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意味忌み編み

こころ、なんて言葉がある。こころは幼い頃はよく=心臓と捉えられがちだが、あくまで血液を全身に送るの器官であって感情が生まれる場所ではない。

でも不思議な事に嬉しければ心が飛び上がるように跳ねているような気がするし、悲しければキリキリと締まるような気もする。生きることだけを考えれば不要な機能なのに人間の身体って面白いなーと思う。

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先日、自分がやっていないことに対して懐疑的に捉えられることがあった。

驚きと共に腹の中に落ちるものがあった。例え僕自身がそんな事ない、と言ったとしてもそれは物理的な証拠にはなり得ないし相手からしたらそれが事実がどうかなんてわからない。そんな当たり前の事実をすっかり忘れていたようだ。

言葉は事実にはなり得ない。言葉を解釈した文脈が相手の中の事実になるのだと思う。

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仕事柄データをまとめて分析、プレゼンする事が有る。そこで出てくる数字や事実は、それ単体では意味を成さない。

例えば僕が調べたデータを資料に貼り付けただけでは相手は何を伝えたいかがわからない。その調べたデータを用いて何をしたいのか?や何が起きうるのか?を伝える。それらのデータは文脈を持って初めて意味を成す。

これは言葉においても似た性質を持つと思う。

疲れた君がひたすら海をみるための
小さな白い椅子でありたい

齋藤芳生

このフレーズをそのまま受け取るとただ白い椅子になりたい願望でしかない。しかし、"椅子のようになくてはならない存在であり、ただ側に居続けたい"という文脈を含める事で初めて愛の言葉という事がわかる。

日常においても同じような場面は存在する。
例えば「可愛い/かっこいい」と発したとして、その言葉に"愛している"なんて言葉を発せない照れ隠しの気持ちが含まれているのか、マスコット的に愛でる気持ちが含まれているのか、はたまたアガペー的な愛なのかは言葉の送り手から受け取り手へと文脈が委ねられる。

言葉の意味と事実はたびたび比例しない。それはつまり送り手と受け手で同じ意味を共有しているとは限らないのだ。

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痛いから発したはずの言葉が、なんだか言葉にすることで痛くなるような気さえする。
僕らは言葉の背景を捉える事に慣れすぎたが故に言葉をそのまま捉えることが難しくなってしまったのかもしれない。

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