見出し画像

第6回(第二期三回)「現実はアニメーションであり、ヒトはアニメーションになりつつある?」 ~世界認識のモデルとなるアニメーション表現の今~ 2014年12月14日 登壇者:土居伸彰×吉田広明×七里圭

七里:今日は、霰とか雹が降ってたようですが、悪天候の中、どうもありがとうございます。すみませんなんか、どうも暗い気持ちで始めてしまっているのは、選挙が…(笑)第六回、今日はアニメーションの研究及びプログラマーと、ご紹介したら良いでしょうか。土居伸彰さんをお招きいたしました。
(拍手)
七里:で、映画批評の吉田さんです。
(拍手)
土居:僕が扱っているのは海外のアニメーションの短編や長編作品だったり、あまり日本では紹介されてないような作品が多いんですけど、その状況をパッと見渡してみると、まあハッキリ言って、アニメーションの人達にとってデジタルってもう「善」ですよ。「悪」ではない。デジタル化によってもたらされたものが非常に大きい。で、僕がアニメーションを通じてずっと考えていることがあって、「人間」って色んな時代によって定義が変わったりするじゃないですか。昔は人間じゃないひとが…生物的には人間だけど人間と認識されない事態が歴史を通じてあったりする訳じゃないですか。後から詳しく話すと思うんですが、デジタル化によって、アニメーションが、現状において、対等な人間としてみなされていない人たちを人間化するっていうことを行なっていたり。僕はそのことはデジタル化によってアニメーションが良くなった一つの大きなポイントだと思うんですけど。一方で、逆にデジタル化が、社会自体において本来人間であった人たちを人間でなくしてるというか、本来人間としての個という地位を持たしていたものをそうじゃなくしてきている…要するに、非人間を人間にする方向があって、キャラ萌えとか擬人化とかっていうのがたとえばそうですし、でも、人間じゃないものを人間にしちゃう代わりに、人間を人間でないものにしている状況も出てきてるというような。そういう状況に反応してる作品というのが、アニメーションですごく増えてきたな、ってことをずっと僕は考え続けています。
七里:それは最近の傾向なんですか?
土居:最近特に顕著になってきてると思います。前回出演させてもらったときにスカイプでも話したんですけど、僕はそもそもロシアのユーリー・ノルシュテインというロシアのアニメーション作家の、特に『話の話』という一九七九年の作品だとか、あとはNFBという短編アニメーションとドキュメンタリーに特化しているカナダの国営スタジオがあって…
七里:あ、山村(浩二)さんが…
土居:はい、山村さんが『マイブリッジの糸』を作ったスタジオなんですけど、まあそういうところの作品だったりとかを観ていると、一九七〇年代くらいから、そういうことは言えるよな、とも思ったり。
七里:ああ、それがその、リアリティの変容にデジタルが寄り添ってきて、技術が追いついてきているっていうか、
土居:近年、デジタル化された際のアニメーションのいくつかの傾向っていうのがあるんですけど、アニメーション・ドキュメンタリーも含めて、最近の傾向の作品が持っているリアリティ、つまりデジタル時代のアニメーションが描いているリアリティが、ノルシュテインとかNFBの人たちのリアリティにすごい直結するっていうところがあって。
吉田:うん、もう一回ちょっとこちらの論点とあわせながらちょっと整理させていただきたいんですけど。あの、こういう『表象』っていう雑誌があって、東大の表象文化論学会で出してるものですけど、ここでアニメーションを特集した時に土居さんが…。
土居:はい、僕が特集の責任編集をやらせてもらって。
吉田:責任者になられていて、そこで巻頭にちょっと軽くどういう論文が載っているかということを説明されている中で、アニメーションの傾向っていうか…大雑把にまとめちゃいますけど、アニメーションって元々、非常に現実とは違う反現実的な表現ができるものであって、それが非常に二十年代とかにエイゼンシュテインとかベンヤミンなどの哲学者に非常に注目された。
土居:それは要するに、今とは違う世界があり得るんじゃないか、物理的な現実とかにとらわれないような違う世界のあり方があるんじゃないか、っていうような、まあユートピアの話とつながってくるんですけど。
吉田:例えば飛行機が、この中で細馬宏通さんがあげてくれたレーダーと飛行機がいっしょにオケツの方から入っていって口から出ていっちゃったりとか、そういう物理的にあり得ないような世界をアニメーションは表現できるっていうことがあって、まあそういう可能性がひとつあったと。それは夢の世界を構築するということであり、それを突き詰めちゃったのがディズニーであって、そこで、ディズニーっていうのは現実とは全く別な夢の世界を構築するっていうよりは、現実を上回る形で…そういう風に土居さんは仰ってますけど。
土居:「完璧な現実」みたいな形で。
吉田:そうですね、現実の上位にあるロールモデルとして、という風に仰ってますけど。
土居:異世界的かつモデルでもある世界をアニメーションにするっていうような。
吉田:要するに、アニメーションが現実を包み込んでいる状況、っていうことなんですよね。とすると、これって割と僕らがマノヴィッチとかを介して考えている、アニメーションにも全部の動画が組み込まれてしまっていると、全部がアニメーションの中にある、という世界観にかなり近いような気がしてて。
七里:あのー、話がいきなりハイテンションになってる気がして(笑)
土居:そうですね。
七里:まず、「例」を観てみませんか。

土居:そうしますか! そもそも、今回お話をいただいて、講座に関連するテキストとかを読ませてもらって、デジタルによって映画が「映画みたいなもの」になった、いままでとちょっと違うな、となった話とか、あと七里さんが言われている、「映画って切り取るもんでしょ」、みたいな話とか、
七里:切断。
土居:切断ですよね。それとか、映画とは構成するものであるという話をすごくされていたと思ったんですけど、そういうところで「おっ」と思ったんですね、僕は。それは二〇一一年に作られたある人形アニメーションに対するアニメーション界の評価にすごい似ているな、と。
七里:それは批判的な評価だったんですか?
土居:両方なんですね。
七里:賛否両論あったと。
土居:はい。でも、なぜこれがすごく良いのかってことについてはそんなに言葉は費やされていないんですけど、抵抗はすごく感じるって人がいたんですよ。
七里:ああー。
土居:この作品の果たして何が良いのか、っていう。批判にはいくつかのキーワードがあって。「子供っぽい」とか、「なんのひねりものなくてそのまんまじゃん」とか。しかもそれは、今まで巨匠と言われてた方たちが言っていた。
七里:それってこう、今どんどん話を聞いちゃう方が良いかな?
吉田:まあ、観てからが良いでしょうね。
土居:観てからにしますか。
『オー、ウィリー』という十六分くらいの人形アニメーションですね。じゃ、特に何の前置きもなく流してしまいましょうか。

