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第2回「切断面がつながり続ける果てに」2014年3月22日 登壇者:渡邉大輔、吉田広明、七里圭

七里:『映画以内、映画以後、映画辺境』第二回を始めたいと思います。今日は当初から告知しているゲストの方と共に一回目の方もお招きして進めます。まず今回のメインゲストの渡邉大輔さんです。
渡邉:渡邉大輔です。よろしくお願いします。
七里:そして、第一回に登壇いただいた吉田広明さんです。
吉田:よろしくお願いします。
七里:この講座はそもそも、どういう経緯ではじめたかと言いますと、お手元の折込の中に『映画としての音楽』というライブイベント 【 http://keishichiri.com/jp/performances/live_eigatoshiteno/ 】 のチラシがあったかと思います。これを4月26日にアーツカウンシル東京の助成のもとに実験的なライブをしようと思っています。それに向けて、そしてそれを受けて三回にわたって映画の現状を考えてみようという趣旨です。そもそも映画の現状という風に言ってしまったんですが、僕がこの十年くらいぼんやりと感じている違和感というのがありまして、今かかっている映画が“映画のようなもの”を観ているような気がするという、それが何故なのか、あるいはただの気のせいなのかっていうのを、答えの出る話ではないかもしれないけどもまじめに考えてみようと。その際にまず映画のデジタル化が1つ原因として考えられるのではないかということで、前回はいったいプロジェクターで上映するとはどういうことかを、僕のフィルム作品『DUBHOUSE』【 http://keishichiri.com/jp/film/dubhouse/ 】をデジタル・プロジェクターでかけてみるとどう見えるのか、それは観た方はお分かりになったと思いますけど、観てない方もいらっしゃると思うので説明しますと、前半8分間は闇なんです。この闇がプロジェクターで上映すると真黒にしか見えない。微妙な影の表現というのが全く見えなくなってしまう。つまりプロジェクターで作っているのは影ではなく黒い光なんだっていうこと、こういうことがデジタル化によって変わってきてるんじゃないか、以前の映画とは違う表現になっているんじゃないかという疑問を投げかけたんですが、そんなことは映画の表現にとっては何の問題もなく、むしろ問題にしないようなもっと力強いものが映画であるはずと吉田さんは考えていらっしゃって。ただ吉田さんも、もしかしたら映画というより、表象体系っていうんですか?実物とそのイメージ、そしてそれに対する意味シンボル、この表象体系っていうものが…すいません、ちょっと言葉を補っていただけますか?
吉田:この間のまとめ的なことになりますけど、映画というのは表象という枠組みの中に入ると思うんです。つまりあるリアルなものがあって、それをこうイメージにする。そのイメージをシンボルと置き換える。その中に表象というのはどこか欠如というものを抱え込むと思うんですね。物そのものでは決してありえない。だけど、その欠如こそが実は表象っていうものが持っている力の源泉なのかもしれないと思うんですね。例えば一個のリンゴの映像があったとして、この一個のリンゴの映像っていうのはリンゴそのものでは全くないと、だからその中にズレがあるんですけど。じゃあそのリンゴってのはリンゴじゃないっていうだけのことなのかっていうと、例えばそれが赤いものかもしれなくて、赤いものとするとこの一本の映画に組み込まれた中で、何か別の赤いものと繋がるかもしれないし、そうじゃないものと対立関係に置かれるかもしれないし、あるいはリンゴってのは赤いものというより丸いものかもしれない。その後他の丸いものと関係を持つかもしれないし、三角のものとか四角のものと対立関係を生むかもしれないし、あるいはこれは食べられるものかもしれなしいし、あるいは投げられるものかもしれない。一個のリンゴの表象映像がリンゴそのものではないにも関わらず、それが映画の中に組み込まれていく、編集の中に組み込まれていくことによって、何か別のもっと違う意味を持ってくるってことがあるので、表象ってのはだから何か欠如ではあるんだけど欠如ゆえに豊かさを得ていくような性質のものであって。
七里:そういう仕組みだってことですか?
吉田:そうですね。一本の映画の中でモンタージュされていくことによって違った意味に生まれてくる余地がある、そういう力である。
七里:その表象するっていうこと、あるいは表象されたものを読むとか感じ取るとか、そういうこと自体に揺らぎが、変化が起きているかもしれないとは、吉田さんも思う?
