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「アンブローシア・レシピ」第10話

1914年10月3日(6) ケンブリッジ

 サイモン・エイプリルはその日の午後、ひたすら主人であるオリバー・モーガンの書斎にあるはずの書類を探し続けていた。
「どうだ? は見つかったか?」
 ロンドンからわざわざケンブリッジまで様子を見に来たサイモンの上司は、床に書籍や紙束が散らばった書斎の惨状を確認すると皮肉を込めて尋ねる。
「おいおい、アシュレイさんよ。これが探しものを見つけたように見えるか?」
 くわえた煙草にマッチで火を点けながらサイモンは言い返す。
 日が暮れて室内は肌寒くなってきていたが、シャツの袖をまくり上げた彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 この屋敷の主人は四日前に毒をあおり、現在も意識不明の重体だ。そして、今日の午前中に入院していたケンブリッジの病院からロンドンの病院に転院した。彼の妻はロンドンの病院に付き添って行き、今朝までこの屋敷で働いていたメイドは解雇された。
 屋敷でたったひとり留守番を任されたサイモンは、瀕死の主人が残したはずの書類一枚を半日経っても見つけられずにいる。
「見えないな」
「だろう? もしかしたら、教授は大学の研究室に重要な資料はすべて残しているんじゃないのか?」
 紫煙をくゆらしながらサイモンは肩をすくめる。
 日没後にカーテンを閉めた部屋はランプを灯しても薄暗く、足下の書類の字も読みづらい状態だ。
「研究室はライオネルに探させたが、それらしい物はなかったそうだ」
 書斎の隅に帽子をかぶったまま悠然と立つアシュレイと呼ばれた三十代半ばの男は、サイモンを睨みながら答えた。
「それに研究室の学生によると、教授は処方箋を肌身離さず持ち歩いていたという話だ」
「財布、名刺入れ、鞄、すべての上着やズボンのポケットなどを確認したが、見当たらなかった。机のひきだし、本棚の本の間、手紙の封筒、便せん、はがきの中に混ざっている可能性も考えてすべて一枚一枚確認した。さらに絨毯の下、靴底の下、屑籠の中まで探したというのに処方箋らしきものは隠されていなかった」
「壁紙の裏、椅子の底、床板の下はどうだ」
「そこまで探すなら、解体業者を呼んでくれ。それに、そんなところに隠したら、教授自身が毎日取り出して持ち歩くのが大変だろうよ」
 部屋の中を見回しながらサイモンがぼやく。
「研究室の学生の情報がどこまで信用できるかがそもそも疑問だな。本当にあの不死薬の処方箋を教授は持ち歩いていたのか?」
「不死薬の処方箋をモーガン教授が『灰の円環』のロッジから持ち出したことは間違いない」
 アシュレイは落ち着いた口調でサイモンに告げた。
「大学の研究室の学生のひとりが、半年ほど前に教授から不死薬の処方箋を手に入れたという話を聞いている。教授はそれが本物であると言っていたそうだ。その処方箋をもとに霊薬を調剤すると意気込んでいたようだ」
 サイモンが吸う安物の煙草が放つ臭いに顔をしかめたアシュレイは、そこで口を閉じた。
 上司の説明を傾聴したサイモンは、もう一度書斎をぐるりと眺める。
 重厚な本棚にぎっしりと収められた専門書の数々、机の上に山積みにされた論文や雑誌、薬品棚の中に並んだ茶色の薬品瓶。暖炉の上に飾られている置き時計。黒檀で作られた机と椅子。床に敷かれた美しく上品な幾何学模様のペルシャ絨毯。この書斎の主人が壮健だった四日前までは、部屋の調度品のすべてが整然と並んでいた。
「しかし、あの処方箋が警察の手に渡ったら、途端に我々の立場が悪くなる。教授の服毒事件に『灰の円環』が関与していると疑われかねないからな。本当に不死薬の処方箋に関する書き付けなども残っていないのか?」
「それらしき物は一切見当たらない。もっとも俺は、英語以外で書かれていたら内容は正しく読めないけどな」
「処方箋はラテン語で書かれている」
「そんなもの読めるか!」
 投げやりな口調でサイモンが叫ぶ。アシュレイは組織の中では上席だが、お互い普段からかしこまって会話をすることはない。
「しかし、スミス商会が絡んできたとは厄介だな」
 床に散らばった本を見下ろしながらアシュレイが舌打ちする。
「スミス商会って、結局のところなんなんだ?」
「雑貨屋だ。依頼人から注文された物がこの世に存在する物であれば、どんな手を使ってでも用意して届けるのがスミス商会だ」
「なるほど」