〜『オー、ウィリー』上映~

土居:ていうような、はい、作品なんですが。
七里:なんでこんな、泣きそうになるんだろうね。
土居:そうなんですよね。それが結構なポイントで。この作品が、この講座の第一期の話とか、吉田さん、七里さんの話を聞いて見せてみたいと思ったのはなぜかというと、この作品を否定的にとらえる人達がどう言うのかといえば、そのままじゃん、何も無いじゃん、ていう話をするんですよ。
吉田:何も無いって…。
土居:あと、「切断」という話からすると、よくみるとすっごくちゃんと構成されているんですけど、一見もう全てがファジーに、あらゆるレベルのものがずーっと一続きになっていくような時空間をやっているわけじゃないですか。宇宙空間だったりとか、そういうものを全部一続きにしていて。これ、要するに、ここに映ってることが全て、であって、この背後に何があるって話じゃないですよね。
七里:それって、アニメーションはこうあるべきっていう今までの価値観からすると…。
土居:違うと。で、僕なりに色々とじゃあ、そういうふうな意見を言わせてしまうアニメーション界の無意識って何だろうって思ったんですけど、基本的にアニメーションって、海外の文脈だったり、とりわけ人形アニメーションがすごくよく作られていた東欧の国営スタジオの文脈からいくと、「象徴」なんですよね、アニメーションって。要するに、検閲とかもあるから。
七里:社会主義国だった、ということもひとつあるんですかね。
土居:そうなんです。「ライオンと歌」という(ブチェチスラフ・)ポヤルというチェコの作家の作品があって、アヌシーっていう世界で初めてのアニメーション映画祭の第一回大会でグランプリを取った作品なんですけど、これなんかは、動物と仲良しのアコーディオン弾きのところにライオンが来て、ライオンはアコーディオンの音色に全く誘惑されずに彼を食っちゃうんですよね、アコーディオン弾きを。で、アコーディオンも食べてしまったからお腹のなかでずっとアコーディオンが鳴り続けて、その後もう狩りができなくなって死ぬっていう話。で、ライオンが白骨化するとアコーディオンが飛び出してきて、新しく来たアコーディオン弾きがそのアコーディオンを弾いていくっていう話で、これって明らかに、明白に象徴じゃないですか。要するに「芸術」と「権力」ってものがあって、権力には芸術は理解できないけど、芸術は最終的には勝つんだ、みたいな。
七里:ああ、やっぱ反体制的な表現をするための隠れ蓑だったりとか。
土居:そうですね。はい。語られていることの裏がある。で、『オー、ウィリー』の話に戻ると、この作品、二つの意味で面白いなと思うんですよ。ある意味で崇高さというか圧倒される感覚みたいなものがずーっと続くわけじゃないですか。その中で、奇跡のようなことが起こりつづけるっていう話。
七里:この生々しさ、何なんですかね。
土居:そう、この作品、僕はやっぱり非常にリアリティの変容とすごく関わっていると思うんです。社会主義圏の基準からすると、象徴じゃなくてもう「そのまんまじゃん」て話に見えてしまう…
吉田:でもまあ、人形アニメって全部がそういうもの、共産圏的な権力とかを象徴しているものだったってわけでもないんじゃないか。そういうものだったんですかね?
土居:ベーシックな部分として、そういう価値が共有されていると思います。現実に、この作品を嫌だと言っている人もいますし。この作品にはある種の社会的なメッセージとかそういったものは全くなくて、ただ単に状況を受けている登場人物がいるだけ。社会性みたいなものが排除されている。実際にはこの作品、設定をいろいろ隠していて。本当はイエティも子供を亡くしているっていう設定なんですよ。ただ、それは最終版ではカットしていて。
吉田:それは何となくわかるような気がするよね。
土居:それが明示されないようにすることで、全てがある意味で夢のようにみえるし、というような形にしている。共産圏の話の関連で言うと、たぶん、この講座の話ともかかってくると思うんですけど、芸術の機能が変わったっていう話でもあるんですよ。要するに共産圏の作品でいうと(ヤン・)シュヴァンクマイエルが自分のフェティシズムだとか自分の欲望とか個の欲望のようなものを追究することで、結果的にそれが反体制的なものになることだったりとか、国家とか全体主義とかすごく強い敵がいたときに、裏のメッセージや象徴とかが機能して来るんですけど、『オー、ウィリー』だと、そういったひとつのベースとなるような現実感覚が失われているんじゃないか。
吉田:これが現実だっていうような共通認識自体がなくなっている。それに対抗するという意味でもなくなっているっていうことね。
土居:対抗がそもそも機能しない。この作品は逆に言うとある程度「対抗」だと思うんですけど、regression(退行)であり、かつdigression(逸脱)でもあるというか。そこら辺のぼんやりとしたファジーな現実感覚みたいなものが、デジタル時代のアニメーションの一つの共通するテーマでもあったりするかなと。もうちょっとしゃべっちゃっても大丈夫ですか?
七里:ええ、全然。
土居:デジタル時代にアニメーションがどう変わったのかって話でいうと…
七里:そうですね。それが聞きたいですね。
土居:それに関係してすごく嫌がられる作品っていうのがあって。例えば、『戦場でワルツを』っていう日本でも公開された長編アニメーションがあります。(『戦場でワルツを』を上映しながら)レバノン内戦に従軍して虐殺の現場に立ち会ってしまった男がいて、でも、ユダヤ人という出自ゆえにそれが耐えがたく記憶を消し去ってしまった。その記憶を取り戻していく話なんですけど、この作品も伝統的なアニメーション作家には非常に評判が悪いんですよね。
吉田:そうなんですか。
土居:そうなんですよ。なぜかはまだ言わないでおきます。僕は非常に重要な作品だと思うんですが。もう一つおみせします。アニメーション・ドキュメンタリーっていうジャンルが一九九〇年から出てきて、デジタル化が進んでから今に至るまで、一ジャンルを築くまでになっているんですけど。『奴隷たち』という二〇〇八年にアヌシーでグランプリをとったんですが全然顧みられることのない作品があって。スウェーデンの作品なんですけど、南スーダンで、奴隷として使われていた子供にインタビューするっていう作品なんです。これは、奴隷として撮られた子供ですね。アニメーション・ドキュメンタリーの一つのよく言われる特徴として「プライバシーの保護」っていう目的があるんですよね。本人が出てしまうと、その本人のその後の人生に影響が出てきてしまうので、見た目の部分では抽象化して、そのかわり音声の方でドキュメンタリー性が担保される。そういった形式的な特徴もいくつかあるんですけど。この作品とか、この一個前にみた『戦場にワルツを』が、何が嫌がられているのかというと、動いてないことなんですね。
吉田:動いてない。
土居:動いていないわけじゃないんですが、すごくかくかくしているじゃないですか。
吉田:アニメーションっぽくないってことか。