吉田:そうですね。そういうものが表象が持っているズレとか欠如とか、それによって掻き立てられる想像力ってものが表象の力だったんだろうけど、どうもそれが変わりつつあるんだろうとは思うんですよね。それがどういうふうに変わってるのか、また変わった先にそれを肯定すべき新しいイメージがあるんだろうかっていうことが、まだはっきり僕にも掴めていないのがあって。
七里:そういう話をもうちょっと突っ込みたいってことがあって、今日も吉田さんに来ていただいたんですが、ざっくりと言えばデジタル化と同じようにソーシャル化っていうんですかね。映画、映像、どちらでもいいんですが、そのソーシャル化っていうこと。つまり、僕も数日前にiPhoneに変えたんですけど、今映画って映画館のスクリーンで観るだけじゃなくこういうのでも観れますよね。一昔前までは映画、映像って映画館で観るか、テレビで写ってるかぐらいだったのが今や巷にはディスプレイもそうだし、パソコンも、スマホやタブレットなんかでも映像が洪水のように溢れている。そして映像がコミュニケーションのツールにもなってきている。映像のデフレ現象っていうんですかね、このソーシャル化っていうことも問題の一つとしてあるんじゃないかということを、この現状、この全体を映像圏と名づけて『イメージの進行形』という本で非常に鋭くおまとめになった渡邉さんに、その辺のことを詳しく聞けたらなと思うんですけど、いかがでしょうか?無茶振りですね(笑)
渡邉:最初から話が壮大になってきていて、どういう切り口でいったらいいんだろうかと思って、今お二人のお話を伺っていました。今、七里さんからご紹介を頂いたように、もしかしたら読まれている方もいらっしゃるかもしれませんが、僕は二年前の暮れになりますが、七里さんに名前を出していただいた『イメージの進行形』という本を出しました。サブタイトルが「ソーシャル時代の映画と映像文化」という本です。七里さんの今のまとめとも繋がるし、今日のイベントのそもそものテーマもそうだと思うのですが、やはり映画をはじめとして、いわゆる映像文化と言われるものが、僕の印象ではかつてなかったほどのすごく大きな変化を迎えている。おそらくこの変化は不可逆のものだろうと思います。もう昔には戻ることは出来ない。まずはその認識を共通前提にして、ではその時にどういう変化が起こっているのか、私達のイメージとか映像をめぐる文化状況というのは、これからどうなるのかということを考えた本なんですね。映像文化が変わっていると一口に言っても、それは今日のテーマのデジタル化とか、他にも色んな条件があるわけです。僕の本では、とりあえずそれを映画に限らずですけれども、私達が今生きている現代世界の中でもはや無視できないものすごく大きな変化になっていると思われる「ソーシャル化」という現象をひとつの切り口として本を書いてみたわけです。ソーシャル化というのは皆さんもご存知のように、早くて90年代末、最も顕著に現れたのは、いわゆる「Web2.0」と言われた2005年から06年ぐらいに、例えばFacebookであるとか、Twitterであるとか、YouTubeであるとか、今でいったらLINEとかもそうかもしれませんが、双方向的で、かつ脊髄反射的で、今までにはなかったようなユーザー同士が相互に社会的にネットワーク上に張り巡らされながら、情報や会話やコンテンツといったものを交わし合う新しいメディアが出来たわけですね。その中で例えばYouTube、ニコニコ動画、Ustreamといったような映像をめぐるソーシャル化というのも私達にとって非常に大きなインパクトを持っているわけです。そういう現象が何なのかというのを書いてみたわけです。さっきのお二人のお話を受けて言うと、僕の本の中でも冒頭で言っていることなんですが、僕は基本的には「ソーシャル化」、または「ソーシャル・ネットワーク化」ということに照準して本を書いたわけです。ソーシャル化が起こってきた最大の前提には、今日のテーマでもある映像のデジタル化、情報のデジタル化っていうのが大前提としてあるわけです。僕の本の出版する前後に、例えばVPFという、映画館の映画を上映するシステム自体がどんどんデジタル化していって、その中でミニシアターが無くなっていくんじゃないかとか、あるいは映像消費のあり方、映画館で映画を観るっていう映画の受容体系そのものがどんどん変わっていくんじゃないかって議論がわーっと起こってきた。その中でそれまで映画というメディアを枠付けていた「フィルム」という、手で触れて物として投影する物質的な媒体がどんどん無くなっていく。いわゆる「フィルムレス」ですね。「フィルムからデジタルへ」という現象が、僕が本を書いている間でも起こってきたわけです。僕の本の中でも、ソーシャル化という大きな流れはもはや無視できなくて、そこにはデジタル化ということも含まれている。その傾向と言わばコントラストをなすようにして、コダックが潰れて映画館がどんどん潰れていくんじゃないかとか、フィルムがなくなっていくんじゃないかっていうような現象を合わせて書いたわけです。そして、僕は『イメージの進行形』で“映像圏”というコンセプトを出しています。その中で含意していたことは、いわゆる「フィルムレス」とか「フィルムからデジタルへ」というふうに最近すごく言われてますが、しかし一方で当然、フィルムが無くなるわけじゃないですよね。やっぱり映画館はこれからも残っていくでしょうし、数は少なくなるでしょうけどフィルムでの上映っていうのも残っていくだろうと。つまり僕達がまず考えなければいけないのは、フィルムからデジタルになるというすごくリニアな歴史の推移という風に物事を単純化してしまうのではなくて、映像文化や映像に対するアプローチに、かつて無かったほどにある種の寛容さ、ないしは多様性みたいなものを確保しなければいけないんじゃないか、ということが僕がそこで書きたかったことです。