「どうやら、我々の依頼人はできるだけ早く不老不死の霊薬を手に入れるために、スミス商会にも発注したらしい。それでスミス商会は、学閥内では以前から不老不死の霊薬を研究していることで密かに知られているモーガン教授に接触したんだろう。とにかくまずは教授が入手したという不死薬の処方箋が、本部に保管してあったであるかを確認する必要がある」
 アシュレイの説明に、サイモンは軽く眉を動かした。
「そんなに依頼人が急いで薬を欲しがっているということは、余命わずかってことか?」
「そのようだ。ただし、依頼人自身が、ではない」
「というと?」
「依頼人は隠したがっているが、実際に薬を必要としているのは、ある国のやんごとなきお方らしい。なかなか目的の物が手に入らないため、依頼人はあちらこちらの錬金術師や魔術師を名乗る者たちにも声をかけているようだ。さらに、霊薬の入手が難しい場合に備えて、錬金術師オルダス・マインも探しているそうだ」
「オルダス・マイン?」
「『灰の円環』設立メンバーのひとりである錬金術師だ。不老不死の霊薬を作り上げたと言われている。ただ、五十年ほど前にロンドンから姿を消している」
「錬金術師ねぇ。しかし、設立当時って言ったら百年以上前だろう? とっくに死んでいるんじゃないのか?」
「真偽のほどは不明だが、錬金術師オルダス・マインが『灰の円環』の本部で長らく保管されていた不老不死の霊薬の処方箋を書いた人物と言われている。オルダス・マインがその霊薬を飲んだかどうかはわからないが、もし霊薬を飲んでいたら不老不死を得てまだ生きている可能性がある」
 アシュレイが錬金術師の存在を信じているのかいないのかは、その抑揚のない声音からサイモンが判断することはできなかった。
 サイモンが黙って煙草の煙を吐き出すと、アシュレイは話を続けた。
「『灰の円環』に残っている情報によると、オルダス・マインはエジプト生まれの錬金術師で、不老不死の霊薬『アンブローシア』の処方箋を書き上げた人物だ。年齢、性別は不明。『灰の円環』のメンバーのひとりが、十五年ほど前にアフリカのケープタウンでオルダス・マインらしき人物を見かけたそうだ。そのメンバーは五十年ほど前に『灰の円環』の本部で一度だけオルダス・マインに会ったことがあって、顔をぼんやりと覚えていたそうだ」
「五十年も経っていたら、錬金術師だってかなり顔が老けているんじゃないのか?」
「それが、まったく老けていなかったそうだ。ただ、近くで見たわけではないので、他人のそら似ということも有り得る。もしくは、オルダス・マインの子孫ということも」
「その錬金術師は黒人か?」
「いいや。肌は白いそうだ。ケープタウンの港からロンドンへ向かう船に乗るところを見かけたそうだ。十五年前といえばボーア戦争で南アフリカが混乱していた時期だから、戦火を避けてこちらに戻って来た可能性がある。オルダス・マインは17世紀のフランス革命時にパリからロンドンに移ってきて、その後ロンドンを離れた後は世界を転々としているらしい。オルダス・マインのそくせきはたどれるが、それが本当にオルダス・マインかどうかはわからないというところだ」
「なるほど。で、どこかの国の貴人が瀕死だってことで、その錬金術師が書いた処方箋による不老不死の霊薬を作って、貴人を生き長らえさせようって計画なわけか。さぞかし大金が積まれるんだろうな」
「もちろん、そうだ。ただ、さすがに錬金術師でも死者を生き返らせることはできない。あくまでも霊薬は延命措置だろう」
 サイモンは机の上に置いてあった大理石の灰皿に煙草を押しつけると、両手を天井に向けて突き上げ伸びをした。
「いくら金を出しても治せない、不治の病ってわけか。気の毒なことで」
 医者が治せない病なら、いちかばちかで不老不死の霊薬にすがろうという気持ちはサイモンもわからないではなかった。依頼人がどこの国の貴人と繋がっているかなど、彼は詮索するつもりはなかった。彼の興味はあくまでも報酬の金額だ。
「教授が毒を飲む前に訪ねてきた客がなにか知っていたかもしれないのに、正体不明ときたもんだ。しかもジョン・スミスなんていかにもな偽名を名乗りやがって」
 新たに火を点けてくわえた煙草の先から灰が落ちていく様を見つめながら、サイモンがぼやく。
「ジョン・スミスはスミス商会の連中が使う名前だ。男は全員がジョン・スミス、女はジェーン・ドゥと名乗ることが決められている」
「なるほど。だったらますます面倒だな」
 サイモンが呟くと、アシュレイも首を縦に振って同意を示した。
「しかし、オルダス・マインって名の錬金術師がロンドンに渡るのを見かけたのは十五年も前なんだろう? もうとっくにインドやアメリカに行ってるかもしれないじゃないか」