画像1

土居:『戦場でワルツを』と『奴隷たち』って、監督とはまた別にグラフィック・アーティストがベースのデザインに関わっていて、デザインの方にフォーカスが当たっている。アニメーション性というものが…
吉田:動きよりはデザイン性の方がっていうことですよね。
土居:これって従来のアニメーションの人からすると嫌なことなんですよ。なぜかって言ったら、従来アニメーションっていうのは…CGが出てくる前までの定義ってうのは、運動の創出だった。コマ撮りでモノや絵を動かして、ユニークなリズムの動きを生み出していくことだったわけです。もしくはそのアニメーション作家ならではのグラフィック・スタイルの個性がありがたがられていたり、つまり、「個」を強調するものがすごく賞揚されていたわけなんです。つまり、多様性が求められた。オーバーグラウンドなもの、主流のものとは違ったリズムを持った、違ったスタイルを持った何かってものがなければいけないという考えがあった。でも、デジタル時代に何が起こったかと言うと、動きをソフトウェア上で付けられるようになったんですよ。そうなると何が起こるかというと、本来アニメーションは、それぞれの作家が持っているユニークな動きが売りだったはずなのに、同じソフトを使うと、同じ質の動きが生まれてしまうんですよ。どの作品を見ても同じ動きが見えるってことになる。これって従来のアニメーションの人たちからするとすごく嫌なことなんですよね。
七里:その話を聞いていて、宮崎駿のメイキングかな?の時に、助手のアニメーター達に、「もっと世界を見て…やり直し!」みたいなことを、こう、延々と…
土居:そうなんですよ。
七里:宮崎駿ってすごい観察力なんだなあみたいな。そういうことがアニメーションではいちばん基本としてあって…。
土居:そうなんですよ。いかに動きによってキャラクターを人間化するか。『トムとジェリー』などで使われる、ストレッチ&スクウォッシュ、伸び縮みっていう、アメリカアニメーションの典型の手法は、過剰なまでに、物理法則に従うということなんですね。慣性の法則とか、走るとか、本当はここまでではないのに、法則に従う。そういう現実化の作業をある程度やってるんです。
七里:『巨人の星』の星飛雄馬の投げ方のような。
土居:そうそうそうそう。
吉田:アニメーターのテクニックっていうか、ものの見方っていうか、そういうものこそがアニメーションだろってことだったわけなのに。 
土居:そうなんです。逆に言うと、アニメーションというのは、なんていうんですかね、「現実に生きる本物の人間」っていうものをイデアとして抱いていて、そこにいかにして似せていくかを考えていた。でも、デジタルで動きを付ける場合、そういうところは消えますよね。
七里:それはコンピューターにやってもらおうっていうことですか。
土居:というか、そこに価値をそもそも置いていないんですよ。
吉田:もともと動きに価値を見出している作品ではないと。
土居:『戦場でワルツを』も、グラフィックノベルの表紙がずっと並んでいるみたいな感じだ、という批判をアニメーション作家から受けていたんですよね。
七里:なんかそれって…たとえば実写でも、って実写とわけちゃうのは本意ではないんですけど。例えばオーバーラップっていう手法があるじゃないですか、絵と絵を重ねる。デジタルでオーバーラップ、ディゾルブをするようになったことで、すごくやりやすくなったはずなんですよ。それまではオプティカルの作業で、ネガとネガをどれくらいのパーセンテージで焼くかっていう、この焼き方の感じっていうのがもしかしたら、宮崎駿に怒られていたアニメーターのような、ちょっとへたくそな重ね方からだんだん技術が上がってきて、そういう名人みたいな人が各ラボにいたんですけども。そういうのと、それをシミュレーション化して、それに近いディゾルブの効果をかけるのとでは、明らかに違うんですよね。どちらかというと、僕はそっちの側に行きたくないんだけども、やっぱり、オプティカルの重ねの味わいっていいよね、みたいなって、多分古き良き映画にはあると思うんですよ。でも、オプティカルのその作業ってものすごくラボの技術がいるから、お金がかかって、昔の映画ほど絵を重ねられないじゃないですか。自分の話に引き寄せてしまいますけど…。僕デジタルのソフトを使って編集するようになって、これはいいなと思ったのはそこなんですよ。お金をかけなくてもディゾルブができる。僕の映画を観たことある人はにやっと笑うと思うけど。重ねまくってますよね。
土居:重ねまくっていますよね。
七里:あれは嬉しくってしょうがなくてやっているところがあって。(笑)
土居:いくらでも重ねられる。
七里:うん(笑)、あれって、フォーマットがあって、ソフトがやっているんだけども、その重ね方っていうのは、でも一家言ありますけどね。そういう方向にシフトしてきているってことで。
土居:いちばん最初にした、アニメーションにとってはデジタル化ってめちゃくちゃいいことだって話は、アニメーションを作るってことが民主化されたって話なんですよね。
吉田:そうでしょうね。
土居:アニメーションは従来、動きをいかに作るかという話だった。それってつまり、アニメーションが価値を置いていたのは、スキルの問題だったといえるわけで。アルチザン的な伝統工芸みたいな、動きをつくる魔術みたいな、そういうところがないとだめですよみたいな話だったけど、アニメーション・ドキュメンタリーのこういう作品からみてわかるのは、監督はそもそもアニメーションが描けない。単なるドキュメンタリーを撮りたいだけですから。つまり、このときアニメーションは、今までとは異なるタイプの人たちにも作れるようになったということですね。そうなると、いままで大事だった価値が大事じゃなくなるということもあったりして。さらには、その新しい価値の浮上によってでてくるリアリティーみたいなものも出てくる。宮崎駿とかノルシュテインとか、「人間を描くならディテールの描写をちゃんとしなさい」みたいなことを言うんですが、ここで言われている「人間」って、「活力を持った人間」の話をしているだけなんですね。
七里:活力を持った人間?
土居:要するに、宮崎駿のアニメーションを思い浮かべてもらうとわかるんですけど、生への活力が満ちあふれた、はじけるような生命力を持つもの=人間っていう意識があって。ここにおそらくCGとかの話が関わってくると思うんですけど、かつてアニメーションが最上の価値にしてきた、「個」だったり「生命感溢れる人間」だとかそういったものが、フィクションにすぎないものになっているというか。
七里:そこをもうちょっと具体的に。
土居:「人間を描かなければいけない」と言われているときの「人間」っていう存在自体が、実はイデアにすぎなかったというか。実際には、「人間はこうでなくちゃいけないのに」という理想を取り戻すための手段としてアニメーションがあった。
七里:それはどちらですか。
土居:宮崎駿やノルシュテインが言うときです。
七里:それが東欧だったり、そのころのアニメーションの図式的な構造っていうのにもつながってくるんじゃないかって話ですか?
土居:スタジオジブリの場合、『雪の女王』だとか、自分たちが影響を受けた世界の長編アニメーションを一時期、配給もしていたんですが、そういう作品って必ず「図式」をめぐる話なんですよね。世界はこういう図式になってて、それに対向するこの力があって…みたいな。一方で、そこで理想化されている人間というもの…その大元にはディズニーがあるわけですよ。そのディズニーが作り上げてきた動きを作るメソッドって、正にアニメーションのキャラクターを「人間」にするってことをしてきたわけなんですけど、たとえば今の学生にディズニーのすごく動いているアニメーションを見せると、気持ち悪い!ってなる。それってある意味、意識高い系の人が気持ち悪いって言われちゃうのと同じことかなって今ふと思ったりしたんですけど。活力にあふれて生き生きとしすぎ!、みたいな、そういうのって、単なるひとつのフィクションでしょみたいな話になってくる。
七里:ダウナーな人ってアニメーションには出てこなかったんですか?(笑)
土居:作家としてアニメーションを作る人自体はダウナーですよね。だから自分自身の作りたいプライベートなイメージを作るのを邪魔する権力がすごく嫌だっていう話にもなる。だからこそ、自身の想像力の中の世界を圧迫するなっていうような話になってくると思うんですよ、昔のアニメーションというのは。それが、資本主義や全体主義によって匿名化していく世界に対するひとつの抵抗なのだ、みたいな。個人の想像力、個人の力、個人のそれぞれのユニークさみたいな。
七里:本当にそんなに図式的だったんですか。アニメーションの世界って。
土居:それに対する答えはいろんなレベルでありえると思うのですが、基本的にそういう理念が共有されている世界であるというのは間違いないと思います。
七里:そういうのから見ると、さっき見せてもらった『オー・ウィリー』なんかは何もないってことになっちゃうんですか。
土居:何もないってことになるんですよ。
七里:すごく深淵なものを感じるんですけど。
土居:僕は深淵な作品だと思っているんですけど。単に状況に流されているだけの人の話。
七里:あれ僕、事前にも見せてもらってるんで、二、三回目くらいなんですけども、やっぱり泣きそうになっちゃったのは自分がマザコンなんだろうかとか。(笑)
土居:でも、個人的に意味を見出すことしかできないですよね、この作品は。もう一個、デジタル時代の想像力を代表するような作家で(彼自身は手描きかつフィルムで作品を作っているので皮肉な話ですが)、昔ながらのアニメーションの人に評判の悪いドン・ハーツフェルトという作家がいまして、その人の作品も、新世代のアニメーションみたいな風に言われています。それでは見てみましょうか