つまり、フィルムからデジタルへということではなく、この本の中では、フィルムもデジタルも、ニコニコ動画のMAD動画も、「映画的なもの」、つまり、映画なのか映画じゃないのかわからないような有象無象なものというのも全部取り込んで分析をしているわけです。僕達の中で重要なのは、今までフィルム、あるいは「表象」といっていたものがある種の「大きな物語」、映像文化をまとめあげる大きな秩序だったのだけれども、やっぱりそれがどんどんと「小さな物語」になっていく。小さなシステムになっていく。そのときにいろいろな小さな物語として成立するようになった、それらの映像文化やコンテンツに対して、「寛容さ」のような精神を育むということが、おそらく僕達が映像に対するアプローチのあり方として賭けられているのではないかと思います。それがやっぱり一番重要なことなんじゃないかと。だからフィルムからデジタルだというよりも、「フィルムもデジタルもプラスアルファ」も、と。
吉田:それは我々に非常に寄ってくれた意見であると。
渡辺:そうでもないですよ(笑)

吉田:不可逆的にやっぱりどうしてもソーシャル化するデジタル化するっていうのは避けられないんだろうし、デジタル化そのものが問題っていうよりはソーシャル化の映像がソーシャル化することの前提というか条件として多分デジタル化というのがあったんだろうとは思うんですけどね。デジタル化されることによって、映画なり映像なり全部データ化されちゃうと、もうコンピュータ上ネットにのっちゃうわけですよね。するとコンピュータであろうとスマホであろうと、そういうところで見れるようになっちゃうことが生じちゃうので、デジタル化が原因ではあるんだろうけどデジタル化のあとに起こったソーシャル化の方がもしかしたらインパクトっていうか持っていた影響がかなり大きいのかもしれない。そういったスマホとかパソコンにのっちゃった映像を今度はそれを使って映像を作るということがどんどん出てきちゃうってことになって。それが二次使用というか自己言及的な再帰的な映像っていうのがどんどん出てくるようになっちゃって。それを色々例を挙げてやってらっしゃるので僕としては面白かったというか。これがデジタル化になっちゃった後の映像なのねとは思ったわけなんですよね。かといって、これが我々がずっと観てきた映画に変わるものなの?っていうことなんですよね。
七里:そこなんですよね。今渡邉さんが寛容性とおっしゃったんですけど、寛容というと聞こえはいいんですけど。すごくけじめがないというか。切断面うんぬんと今日のタイトルをつけたのは、わりと直感的なんですが、作品を作るっていうのは現実から何かを切断することだと思うんですよ。その切断のときには血が流れるかもしれない、そんな話を前回話しましたけれど、そんなのっぴきならない覚悟で切断することで生まれる何かが作品だ、映画だとしたら、今ずるずるべったりというか生じてるものっていうのは、切断が甘いのか切断面が次から次へと繋がっちゃっているのか、とにかくけじめがない。それを寛容性って仰ったけれど、正直言って僕は、どういう風に前向きに捉えたらいいのか分らないんですよ。ずるずると切断面が繋がっていくような現象というのを受け入れるしかないのが結局我々が迎える未来なんですかね?
渡邉:文化状況として「切断」は確実にあります。ただ、その映像文化に対して寛容さや複数性、多様性みたいなものを育みましょうというのは、映像文化に関わる私達の主体的な態度の問題で、客観的な現実としてみれば、フィルムは縮小していくでしょう。また、ここ数年、「VPF」とか「ODS」とかいわれている映画のデジタル化の問題に関していうと、僕は問題の立て方というか、梯子のかけ方が狭すぎると思っています。いま起こっている映画や映像のデジタル化は、19世紀末に映画が生まれて、トーキーになって、カラーになって、その後の「映画史第三の革命」と言われているわけですね。ですが、その前のトーキー化、カラー化という二つの革命と今回のデジタル化革命が全く違うところは、トーキー化にしてもカラー化にしても、映画というジャンルの中だけの技術的な変化の問題だったわけです。しかし、今回起こっているデジタル化の問題は、映画という「ジャンル」の中だけの問題ではなくて、私達の社会や文化状況全体で起こっている話ですよね。ところが、例えばフィルメックスのシンポジウムをはじめ、昨今、いろいろな場所で行なわれていた映像のデジタル化の議論は、映画産業や映画館など、映画のジャンル内だけで語られていることが多い。しかし、映画がデジタル化するという事態は、レコードがiPodになり、本が電子書籍になるという問題と明らかに通底しているわけです。ですから、この問題を語る状況を見ていてすごくもどかしいのは、ジャンルオーバーに議論を組み立てる人が少ない。映画がこれからどうなっていくかと議論していても、やはりその梯子の立て方が違うというふうに思ってしまうのです。これは文化全体の問題です。従って、総体的に見れば、僕は切断は確実にあると思うし、おそらくこれから映画はどんどんデジタルになっていく。フィルムはどんどんなくなっていくだろうと。だから、もう切断面は確実にあって、もう後戻りできないと思っています。そこで変に、ある種のノスタルジックな態度をとっていても、それは生産的じゃないというのが、僕の書き手としての立場です。しかし、それだとあまりにも事態は単純化してしまうし、不毛なので、態度としては、寛容さの精神を育んでいくべきなんじゃないかと思っているというわけです。
七里:うーん、そうですか。じゃあ、初期映画とソーシャル化された後の映像圏の映像っていうのが関連性があるようだという話、そっちの方から行きますか。
渡邉:そっち行きますか?