「ところが、どうやらそうでもないらしい」
 アシュレイは書斎の扉を開けると、廊下に煙草の臭いを追い出しながら告げた。
「オルダス・マインはまだこの英国に潜んでいるという情報がある」
「へぇ? しかし、写真はないし、男か女かもわからないんだろう?」
「男だという話だが、もちろん女が男装している可能性も否定はできない」
 アシュレイの答えに、サイモンは憮然となった。結局は性別すらわからないということだ。
「まぁ、錬金術師探しはそっちでやってくれ。俺はもうすこしこの屋敷の中で処方箋を探してみる。教授が毒を飲む直前に訪ねてきた男が持って行ったって可能性もないわけじゃないが」
「サイモン。教授の書斎にジョン・スミスを通した自分の失態は棚に上げる気か?」
「仕方ないだろう? スミス商会なんて知らなかったし、見たことがない顔でも訪問客はひとまず教授に取り次ぐことになっていたんだ」
 俺のせいじゃない、といった口調でサイモンは反論する。
「そういえば、ライオネルはなにしてるんだ? 暇なら、ここの家捜しを手伝って欲しいんだが」
「あいつには、ロンドンで別の仕事をやらせている」
「もうロンドンに戻ったのか。錬金術師探しか?」
「関連の仕事だ」
「ふうん。それにしても相変わらず人使いが荒いな。働きづめのライオネルに同情するよ」
「君も明日の午後にはロンドンの本部に戻れ。丸一日探しても見つからないなら、これ以上は時間の無駄だ」
「はいはい。承知しましたよ」
 サイモンが頷くと、アシュレイは靴音を立てずに書斎から姿を消した。
 上司が屋敷の玄関から出て行く音を確かめ、短くなった煙草を灰皿に押しつけたサイモンは、また新たな煙草にマッチで火を点けながら机の上の書類に視線を向ける。
「不死薬の処方箋じゃないものはいろいろ見つかったんだけどなぁ」
 それはある病院の医師が書いたオリバー・モーガンの病気の診断書と、処方された薬の内容が記されたものだった。そこにはオリバー・モーガンが末期の胃癌であることが書かれている。
 また、オリバー・モーガンの日記には、医者から手術などで腫瘍を摘出することは難しく、余命が一年未満であると宣告された、と書かれていた。日付は今年の2月だ。その後、オリバー・モーガンはそれまで趣味で研究していた霊薬づくりに熱心に取り組むようになっている。
 診断書や日記はすべて書斎の隠し金庫の中に入っていた。サイモンが徹底的に書斎の中を探さなければ出てこなかった物だ。
 オリバー・モーガンは病気のことを家族に隠していた。
 彼の妻や、この屋敷で二年ほど働いていたメイドは、彼が病気であることを知らない。
 サイモンも主人の病気はまったく知らなかった。彼が霊薬研究に情熱を傾けていることは知っていたが、それは金か名声目当てだろうと思っていた。
 オリバー・モーガンはサイモンに霊薬研究を多少手伝わせていたが、妻には研究について一切喋らないようにと言われていた。研究に私財を投じていることを妻に知られれば都合が悪い、というのが口止めした理由だったが、どうやら彼は自分が霊薬を必要とする理由を妻に知られたくなかったらしい。
 半年ほど前の日記には『霊薬の処方箋が手に入った。これで病気が治る』とだけ書いてあるが、どこで手に入れた物かなど詳細は記されていない。そして、彼が手に入れたという処方箋もこの部屋からはいまだ見つからない。
「これだけ探しても見当たらないということは……こういうことだろうな」
 サイモンは煙草をくわえたまま暖炉に向かうと、石炭の燃えかすが残る暖炉の中を覗き込む。
 そこには焼け焦げた紙の残骸がわずかにあった。事件の当日は、まだ暖炉に火は入れていなかったが石炭は用意されていた。
 サイモンもオリバー・モーガンが倒れたときは暖炉にまで気を回せなかったので、今日になって初めて燃え殻に気づいた。
 オリバー・モーガンが毒をあおる直前に暖炉へどんな書類を放り込んで燃やしたのかは不明だが、ジョン・スミスの来訪がきっかけになったことは間違いないはずだ。
「見事に燃え尽きているからなぁ」
 燃え残りを指で摘まんでみると、小さく文字が綴られているのがかろうじて判別できたが炭化しており読めなかった。
 サイモンは頭を抱えたい気分だった。
 暖炉の中でほとんど炭と灰になっている物を睨みながら彼がため息をつくと、指先の紙片がぼろりと崩れて絨毯の上に落ちた。


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