―見る――

土居:棒線画を使ったアニメーションなんですよね。だから絵がユニークというわけでもない。誰でも描けそうなスタイル。
七里:ハーツフェルトもものすごく内向的というか 自分の内面を、掘り下げている。
土居:動きを作ることの重視や個性の重視みたいな部分は、彼の作品には無くて。彼の作品はすごく嫌がられるときがあるのですが、そのポイントとして、すごくナレーションが多いというのがある。今日話しているリアリティの話にもつながっていくんですが、アニメーションって基本的にユニバーサルなものを志向するんですよね。そうなると言葉が邪魔になる。言葉を理解しないと分からないから。とりわけ海外の映画祭の文脈を考えると。
七里:確かに、そうですね…
土居:ナレーションで喋りすぎている、そんなの聞き取れないよ、アニメーションなんだから画で見せましょうよ、みたいな。そもそもこんな棒線画使っちゃだめでしょ、みたいな。
七里:ばかにしてるのか?みたいな(笑)
土居:ハーツフェルト自身も、自分はアニメーション技術を使う映像作家だって話をしていて。アニメーション作家とは名乗らないんですよね。それが、アニメーションの技術自体に力点を置いていないという立ち位置にもつながる。ハーツフェルトの作品への批判のなかで僕が印象に残っているのは、「幼稚だよね」っていう話をする人がいたんですよ。全てしゃべってしまっているから。さっきの『オー、ウィリー』と一緒で、全部しゃべっちゃってるじゃん、っていう。大人としての慎みに欠けるというか。そういう感じの。
吉田:まあ余白で考えさせたほうがいいんじゃないのっていう。
土居:多分そうなんです。ただそこはおそらく、アニメーションにおけるリアリティの感覚という側面が関わってくる。さっきの『オー、ウィリー』とハーツフェルトの作品の何が共通するかといったら、要するに、主人公が何かに圧倒される経験を描くということなんですよ。で、そこで起こってくるあらゆること、現実的なことも非現実的なこともすべて受け入れていくという状況ができる。要するにそういうときには象徴なんか働くわけはないし、今はどういう状況なんだろう、というような客観的・批判的な観点も入りこんでこない。すべてが表面化していて、それをただ単に受け入れていくっていうような状況。それをたぶん子どもっぽいっていう風に言う人がいるという状況がある。
七里:ひょっとしたらすべてが表面化してきているのかもしれないですよね。実際は。
土居:うん、実際に多分すべてが表面化してきているんだと思うんですよ。すべてが表面化していって、その表面化してきたものを受け止めるだけでも大変だっていうような時代なわけじゃないですか、現在は。で、もう一個。『エクスターナル・ワールド』、デイヴィッド・オライリーっていうアニメーション作家の話をちょっと。この作品のタイトルは、まさに「エクスターナル・ワールド」、つまり外面化された世界っていうものなわけですけど、(『エクスターナル・ワールド』を流しながら)この作家の特徴ってCGなんですけど、前回の話に沿って言うと、彼は貧乏人のCGをやってるわけなんですよね。CGって基本的には、実写的というか、実写を補強するというか、リアリスティックかつ包括的に捉えられた世界を真似するっていうような方向性で作られているんですけど、この作家の意識のなかには、自分にはそれができないという思いがある。そういうCGはすごくお金も時間もかかるし、パソコン自体も個人でまかなえないようなソフトウェアを入れたりとかが必要になってくる。でもこの作家はそれを逆手にとって、グリッジとかバグとか、あとは本来はプレヴュー用のすごく粗いポリゴンのCGを全面的に使うことで、自分自身のアーティストとしての表現にしてしまっている。で、この作品自体が何の話かっていうと、この作品はかなり批評性が高い作品なのですごく言語化しやすいんですけれど、要するにいろんなメディアっていうのがある中で、そのメディアが提供してくる非常に因果関係がはっきりした世界、外面的な世界、見えたものですべてを判断してやろうとする世界というのが、私たちの知覚・認識システムにすごく影響を与えていて…というような話。で、世界を単純化して伝えるメディアに囲まれているがゆえに、私たちもまた、すべてが目に見える範囲において表面化した何かを組み合わせることでしかものを考えることができなくなっている、というような話がいろんな形で展開されているような作品だったりするんですよね。これもやはり、自分たちが取り巻かれている状況っていうものに対してただ単にパッシブになって、その影響を本当に受け続けることしかできないような人たちの話でもある。おそらくそれは私たちだっていう話でもあったりするんですけど。

七里:(間。映像をみて)……うん。(笑)
土居:で、あ、何か?
七里:ああ、いやいや大丈夫です。
土居:大丈夫ですか? で、さっきアニメーション・ドキュメンタリーの話題で話そうと思っていたことがあって、デイヴィッド・オライリーがこんな面白いことを言っているんですよね。「CGはなんのリファレンスもないヴィジュアルの素材なんだ」っていうことを言っている。「ある意味で野生的なものなんだ」と。これ結構僕は面白いという風に思っていて。例えば、CGを嫌うアニメーション関係者って結構多いんですが、例えば広島国際アニメーションフェスティバルなんかでは、オライリーの作品って一回も入選したことがないんですよね。オライリーも怒ってもう出すのをやめちゃったりとかもしてるんですけど。そういう映画祭では、アナログが持っている温かみに対して価値観が持たれている。手触りだとかそういうもの。でも、オライリーはそれに対して、CGって誰のものでもないイメージだからいいよねっていう話をするんです。
七里:誰のものでもないイメージ……。はー。
土居:誰かの手の痕跡を残すのではなく、ほんとにただあるだけ、ほんとに超抽象的なイメージであって、そしてバーチャル空間にあるものでしかなくて、物理的なものも持ってないし、だからこそ、結構これどうにでもできるじゃないっていう話。
七里:それって、前回の平倉さんの話で言うと、その人の「肉」(物体)じゃなくて、仕草だとか、運動に愛着を持ったり、そこが嫌いになったりするって話に通じるのかな。その運動の民主制ていうか、運動っていうのはコピーできるってことですよね。それをデータ化してそれを移し替えることによって物から切り離しても、その運動って言うのが何回でも繰り返される、コピペできるみたいな、そういう状態っていうのがやっぱCGっていうこと?
土居:そうなんですよね。いろんなところに同じような動きがあるしっていうような話もそうだし、極度に抽象的なものだから、特定の人のものじゃないし、誰のものでもあり得るっていうような状態。で、そういったCGが何らかのアクチュアリティーやリアリティを持つのであれば、それはまさに、匿名的な人たち、個性やユニークさからかけ離れたような人たちのことを描くときに、こういうデジタル表現がめちゃくちゃ威力を発揮するわけなんですよ。ある種、特別ではない人たちっていう。
七里:それは逆に言うと、それまでは特別な人たちを描いていたっていうこと?
土居:アニメーションって基本的に特別な人を描くものじゃないですか。
七里:それは映画も昔そうだったかもしれないですよね。健さんも文太も亡くなったけど…。
土居:何かしらその状況を変えていく人だったりとか。
吉田:周りになかなかいないですよね。
土居:まあフィクションですよね。だからデイヴィッド・オライリーの貧乏人のCGっていうものは…要するに、現実的なものに近付けていくことを放棄した時に何が起こったかと言ったら、現実と見た目が似てるって言うようなリアリティーとは別の、こういう非常に抽象的で匿名的なビジュアルだからこそ持ってしまうリアリティーってのが今この現代にあるよね、っていう話になってくるんですよね。
吉田:ま、映像であれば、何か物があってそれを映して痕跡があるっていう前提があるんだけど、これは全然それもなければ、作ってる人の手もなければ、っていう、物が持ってるリアリティーってことですよね。うーん。
土居:僕がデイヴィッド・オライリーのCGについて発言するときによく言うのは、CGは基本的にはシミュレーションのメディアであって、僕らの現実・実写の世界に憧れてそれを真似しようとするんだけど、でもオライリーのケースでCGがリアリティーを持ってしまうのはなぜかって言ったら、人間自体がCGに真似されるんじゃなくて、むしろ人間の方がCGに近づいていってるんじゃないのか、そういった匿名的な個っていうのユニークさを持たないよう存在の状況が出てきているのじゃないか、特別でそれぞれ固有の価値があって特別で…みたいなリアリティーが消えて、むしろ、こうやって匿名化して抽象化されていくような、みんなが匿名の有象無象の人たちになっていくようなリアリティがCGの表現としてはまってしまう状況というのが実はあるんじゃないかなあっていうのをすごく思うんですけども。
吉田:まあ、CGっていうかこういうソフト、誰にでも使える安価に使えるのもっていう。それは民主化ともつながっていると。
土居:そうですね。
七里:なんか実際、個性とか言われてもね、ちょっと困るなっていう状況になってきていますからね。
吉田:そうですね、物を作るには、個性のある人が作らなきゃいけないもんだろうということが、その前提自体がもうないわけね。
土居:そうですね。
吉田:で、だれが作ってもいいというそんな感じなのかな。
土居:そうですね。そういうところもあって、実際個人でやっている作家たちのCGって、みんなオライリーに似てきている。デイヴィッド・オライリー自身はみんなが思考能力を欠いている状況を批判している。僕は最初CGが嫌いだったんですが、何が嫌だったかっていうと、自分自身が使っているソフトウェアに、つまり、自分自身の制作を条件づけている環境に対する批判的思考が全く欠けている作品が非常に多かったからです。自分自身がどういう環境で製作をしているかということを、ソフトによって自分が拘束されていることを気付いてないっていうようなことを、僕はすごく嫌だなって思っていまいした。でも最近では、ある程度批判的思考を欠いたのっぺりしたリアリティーってものが実はあって、そういうものとこういうCGの表現って、うまく響き合っちゃうんじゃないの?っていうようなふうに思うようになりました。
吉田:そういうリアリティーがあるとして、じゃそれは土居さん自身は評価しているものなの?
土居:まあしょうがないよねって思うようになりましたね。それはもう、そういうものでしょうって思ってしまっていて。
吉田:まあそれは渡邉さんが言っていた「後戻り不可能な動き」と全く同じっていうことですかね?
七里:でも確かにしょうがないのかもしれないね、
全員:しょうがないですよね(笑)。
七里:僕の違和感は、なんだろうな、間違ってないっていうか、やっぱり原因はあるな、って思うのは、やっぱり世の中がのっぺりとしてきてるんだなって。だからその世の中を捉える、それを表象と昔はある世界では言っていたんだろうけど、映画だとかそういうものも、のっぺりとしてきているってことなんですかね。
土居:すべてが、そのまま目の前にあるものがそのまま受け入れられていくっていうような。
吉田:なんか絶望的な気持ちになってくる。
土居:でもしょうがない。しょうがないじゃないですか。
七里:もうそうなんだ。
土居:今日紹介している作品が素晴らしいのはどういうところかって言ったら、そのしょうがない状況においてどうやって生きていくかっていう話をきちんと考えているというか…要するにいま言ってきたことって、身の回りにあるリアリティをそのまま無批判的に受け入れてしまうっていう話じゃないですか。要するにすごく狭い視野において世界を判断していくっていう。『エクスターナル・ワールド』って、風景描写とか見てみると、バグで壊れてるんですよね。要するに、世界の綻びも表面化している。最初とか最後の方を見ると、俗にいう「トンボ」が露出してもいる。この世界は不完全で壊れているんですよ。破れてるんです。でも、そこに暮らすキャラクターたちは全く気づかない。途中で猫とか出てくるんですけど…この作品は、猫と子供っていうのが非常に重要なモチーフで、たとえば猫は、表面的な世界を、次元を超えたジャンプで超越するんですよ。要するにこの作品って、すべては表面的なんだけど、実はすごくたくさん穴があって、そこでは表面的な次元では捉えられないような高次元での跳躍っていうのが意外と起こったりしている。アニメーションが今ののっぺりしたリアリティの時代に何かしら意味を持つとすれば、ある種非常に近視眼的な、全てが表面に現れているようなすごく近視眼的な世界観っていうものを、結構そのまますっと表現できちゃうということだと思います。実写以上に絵によって作られている空間っていうところもあって、ある意味貧しい想像力というか、そういうものをダイレクトに反映する。アニメーションって、現実とは全然違う豊かな想像力の世界じゃなくて、むしろ人間の想像力の限界っていうものを容易に反映してしまうものなんじゃないかっていうようなところ。そういったのっぺりした想像力を持った人たちの想像力っていうようなものをパッと出す時に、じゃあそこには属さない、異次元的で超次元的な世界っていうものに対する誘いも同時にしているというのが『エクスターナル・ワールド』なんですよね。