七里:順番違う?(笑)
渡邉:そうですね…うーん。
七里:あの、僕がその寛容性っていうことが…。
渡邉:あと、さっきの吉田さんの「表象」に関するお話につなげれば、吉田さんが言われたかつてのフィルムというのは、いわゆる現実をリプリゼントしている、つまり表象している。したがってそれは、私達の現実世界で手で触れて触れるというような現実的な対象ではない、あくまでそのコピーであり、「表象」なわけです。そこに現実ではないという「欠如」が埋め込まれている。現実と代理表象、代理というところに孕まれるズレの部分に、映画を考えることの倫理とかハードコアみたいなものが宿るというお話だと思います。これは僕の本の中でも書きましたが、やはりこのことはおそらく80年代以降映画を語る中ですごく言われてきた問題だと思います。単純にいえば、例えば蓮實重彥さんなどがやられていた「表象文化論」というのは、そういう映画に対する知のアプローチだった。しかし、そういう考え方は基本的には「メディア論」だと思います。つまり例えば「映画」というメディアが確固たるまとまりとしてあり――このまとまりというのは、「物質性」と言い換えてもいいし、「固有性」と言い換えてもいいし、それを単純に言えば「フィルム」ということだとも思いますが。つまりはフィルムについて考える。フィルムの物質性について考えることが映画論であり、フィルムと、フィルムに映された映像、それが映し出している現実とのズレについて考えるもの。そういうフィルムの物質性の解像度を相対的に上げていくことは可能ですが、しかし、それが表象している現実の対象には絶対到達できないという、そのズレについて考えることが映画に対するアプローチとしてすごく重要だと思われていたわけですね。それはメディアについて考えることだったわけです。だから僕は基本的に、20世紀映画についてのアプローチとは、メディア論的なアプローチだったとまとめられると考えています。とはいえ、最近、表象文化論学会の学会誌『表象』の最新号で、「ポストメディウム映像のゆくえ」という特集が組まれました。「ポストメディウム論」というのが、90年代後半頃から注目され始めているようですね。つまり、今起こっているこうした動きは、先ほど申し上げたメディア論的な見取り図がある種失効しているんじゃないかということを、映画や映像について考えてる人たちが少なからず思っていることだと思うのです。それがポストメディウム論ということにも孕まれています。そして、このポストメディウム論とは、要するにデジタル化のことです。すなわち、かつてのメディア論が、現実的な対象をリプリゼントする、映すという現実と表象としての関係性においてあったわけだけど、デジタルというのは、ようするに情報のデータで0から、何にもないところから映像を作れるものなわけですね。今度、『ユリイカ』という雑誌でマーベル映画の特集がありまして、その原稿を書いているところなんですけど、例えば、スパイダーマンの身体というのは、現実的な対象は一切無いですよね。一切無いとは言わないんですけど、CGで作っている。つまり、そこでは現実との表象の二項対立で考える、そのズレにハードコアを見出すというような構図はもはや無くなっている。0からスパイダーマンの体もキャプテン・アメリカの体も作っちゃってる事態になってるわけですよね。これこそが、ポストメディウム的状況です。あるいは、ハイブリットメディウムってことかもしれない。そういうふうに、メディアに対するアプローチそのものが変わりつつある。それに対して、批評家も研究者も作り手も、おそらくかなり切実に対応しなければいけないことが今問われていることだと思うのです。
七里:わかりました(笑)。何がわかったかといいますと、今日の結論にわずか十数分でたどり着こうとしていることが。なので、ちょっと立ち止まって、じゃあ例えば、映画の物質性っていいましたよね。映画の物質性ってどういうことですか?
