い期間でした。
しかし、金融機関で働いていたからこそ、出会えたお客さんも多く、そこで得られた経験は、何物にも代え難い宝物だと感じています。
また、辛い経験を自分がしたからこそ、他の人には同じような思いをして欲しくない、とも強く思います。

いじめ・パワハラは自分の意図している、していないに関わらず、意図せずして加害者になってしまっているケースもあります。

今、同じように悩んでいる人がいたら、この文章が、勇気ある行動を起こすための後押しになること、それだけが願いです。

大丈夫。

悩んでいるのは、あなた一人ではないのだから。

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※本ブログの内容は、私が働いていた営業店での体験であり、その他同社の営業店および、その他の金融機関については、この限りではありません。
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