七里:貧しい想像力だとか、のっぺりとした現実だとか、個性とかそういうものがない有象無象価値っていうものをすごく批評的に捉える表現としてこういう作品がアニメーションでは生まれてきたということはすごくわかるし、話を聞くとああなるほど、すごくそういうことを語ってんだなって思うんだけども、これを見て心動かされたりとかするものなんですかね。
土居:僕はすごいこの作品見て心動かされるところはありますよね。
七里:でもこれ(『エクスターナル・ワールド』)はね、そうじゃなかったんですよ。でも『オー、ウィリー』は、なんかすごくぐっときたんですよね。
土居:そこは多分、オライリーが露悪的だらだと思うんですけど。要するに、同じ状況を見ているなかで、それをどういうふうにするかっていうと、オライリーの場合、みんなが思ってることと違うことをするっていうよ態度の人なんですよ。CGをこういう風に使って…みたいな。様々なユーモアの性質から見ても、お前らこんなこと考えてなかっただろっていう感じで、「お前らの思っている前提っていうのは全然違うんだ」って直接的に言うようなところがある。この作品自体、オライリーの実験でもあって、要するにアナログの表現がすごくいい、手触り感とかがいいってアニメーション界では言われるけれど、オライリーの実践の一つの特徴って、自分でも言ってるんですけど、こういうCGの全く冷たいイメージであっても、見ている人の感情を揺さぶることはできるし、豊かさを感じられるっていうこと。みんなが思っている前提を、まずそれ違うよってわざわざ言う態度のひとつだとも言える。オライリーに感動しないのは、そこらへんなんじゃないですかね。
七里:あのピアノを弾いている子供もすごい勢いで叩かれたりするじゃないですか。ものすごく嫌な気持ちになりますよね。
土居:嫌な気持ちにしようとしてますからね。
七里:そういうことなのかなあ。
土居:オライリーってハネケの映画がすごい好きだったりするんですよ。そういうところじゃないですか?
七里:なるほどね。
吉田:『オー、ウィリー』の方だとやっぱり手作り感もあるからそこにやっぱり技術がどうしても見えるからそこに感動したりするんじゃないですか? 違うの?
土居:僕は最近、手作り感のあるものとか、個性が出過ぎている作家性のあるものが、ちょっと嫌になっちゃってきたところもあって。こういうフラットな映像の方がしっくりくるし、変に「個」とかって強調するのは嫌だなっていう風になってきて。でも僕がすごくいいなって思っている『オー、ウィリー』みたいな作品って、もっと開かれた手作り感というか…それはすごく感覚的な部分なんですけど、その人が作ってるけど、その人だけに閉じられたものじゃないような感覚がある。それはもしかしたら表現が抽象化されているからなのかもしれないし、、もしかしたら解釈が固定できないゆえなのかもしれない。
七里:でも表現の抽象化っていうのは昔からあったわけですよね。
土居:ええ、あったんですけれども、抽象化というよりは象徴化だった。デイヴィッド・オライリーは昔こんな作品を作って(『RGBXYZ』を観ながら)…これは田舎の少年が街に出てきて苦しんで…っていうストーリーなんですけど、この抽象化された表現って、要するに過去のアニメーションみたいに、表現が一つの暗号のような形で機能してその暗号が解ければゴールで、実はこういうことが言いたかったんですよっていうのが見えるみたいな、ある種読み解き方を指定しているようなところがあったのに比べると、明らかに違うところがある。こういうふうに極度に抽象化されたときに何が起こるかっていったら、非常にぼんやりとしている状況が続いて、暗号的ではあるんだけど人によって見え方が変わってくるというか、見ているときに頭のなかで白昼夢を展開する余地ができるというか…この『RGBXYZ』って、十二分の作品で物語があるんですけど、田舎の初心な少年が冷たい都会で社会の荒波に揉まれて、みたいな話から急に、この少年が選ばれし者でいま地球を侵略しようとする悪いやつと急に戦う、みたいにスライドするんですよね。
七里:「世界系」みたいなことですか?
土居:それとも近いんですけど、「ここではこういう物語が語られる」っていうよりかは、「物語の定形ってたくさんありますね」っていうのを、この作品は意図的に使っている。みんなが慣れ親しんだ物語のフォーマットっていうものをあえて乱用している。いつの間にか、悪を倒す物語になっていて、そしたら神様が出てきて、「このアイテムをあげるから次の面に行きましょう」みたいな話になるっていう。いつの間にかゲームをクリアするっていう話になっている。でもその移行に不自然さを覚えないんですよね。それもある一人の少年のジュブナイルの物語としても成立してしまうというところもあって、要するにここでは非常にいろんなレヴェルの語り…いろんなゲームやジュブナイル、ファンタジーなどが持っている様々な物語の定型化・抽象化された図式みたいなものが次々と出てきて、そのときごとに様々なファンタジやゲームなどにどんどんメタモルフォーゼしていくという。
七里:つまり、それは物語、奥行きがある一つの世界を、こういう風にも読み取れる、読み込めますねっていうものが、レイヤー状になっているってことですかね。このレイヤーで見るとこういう風にとれるし、このレイヤーで見るとこうとれる、そういうレイヤー…。
土居:レイヤーでさえもないと思うんですよ。一つのレイヤーが本当に勝手にいろいろ解釈されていているってだけで。
七里:すごくフラットで、でもそれをこういう風にでも読める、ああいう風にも読めるっていうのはそれぞれの勝手な読み込みってことなんですか?
土居:それで別に全然問題なく成立するっていう。
七里:それが今の世界だってことなんですかね。
土居:そこまでは言いがたいんですが。
吉田:そういったいろんなものが全部並列して同じレヴェルに並んじゃってて、どこからどこにいっても全然OKっていう、そういうことなんでしょうね。
土居:それで、その時ごとに、誰かがひとつの物語を勝手に作ってしまって問題ないという。このことって、今日の最初に言った、いわゆる「現実」がなくなったっていう話とつながってくると思うんですよ。最近実写とアニメーションを組み合わせるような作品ってすごく多いんですよ。ハーツフェルトもそうですよね。昔で言えばそれってシュルレアリスム的な実践だったと思うんです。つまり、異なる素材っていうものが乗っかったときに、シュルレアリスムみたいに…「蝙蝠傘とミシン」。変なものを組み合わせるときに出来上がる現実の違和感、異化効果みたいなのだったんですけど、今ってそのシュルレアリスム的なコラージュが成立しないし、できないし、力を持ってないんですよ。実写とアニメーションが一緒に並んでいることも何の問題もなくて、むしろ、リアリティがグラデーションになっている状況を作っている。
七里:ミシンと蝙蝠傘が出会うはずないって言ってた時代ってあったんだ、って?
土居:そういう感じじゃないですか。
七里:昨日もミシンと蝙蝠傘出会ってたな、みたいな?(笑)
土居:特に疑問も持たれないというか。
吉田:さっき例にも挙げられてた『戦場でワルツを』。あれはどうもロトスコープじゃない。
土居:じゃないですね。でも一応実写の撮影をして、それをベースに作ってはいるんですけど。