渡邉:つまり、フィルムという物がすごく象徴的ですけど、基本的には、まとまりがあって、手で触れられるということだと思うんですよね。
七里:まとまりがあって手で触れて。
渡邉:それは、なんていったらいいのかな、具体的な媒体でいえばフィルムってことになると思うんですけど。例えば、これを「ジャンル」の問題に置き換えると、映画や演劇、小説といった、ある特定のジャンルっていうのが確固としたまとまりとしてあるというリアリティとして捉えることができる。つまりジャンルの全体性といいますか、メディアの全体性っていうのが確固としてあるという我々の信憑、リアリティみたいなものを確保しえることが、物質性や固有性、単独性という言葉で僕が意味することですし、実際、そうしたジャンルのまとまりが確実に存在しているということがここ半世紀ぐらいずーっと信じられてきた。そういうリアリティが多くの人に共通前提としてあった。それが近代の「大きな物語」というものでもある。ところが、そういうリアリティや全体性みたいなものがどんどん無くなっているっていうのが今の状況だと思う。少し抽象的な例ですが、レヴィナスというフランスの哲学者が『全体性と無限』という本を書いています。あの題名がまさに象徴的で、今起こっている事態というのはこの「全体性から無限へ」、「全体性より無限」ということだと思う。つまり、全体性、ジャンルという我々のリアリティがボロボロと崩れていって、映画ってこういうものだと思っていたけど、ここまで映画かな?ここまで映画かな?というふうに、どんどんスケールフリーというか、ロングテールというか、つまりは無限にどんどん繋がっていける状態になっているんじゃないか。例えば、今まではスクリーンで観るという媒体が映画だと思われていたわけだけど、iPhoneで撮ったドキュメンタリーがアカデミー賞を受賞する時代になっている。それなら、ニコ動でもアリないんじゃないか、とか。映画ってどこまで行くんだろう?みたいな。そういう状態に今変わっているんじゃないかというのが僕の問題意識としてありますね。
七里:吉田さん、今の話どうですか?
吉田:そうですね。なんかちょっとジャンルに対する信憑ということよりも先ほどの話に戻りますけど、表象ってものが持っている現実との間の緊張感ね。それが表象っていうものが持っていた力なんだけれど、それがすでにオミットされちゃっているとこから始まっているのがいわゆるソーシャル化時代の映像なのかなと思っているんで、それを言葉にしても映像にしても同じことで、代理表象制度ってものが持っている現実とそれを表象したものの間のズレ、その間に生じる緊張感っていうものを力として得ている表現っていうものが成立しなくなってきているってことが多分僕としては一番大きなことかなと思っていて、どうしても観る場合にフィルムってもの媒体を一回通さないといけなかったもの、言葉を読むときに本っていうものを通さないといけなかった状態、そういった状態がパソコンとかスマホとかっていうことになっちゃうと全部データ化されちゃってそれが字であろうと映像であろうと全部一つの画面で見れちゃうっていうことになっちゃうので、それが一人がネットに上げちゃうとあっという間に流通しちゃったりとか、映画を観るときにフィルムを持っていて映写機にかけないといけないっていうことがあった。それが物質性とかなんかっていうことかもしれないけども。その根本には現実と表象の持っていた緊張感なんだと思うんですよね。それがあるかないかによって多分別れるんだろうという気が僕はするんですよ。
七里:僕は物質性とかいうとよくわからなくなるんですけど、でも映画っていうのは痕跡なんじゃないかとは思うんですよ。まあ誰もが言っていることで改めて語るほどのことではないですけど、映画はかつてそこにあった何か、例えば、風景の痕跡だと。その風景、場所は今もあるかもしれないけれど、その時のという意味ではもう無いですよね。だから何でもいいんだけど、例えば、僕と渡邉さんが今ここでバトルをしている。その様子を撮って映したものはそのバトルの痕跡だと。そういう意味では文学なんかも痕跡なのかもしれない。文学というか、本は。
吉田:もともと活字はそういうものだったからね。
七里:すいません、自分で言っておいてなんですが文学とか絵画とかに広げていくとちょっと説明しづらくなるので、映画に戻すと、映画が痕跡である所以は何かというと影なんですよね。映写機というのは、(フィルムの)プリントに後ろから光をあてて、その影をスクリーンに映すことで映画を見せる。で、そのプリントってのはどうやって作られるかというと、カメラのレンズを通して入ってきた光がフィルムに感光して、カメラの向こうの光景を写した像ですよね。厳密に言えばネガ像を作ってそれを反転するわけですが、とにかくスクリーンに映るのは影なんですよ。影があるってことは物である証拠。物に光を当てると影が出来ますよね。映画は影だったから物、物質性があったんだと思うんです。ところが前回(『DUBHOUSE』で)お見せしたように、プロジェクターになると影じゃない。黒なんですよね。データ通りに色を再現する光をあてているわけです。だから映写機とは根本的に違うものなんじゃないか、影を投影していたかつての映画に限りなく近いものを再現しているのだけど、光を照射してるという一点において痕跡であることが揺らいできているんじゃないかと。これが僕の、デジタル化によって今まで観てきたものとちょっと違うような気がしている、なんか違和感があることの根源かもしれないなあとか思ったりしてるんですけど。
吉田:それをだからそういったものをこれまでの映画っていうものを母体としてきた我々としては、違う、偽物だ、とするのか。
七里:本物か偽物かと言い出すと、今日の話の流れとは別の話になってきますよね。
吉田:だからそう。私はそこをやらないといけないわけなんです。
七里:それがまず前提としてあって。
吉田:そうなってるならしょうがないと。
七里:しょうがないんだけども、これからデジタルで撮っていく映像、映画ってのは何なんですかね?
渡邉:そうですね。今のお話は、デジタル化の問題に関してかなりクリティカルな問題で、要はアナログ写真における「インデックス性」ということです。でも、この話はまた少し理論的なところに行ってしまうと思うので…。
七里:どんなとこですか?
渡邉:この問題については、最近の『ユリイカ』誌の論考などでも書いているので、興味ある方は参照してください。僕からは、最近考えている、もう少しほんわかした例を出そうと思います。それは、さっき七里さんがおっしゃった「痕跡」という問題や、吉田さんがおっしゃった「表象」や「欠如」という問題系に繋がるものです。これもよく言われていることですが、20世紀の映画というものの存在のあり方を喩えるときに、よく言われていたのは、「ゾンビ」というメタファーだったわけですね。つまりそれは、活き活きした現実がフィルムに一回投影されているものだと。それは生ではない。つまり、もう一回死んでいるんだけど、あたかも生きているかのようにスクリーンに投影された映像は活き活きと動いていると。したがって、それは「仮死の祭典」ですね。生きてるんだけど死んでいる、みたいな、そういうズレっていうのか、欠如の補填っていうのか。そういうものを喩えるのにゾンビという隠喩がよくいわれていた。僕も去年、『ユリイカ』のゾンビ論で書きましたけど、例えばロメロとか黒沢清とかもそうですが、そういうゾンビ的な表象みたいなものが、恐らく特に80年代とか90年代とか、あるいは60年代ぐらいから、ある種すごくメタファーとして機能してきた。それでいうと、最近考えているのは、今の情報環境を前提にした映画の状況っていうのは、ゾンビからむしろ「生命」に変わりつつあるのではないか。つまり、よく「エコシステム」って言われるように、ウェブ環境は生態系とか生命システムに準えられますね。今ここで蠢いていて、常に生成変化というか、流転を続けていく状況として、ウェブにせよ映像環境にせよ、もしくは映画を考えていったほうが現状に照らして有効じゃないかと思っています。つまり「ゾンビから生命へ」、「生命論的映画論」みたいな。こういってもまだ訳がわかんないですけど、そういうことをまだ漠然とですが、考えています。しかも、それはデジタル化に引きつけていうと、一種のクローンの話でもあるわけです。ですから、もっと詳しくいうと、「ゾンビからクローンへ」というメタファーとして映画史の移行を考えられる。これはまだ全然考えもまとまってないので、ちらっというだけで終わりますけど。
七里:いや、ゾンビから生命へっていうのは面白いなと思いました。でも、それは疑似生命じゃないですか? 要は光しかないわけですよね。もはや我々が観るもの作るものは。影のない世界だから痕跡ではないとしたらそれは逆に、生きているものだと思うしかないのかもしれない。ものすごい倒錯ですけど。何かの痕跡っていう足かせがね、物があって実物があってそれに対応しているものとしてのイメージではなくなってしまった途端に、ものすごい増殖をはじめたってことですよね。こんなもの(iPhone)の中にも入っちゃうし。
吉田:そうですね、今まではあるものを映して映像にしてたものが0から作っちゃってもいいわけだから、それこそ本当にアニメーションの中に映像が全部含まれちゃうような、映画がアニメーションの一つのサブジャンルに過ぎなくなっちゃうことがマノヴィッチとか言ってるわけですけど、そういうことですよね。結局何か現実があってそれを映すものじゃなくて、もうはじめっから作り物の映像。映画がその中の一部に過ぎなくなっちゃうと。
七里:例を見せずにどんどん話が展開していってますけど、この辺で見せるとしたらやっぱり初音ミクなんですかね。
吉田:まぁそういうことになるのかなぁ。
渡邉:これ、皆さんついていってるんですかね?
七里:ちょっと初音ミクでも見て一服していただいて、『千本桜』を見ましょう。渡邉さんに解説していただければ、これが何でソーシャル化の映像の例として典型的なのかってことを。

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渡邉:初音ミクは、皆さんご存知ですか?ボーカロイドの代表的なコンテンツですね。ちょっと話しながらやったほうがいいかもしれない。これからお見せするのは、七里さんからいくつか動画を見せたいということでピックアップしたものです。(初音ミク『千本桜』、流れ出す)初音ミクは非常に有名なボーカロイドのソフトですが、もともとその初音ミクはユーザーが作曲した曲っていうのを初音ミクという美少女キャラクターに歌わせるっていうソフトですね。ここで面白いのは、今かかっているのは『千本桜』という初音ミクの中でも非常に有名な代表曲です。また、いわゆる「MMD」(ミクミクダンス)と呼ばれる動画コンテンツが、大体ゼロ年代の末ぐらいからニコニコ動画ですごく流行っています。これはそのいろいろな楽曲を3Dで作った初音ミクに踊らせる動画なわけです。初音ミクがユーザーが打ち込んだ楽曲を歌って、しかもそれを踊るという、単にこれだけなのですが。なぜこれを皆さんにお見せしているかというと、僕の本の中にも書いたことですけど、ここ数年の映像文化の中で日本に限らず世界的に注目されている1つの要素として、「身体性の前景化」があります。あるいは、これにすごく近い場所にある動画として、“踊ってみた”と呼ばれる動画があります。例えば「アイドルマスター」とか初音ミクの楽曲を流しながら、ウェブカムで自分が踊っているところを撮って、ただそれを流すっていう動画です。これもすごく流行っていますが、ともあれ、自分が踊ったり、デジタルのキャラクターに踊らせる、さらにそれを何故か動画サイトで観て盛り上がるのがすごく流行っているんですよね。この身体性の前景化、つまりすごくアグレッティブな情報的な身体性のイメージというのが、現代の映像文化の中ですごく注目すべき現象としてあると思います。