吉田:何れにせよ実写から作られているアニメっていう感じで、実写とアニメの境界線が非常に曖昧になっているっていうところがあるわけですよね。
土居:『戦場でワルツを』の実写とアニメーションについていえば、あの作品、最後に実写が出てくるんですよね。そこにはドラマ的な必然性もあって、消えてしまっていた記憶が、様々な取材によって明らかになったときに、最後、「本当はこういうことがあった」ということを示すかのように、主人公が実際にいた場所とその時に撮られていた映像っていうものが最後実写でボーンと出てくる。でも、その実写の映像の方がアニメーションと比べるとリアルに感じられなくなる。あの実写はジャーナリストが撮影したものなので、本人が撮った映像ではないからっていうのはあると思うんですけど。要するに『戦場でワルツを』が何をしているかといえば、結局のところ人間がどのように世界を認知しているかっていえば、ロトスコープでアニメーションを作るみたいなものなんじゃないかということなんですよね。ある現実があって、それをなぞっていく、抽出していくってことによって記憶や認識の空間を作っているのだ、という話になっていくわけなんですよね。そのとき、普段私たちの見ている世界は実はロトスコープされたアニメーションの方に近いっていう風になってくる。実写映像は間違いなく実際にあったことを捉えているんだけど、そうは認めたくない、これはわたしの現実ではないっていうような感覚になってくる。実写なので光学的な痕跡なわけなんだけど、なんだかちょっと疎遠に感じてしまうというというか、ある種の逆転現象が起こる。
吉田:そうなんだ。僕はむしろ逆に、あそこを際立たせるためにロトスコープを使ってたのかな、みたいに思ってたんだけど
土居:人によって感覚が違うみたいなんですよね。例えば大学の授業で学生に『戦場でワルツを』を見せると、実写になった瞬間に違和感を覚えたと。ちょっと違う感じになったって。あと『戦場でワルツを』ってすごく女性に評判がいいらしくて、それはなぜかって言ったら、それは監督が言ってるんですけど、ようやくこの作品で、戦争に行くっていうことがどういうことかわかったって話をするんですよね。要するに、戦場に立っているときの臨場感だったりだとか、現実と妄想とがあやふやになってしまうような様々なものが混ざりあったような感覚っていうものがすごく臨場感をもって、体験できたっていう話をするわけなんですよ。アニメーションが様々なリアリティを混ぜ合わせたものを体験させることでまた別のリアリティ空間を作り上げて、戦争に行かなかった人も、戦場に立っているってこういうことなんだっていうのを肌で分からせるっていうような話。
七里:それ本当にわかって…
土居:本当にわかったことにはならないと思います。わかっている幻想ですよね。
七里:それは現実は幻想に過ぎないってことなのかな
土居:そうじゃなくて、そういうもんなんじゃないですか。「分かる」っていうこと自体がそもそも。
吉田:だからあの人にとってあの出来事を忘れてた、現実があるわけですよね。彼にとっては現実だったわけで、だから幻想なのか現実なのかわからない世界をずっと彼は生きてきて、そこで初めて現実がこうだったっていうことがわかってフラッシュバックがあって、あの映像がガッと出てくる。っていうときにやっぱり一番最後に出てきたものは現実のものだと考えていいんだと思ったんですよね、僕はね。それに対して、忘れてた日常生活ってものがある。どんなに、嘘と言っちゃあれなんだけど、何かを隠されていたものだったかっていう、むしろこれまで生きてきた日常の方が嘘だったんだって気がつくっていうことかなって解釈したんです。
土居:その話で言うと、『コングレス未来学会議』っていう『戦場でワルツを』と同じ監督が作ったアニメーション…というか実写とアニメーションが混ざった作品があって。
七里:予告編がネットに上がってた……。
土居:今その予告編をお見せしようと思うのですが、多分この作品と合わせると実写=本当っていうことは必ずしも言えないのだなということが分かってくる。この作品本当に、素晴らしい作品だと思います。要するに、実写の方が本当だったってなっちゃうと、ある意味『マトリックス』の世界みたいな感じになるわけですよね。「夢」を見させられていたんだけれども、そうじゃなくい本当の世界がありますよ、っていう。この作品は似ているようで違うんですよ。(『コングレス未来学会議』の予告編を再生しながら)ロビン・ライトが本人役で出ているんですけど、近未来の話で、笑顔やあらゆる動作をデータ化することで永遠に老いないロビン・ライトをデータ化して作り上げて…っていう話なんですよ。で、老いていく現実のロビン・ライトは引退して人前に出てこないでください、って。たくさんお金あげますから、って。途中からアニメーションの世界になるんですけど、そのアニメーション世界が描くのは王国みたい世界で、薬物を摂取することでそのなかに入れるんですが、そのなかでは好きな映画の中に入れてしまう。好きなイメージの中に入れるんですね。ある人はマイケル・ジャクソンになったりだとか。
七里:(予告編を見ながら)今のは装置なんですか?
土居:そうです。このスキャン装置で俳優の全身のデータを記録して、その超リアルなCG化する。なので永遠に老いないロビン・ライトが作られる。で、さらに話はが進むと、薬物を摂取することで、みんなそれぞれが自分自身のなりたいキャラクターになれるようになる。ロビン・ライトにもなれたり。(映像を見ながら)ここらへんとかが、みんなが夢を見ちゃっている状態なんですね、薬を吸って。薬の効果が切れると、実はこの場所は全然ゴージャスではなくて、単なる廃墟のすごく悲しい場所で、そこをみんなでぼんやりずっと歩いてるだけみたいな…それだけだとちょっと『マトリックス』っぽい感じもあったりすると思うんですけど、結局この作品って、それぞれの人が自分自身の見たい世界…自分自身にとってすごく大事な人と共にいる世界だったりとか、ある人は社会主義が実現した世界だったり、そういう世界に生きるようになる。で、この作品って結局、何故ロビン・ライトがお金を沢山貰って自分自身がデータ化されたファンタジーになるかというと、息子を救いたいからなんですよ。息子が病気で、その治療のために付添いつづけたい。たぶんポイントなのは、この映画って最終的に、「夢を見させられているのはよくない!駄目だ!」って話じゃなくて、息子の夢と生きることを選ぶっていう話になるんですよ。要するに、もちろん夢を見させられているんだけど、それは別にそれでいいじゃないかっていう…その中で問題になってくるのは、現実に目覚めるのではなくて、「誰の夢と一緒にいることを選ぶのか」ってことになってくるんですよね。
七里:なるほど。
土居:現実のレベルはもちろんあるんですけど、それはもう別にどうでもいい話だっていう…。
吉田:なるほどね…。
七里:もう現実のレベルはしょうがないってことですね。
土居:そうですね。そこは気づかなければもうそれはそれでいいじゃないかっていう…(笑)
七里:あとはもう「誰との夢を持っていくか」でしょ?…と(笑)それだけでも民主化してよ、みたいなこと?(笑)
土居:いや、なんといったらいいか…
七里:それも支配されちゃいそうな…?
土居:結局は薬物の幻想に支配されているだけですしね。
吉田:ああ…。