吉田:これ、ネギ持ってるんですね。(初音ミクが片手にネギを持っているのを指摘した発言)
七里:かわいいですね。ただ僕これを観ていて…今いうことじゃないかな。一旦止めてください。
渡邉:このボーカロイドは、今すごく面白いメディア的な増殖を遂げています。僕が最近すごく面白いと思っているのは、みなさんもご存知だと思いますけれども、『カゲロウプロジェクト』っていうのが、中高生の間ですごく流行っています。じん(自然の敵P)さんというボカロ職人の人が――この人、1990年生まれだと思うんですけど、まだすごく若い――、自分で初音ミクの楽曲を作って、小説も書いて、全部ヒットしてるのですね。今年テレビアニメも始まります。こういう、ボカロから生まれてくるメディアミックスというのも、映像の現状を考えるにあたって、すごく面白いと思っているわけです。何にせよ、そういう風に現在の映像環境とか、ウェブ環境で、身体性の前景化という要素がすごく注目される。さらに、このことが興味深いのは、これもよく言われていることですが、映画をはじめとした現代の映像環境やメディア環境と、映画が物語映画として確立する前の「初期映画」といわれていた19世紀末から20世紀初頭の映像文化はすごく構造的に似ているんだ、という風な議論がよく映画研究の中で話されています。僕が「踊ってみた」とか今の「ミクミクダンス」を観たときにすごく面白いなと思ったのは、初期映画でも全く同じように、ある種の「踊ってみた動画」が代表的なコンテンツとしてたくさん作られていたわけですね。
七里:4番(の映像)をお願いします。その話はね、非常に面白い話だと思っていて、今それはこれを観る前に言うのもなんなんですけど、似たようなコンテンツとして初期映画でも流行っていたと表現されたところが切り口なんじゃないかと思うんですよ。その辺の話を映像を観てもらった後にできたらなと。
渡邉:これからご覧いただくのは、エジソンという映画の発明者の一人で、非常に有名な発明家がいますが、彼のスタジオで作っていた、アナベルというダンサーのダンスをしている映像です。これは、まだ物語が付く前の本当に映画黎明期の頃の映像で(アナベルの映像が流れる)これがまさに初音ミクなんですね。おわかりのように、MMDならぬ「アナアナダンス」とでもいいますか、これもやはりMMDや“踊ってみた”と同じく、平面的な構図で単に人が踊っているだけ。身体性というイメージが前面に出ていて、撮影されている。(映像終了)まあ、これだけなんですけども、だから、僕もよく講演とか大学の授業で、さっきのアナベルのダンスを見せるとすごく「あっ、似ている!」という反応があるわけですね。今のウェブを含めた映像環境と初期映画が似ている、物語が付く前の黎明期の映画の状況が似ているんじゃないかっていうことをこうした1つの動きを繋げるだけで捉えることができるかもしれない。さて、ニコニコ動画のMAD動画とか、僕が仮に「映画的なもの」と呼んでいる、従来の映画というジャンルの概念からは逸脱しているんだけど、なんだかよくわからない有象無象のコンテンツっていうのがたくさんあるわけですね。それらが、ウェブを中心に、若い世代にすごく人気がある。そうしたコンテンツや動画は、よく「こんなの映画じゃない」って言われるわけですよね。MAD動画でもミクミクダンスでも踊ってみたでも、あらゆる新しい映像コンテンツに「こんなの映画じゃない」という言葉がよく言われるわけです。しかし、翻って初期映画の状況などをよく調べていくと、むしろ果たして「これが映画だ」ということが本当にはっきり言えた時期ってどのくらいあったんだろうかって思うわけです。どういうことかと言いますと、映画に物語が付いたり、音が付いたり、ハリウッドを含めた産業的な基盤が確立されたりするのは、20世紀の前半ですが、それ以前の、今お見せしたようなエジソンとかリュミエールとか、本当に最初に物語が付く以前の映像っていうものを作っていた時代は、その同時期に映画や映像に似たようないろいろなメディアが生まれていたわけです。例えば、象徴的な例でいうと、「列車」があります。汽車ですね。汽車は、一種のメディアとしてみなされていたわけですね。電話とか蓄音機とか映画と同じような一種のメディアだったわけです。あるいは、去年翻訳が出された、リピット水田堯さんの『原子の光(影の工学)』(月曜社)という本にも書かれていますが、例えばフロイトの精神分析や、あるいはX線もそうです。