七里:いやいや、今この映画の話というよりは、今我々が生きている世界のことに結びつけようとしてるんだけど…(笑)うーん、なるほどね…。でもだから要は、のっぺりとした変わっていくリアリティ…というよりはもうリアルが変わってきている、これを肯定的に受け止めるにはどうしたらいいのか。…その意識の変革を自分でしなきゃいけないってことだね(笑)
土居:そのことを…選挙の話とか考えながらこの(講座の)準備してたら、僕のなかでもつながってしまって、この状況はもうどうにもならないから、じゃあそのなかでなんとかするしかないねっていう…。
七里、吉田:うん…。
土居:今日の話って、どの作品もそうなんですよ。結局、圧倒的な状況があって、それに対して、抵抗できないっていう話なんですよ。
七里:まあだから…。
土居:その中で、どう人生を見つめていくのかって話…今日紹介したのは(笑)
七里:全く、世界がアニメーションになってるってことだよね…。うーん(笑)
土居:(笑)
吉田:そうだね…。その外は無いのかなあ…。
七里:いや、あのー、どうなんですか?
吉田:どうなんでしょうねえ…。
土居:でもそういう意味で言うと、そもそも七里さんが何故アニメーションに興味があるのか…七里さんやゴダールって、アニメーションとは一見全然関係無さそうじゃないですか。
七里:そうですかねえ、はい。
土居:そうじゃないですか、イメージ的に…。
七里:はい。
土居:むしろ嫌ってそうな感じじゃないですか。
七里:そうでもないですよ!
土居:そうそう、そうでもないってことがここまできて分かったんですけど。そもそも七里さんと最初にオフィシャルにお会いしたのは、四月にGEORAMA2014というイベントをやって、そのなかの「暗闇のアニメーション」というプログラムで、七里さんの『闇の中の眠り姫』という、『眠り姫』を音だけ上映するバージョンをやったんですけど、それを「アニメーション」だとイベントでは言い切らせていただいたわけですよ。
七里:そうなんですよ。電話が突然かかってきて、土居さんから。「七里さんのアニメーション作品を上映させてください」って(笑)で、「闇の中の眠り姫」っていうのは、アニメーションの作品だと…。
土居:(笑)
吉田:ふーん。
七里:音を聞いているときに、それぞれの頭の中に、浮かんでくる光景ってものが、アニメーションだと定義したいと。
土居:そうですね。
七里:で、その意味が今日の話を聞いてようやく…分かってきたような気もする…(笑)
土居:僕が最近優れていると思うアニメーションって、さっきの話にもつながってくると思うんですけど、描かれている世界そのものが重要なのではなくて、描いている世界を通じて、外界というか、直接的には描かれていない世界のエコーが聞こえてくるみたいな、そういう作品がすごく多いなって思っていて。
七里:うん。
土居:例えばその時に大事になってくるのは、音なんですよ。一九七〇年代以降のアニメーションに…実は一九二〇年代から色々先例はあるんですけど、プライベートな世界をアニメーションがすごく真っ当に表現できるという発見があった。でもそのプライベートな世界って、いわば個人が勝手にでっち上げた世界だから、他の人の世界とは違う。そのとき、その人が組織した世界の外側にある別の世界っていうものの存在のほのめかしの役割を、音が担っているケースがすごく多いなあって…。
吉田:ふーん。
土居:…って風に、思ってきたんです。
七里:アニメーションにとってのフレームって何ですか?
土居:えーと、アニメーションにとってのフレームは、作品によってもちろん違ってくるんですけど、ある種のアニメーションは、本当にそれが認識のフレームみたいになっているような感じがするんですよね…。
七里:うーん。
土居:人間の認識のフレームが、そのままアニメーション作品のフレームになっているとか…。
七里:映画って、フレームによって外の世界と内側の世界を分けているんですよね、で、フレームの中の世界しか描けてないものが、往往にしてすごく小さな作品になってしまっていて、だから何を見ているのか、カメラをどこに向けているのか…カメラっていうのは光学機械のカメラっていうよりは、作家がっていう意味でのカメラが、どこを切り取ろうとしているのかがすごく重要になってくると思うんですけど、アニメーションの場合そういう意味での…。
土居:だって、実写って外とか内側とか言えるじゃないですか、外あるじゃないですか、フレーム切ったとしても。
七里:うん…。アニメーションは…。
土居:これ、(映像を見ながら)キャロライン・リーフの『ストリート』っていう一九七六年の作品なんですけど…ガラス台の上に油絵の具で描いてそれをどんどん手でいじっていくっていう作品なんですけど、もちろんその撮影台(ガラス台)がある空間はありますよ、そういう意味でのは外側ってあるんですけど、さっきの実写との対比で言ったら、この作品における世界は本当にここしかないんですよね。
吉田:うん…。まあ、ね。
土居:それが人間の認識のフレームとパラレルに捉えられていくっていうような状況が、もちろん図式的ではあるのですが…。
七里:うーん…。
吉田:あれでしょ、でも、カメラの眼とは違うってことでしょ?
土居:そう…。ある意味でいうと、意識内で組織化されたフレームというか…。
七里:これもカナダのあれなんですね。
土居:そう、NFB(カナダ国立映画制作庁 https://www.nfb.ca/  )です。NFBは、個人作家のアニメーション作品に対して国がお金を出すというようなことをずっとやっている国営のスタジオなんですね。これも結局のところ、作品内で映像化されているイメージっていうのは…ある少年がいて、家族ぐるみでおばあちゃんの看病をしているんだけども、ずっと(おばあちゃんが)死ぬだろう死ぬだろうと言われているけどなかなか死なないって話なんですね。で、家族みんなにとってすごく重荷になっていく。少年にとっては、おばあちゃんが死んだら自分の部屋が手に入るのになー…みたいな。作品として展開していくのは、少年が捉えたイメージ…ある意味で言うと内的な世界の流動みたいなものが描かれていくんですけど、この作品の後半のほうでクリティカルなフレーズがあって…おばあちゃんは死ぬんですよ、すごく最後の方に。そのときに葬式があって、先生みたいな人が出てくるんですけど…この作品は最初は外で子どもが遊んでるような声で始まるんですけど、それに呼応するかのように、「外はこんなに晴れた美しい夏の日なのに、あなたの家族は死んだ…外はこんなに笑いと愛のためにあるような日。でも、あなたにとって、すごく残酷に思われるのでしょうね」みたいなことを先生みたいな人が言うんですよ。キャロライン・リーフっていつも、ある世界の内側と外側にいる人のあいだの関係性を語っている。で、外の世界っていうのは、いつも音によって到来してくるんですね。非常にプライベートにでっち上げられた内側の世界を描くことについて、アニメーションはすごく相性がよい。で、そのときその外部の世界をどう描くかというとき、音っていうのがすごく重要になってくる。映像部分は人から見えているものを描き、音は外の世界の存在を拾い上げるみたいな位置づけ。アニメーション・ドキュメンタリーも、そうなんですよ。アニメーション・ドキュメンタリーって、大体全部みんなボイスオーバーなんですよね。
七里:うん…。
土居:ボイスオーバーで語られる世界っていうのは、アウトサイダー的な位置づけにいる人たちの内側の世界なんですよね。さっきの『奴隷たち』だったら、奴隷化されているだとか、もしくは別の作品だと不法移民だったりとか、他にも自閉症の人とか…カッコ付きで「普通」ではないと思われている人たち、私たちの普段の認識のフレームの外側にいるような人たちを取り上げる傾向がボイスオーバーを使うアニメーション作品にはすごくあって、そのときにどういうことが起こるかといったら、フレームの外から届いてくる音がかろうじてビジュアル化されていくという現象…枠組みの外にあったはずのものがアニメーション化されることによって、見ている人との間にひとつのつながりを生み出していくということが起こるんですよ。アニメーション・ドキュメンタリーが実写と比べて何が良いかといえば、よく言われていることがあって、たとえば『奴隷たち』でいえば、もし実写でやられてたとすれば、おそらく外面的な特徴やその人が生まれてきた社会的政治的文脈が…つまりたとえば日本人が観たときに「これはアフリカの黒人の話だ」とどうしても感じてしまうことが起こる。外的状況の特殊性に還元する思考が生まれてしまうところを、アニメーション化することによって、「こういうような見かけをした人だから」とか「こういうような国に住んでいる人だから」とか、「こういうような人種だから」とかそういうところを一旦無効化して、状況の違う人を引きつけることができるっていうことが起こってくる。それはつまり、「人間」と思われていなかった人が「人間」化されていくということが起こる…。

画像2

吉田:例えばドキュメンタリー映画とかでもそういうものが無い事は無いと思うんだけど、それって今の映画をずっと見て行くうちに非常に身近に感じたりとか、全く自分とは関係無い話だとは思えなくなることはあると思うんですよね。
土居:そうですね。とりわけアニメーション・ドキュメンタリーっていうジャンルが、まるで取り憑かれたかのようにそんな形式になっていく…
七里:吉田さんが言った話で言うと、ひょっとしたらそのものが写っているということが辛くなってきている…。
吉田:ああ…。耐えられないっていうか…。そんな厳しい現実見たくないっていうこと?
七里:まあでもそれはちょっと違うか。
吉田:うーん、どうなんでしょうね。まあでもそういう風に抽象化されることによって自分の身近なものに感じられるというのは、どうなのかなあ、それが…。
七里:写っている像も元々抽象化されたものですよね、それって。
吉田:うん…。
七里:と、思って良いんでしょうかね。
土居:人間の認識のメカニズムの問題と関わってくると思います。実写は情報が入り込みすぎてしまうので、その人の個別な状況に還元しやすくなってしまうというような…
七里:だからアニメーションの中で、そういう新傾向がある? ドキュメンタリーアニメーションという手法があって、現実をトレースしてアニメーションを作ることで、現実にものすごくnearになるっていうか、取り込むことができるようになる、それがロトショップでしたっけ、そういったソフトができて、多用されるようになってきているというような傾向は分ったんだけど、それと実写って言われている像との比較ってどうなんですかね?
土居:(映像を見ながら)これは『ウェイキング・ライフ』っていうリチャード・リンクレイターが監督したデジタル・ロトスコープ・ソフト「ロトショップ」で作った長編アニメーションなんですけど…
七里:デジタル・ロトスコープっていうのは?
土居:この映画、まずデジタルカメラで全部撮ってるんですよね。映画一本分。全部撮って編集までした後にそれを全部アニメーションで書き起こしてるっていう。
七里:ロトショップってのは、それを自動でやれるようにしたもの?
土居:中割りの部分の動きを勝手に生成してくれるようにしたソフトなんですね。ほかにも人物と背景をレイヤーにも分けられるんで、すごく重宝されているソフトなんですけども。使われているソフトを作った人は、ボブ・ザビストンっていう人なんですけど、この人はずっとドキュメンタリーを作っているんですよね、アニメーションで。自閉症の人にカメラを向けて、その人と一緒にお菓子買いに行ったりとか、哲学者にずっとインタビューして、本人は真剣にしゃべっているんですけど、天上の世界の話になると雲の上にいたりとかそういうような形で…。
吉田:背景を変えたりだとか…。
土居:そうそうそう。以前、サビストン本人に話を聞いてきたんですけど、ロトスコープっていうのはひとつの解釈の図像なんだって話をしていて。それぞれのアニメーターが、その人の話をどんなふうに捉えたりしたのかっていうようなところを描くのにロトスコープはすごく良い、みたいな話を。
吉田:現実の映像に対しての解釈だっていうことですね
土居:そうですね。それがさっき僕が言った、アニメーションが認識のフレームになりつつあるという話だったりもするんですけど。
吉田:さっきの一番最初に僕が言ってた話に戻るんですけど、アニメーションのディズニー化っていうことが一方であると。現実をアニメーションが飲み込んでしまって、すべてがキャラ化する。非人間的なものが人間化されてしまうような社会…映像世界があって、それに対してたぶんロトスコープ、ロトショップっていうのは、リアルなものとアニメーションの境界が非常に曖昧なものが世界であって、どちらもまあ、ディズニーにしても擬人的な世界にしても、ロトスコープ的な世界にしても、境界が揺らいでいるというか…。
土居:そうなんですよ。
吉田:どちらもそうなんだっていう風に思っているんですよね。一方ではディズニー的な世界が完全に社会を席巻してはいるんだけども、それに対してこういったロトスコープ的なものが曖昧さをむしろ力として、曖昧な状況、リアルなものとアニメーションの世界が曖昧な状況っていうものをむしろ逆手にとって何か新しいリアリティを抽出しようとしているんじゃないかという風に思っているんですよね。
土居:そうなんですよ。さっきは「もうどうしようもないよね」って話をしましたけど、ある意味でいうと希望もあると思うんですよね。現代のアニメーションをみてみると、人間の概念というかそれがもつ意味が変わってきているんですけど、本来人間だったものが非人間化されちゃうような状態もある一方で、逆に言うと人間扱いされていなかった人が人間化されることもあると思うんですよね。だから基本的にはすごく圧倒されてしまうようなどうしようもない状態なんだけど、逆に、境界線が揺らいでるってことをちゃんと認識することによって、本当は人間なのに非人間化されているようなものを人間化できる…
吉田:人間というものの境界を広げるというか、概念自体を少しずつ変えていくことがそのことによってできるかもしれない…。
土居:それによって救われるものとかも絶対あるはず。
吉田:そういう意味では肯定的に捉えることも可能なんだろうと。こういった絶望的な状況においても…っていうことになるわけですかね。
七里:そうですね。今日のところはそれを結論にしておきましょうか。今日は時間に限りがあって…。ようやく話をしはじめる前提ができたところでまた終わらなきゃいけないので、続きをいつかやりたいですね。
土居:そうですね。
七里:すみません、なんか今日もまたしどけなく始まりしどけなく終わるんですが、みなさんの中で持ち帰っていただければと思います。ありがとうございました。

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー

※各回の要約があります。↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?