とにかく、僕達が今現在観たら「これは映画じゃない」とはっきりいえるようなメディアやツール、媒体が19世紀の終わりから20世紀にかけてわーっと現れ、しかもそれらは相互に関連していた。僕の本の中でも論じましたが、「汽車活動写真」という今で言うライドアトラクションみたいなものもあったりした。レントゲンと映画と精神分析っていうのが並行的に考えられていた時もあった。つまり、さっきのメディアとかジャンルの話にも繋がりますが、美術批評の文脈では「メディウム・スペシフィティ」と言われるわけですが、つまり、これがこのメディアです、これがこのジャンルですという確固とした特徴、性質、概念がある、と20世紀長らく思われていた。その時代が「モダニズム」なわけです。そういうメディウム・スペシフィティが信じられていた時期があったんだけれども、しかし、いま振り抱えると、それは単に歴史のある一時期にすぎず、もともとメディアというのはもっと雑然、混交としていた。これを「メディウム・プロミスキュイティ」と言ってる人がいますが、つまり混交状態ですね。ハイブリッド。メディアというのは、本来そんなにちゃんと分けられるわけじゃない。ジャンルもちゃんと分けられるわけじゃない。もっとドロドロぐちゃぐちゃしていて、だからここでさっきの生命という論点にも関わってくるのです。そのあたりが非常に面白い。
七里:というふうに渡邉さんが仰ることに、敢えて疑問を呈したいんですけど。初音ミク、滅多にスクリーンでかけることはない、こともないとは思うんですけども、僕はこれをスクリーンで見たのは本当に今日が初めてで、正直に言いますが、このミクミクダンスを観たときの、なんかこう、心の動かされ方と、アナベルダンスへの心の動かされ方は、「ね、似てるでしょ?」って言われれば言われるほど、同じような気がしないんですよ。
吉田:それは、僕も実はそう思います。初音ミクの場合だったら音楽ありきで音楽に合わせてつけるわけじゃないですか。それに対してアナベルの場合は、別に音はないわけだよね。
渡邉:いえ、当時は、劇場で伴奏音楽は鳴っていました。
吉田:まぁピアノ伴奏とかはしてたかもしれないけど、それに合わせて踊ってるわけじゃないじゃないですか。あとやっぱり見た感じだと、アナベルのダンスの場合ヒラヒラをね、やってると。フワフワフワフワしてて。あの形象(?)、フィギュア?あれが面白いなぁと思って観るわけで。普通に踊ってるわけじゃないじゃないですか。あのヒラヒラつけて踊ってるから、非常に変なかたちに見える、ちょうちょみたいに見えることもある。一方、初音ミクは別に人間的な形状として必ずしも変ではない。普通に人間のイメージなのね、見れば見れるっていう。そこがちょっと映像として見た場合には、まぁ確かに二人とも踊ってるっていう点では共通してるけど、じゃあそれはイメージとして同じなのって言われると、なんか微妙だなぁっていう気がしたんですけどね。
七里:それは、すごく考えるポイントのような気がして。もしかしたら、パソコンの画面でYouTubeとかで『千本桜』を見たら、なんかこう、今日一日のストレスが解消されていくような、萌えるっていう状態が、言っててなんか照れるんですけど(笑)、そこに入り込んでしまう情動というか、状況が生まれるかもしれない。でも、同じようにアナベルをYouTubeで見て、そういう風に萌えるかっていうとまた違う気がする…。
吉田:だって初音ミクの場合、やっぱキャラありきってこともあるからね。アナベルって人を知ってれば別だけど、その当時有名な人なのか僕もよく分からんけど、有名かもしれないけど。初期映画の場合、実際にいたシッティング・ブルというインディアンを写したりね、バッファロー・ビル・コーディっていう有名な西部人で、「ワイルド・ウェスト・ショー」という西部をショー化した人がいるけども、その一座にいたインディアンがダンスするとこを見せたりとか、ダンスに限らずそのインディアン見せる、バッファロー・ビル・コーディが曲芸やってみせる、とかっていうのを写したりとかして。まぁ当時としては有名人だからそれはキャラってことはあるかもしれないけども。
七里:それって見世物ですよね。
吉田:そう、見世物ですよね。
七里:見世物であるということ、それは渡邉さんが仰ったように初期映画の頃、映像を使ったいろんな見世物があった、幻燈とかパノラマとかスペクタクルというかアトラクションとしてあったっていうことはいろいろ考えるヒントになると思うんですが、それらと今の映像圏のいろんな映像コンテンツが似ているというのは、ちょっとまだペンディングにしておきたい。むしろ、いろんな見世物の映像と、映像圏の中に似たようにある映像コンテンツとのどこが違うのかっていうことを考えたいっていうか…どう思われます?敢えて違う点を挙げるとすると。
渡邉:もちろん、違う点はたくさんあると思います。今、吉田さんが仰られた、表象の問題とか、あるいはそのチラチラっとしたテクスチャーの話もその通りでしょう。それは僕自身、全く否定するつもりはないし、僕も「全然違うよ」って言われればそうだと思うんですけど…まず、この議論はあくまでも「批評的」な操作なわけです。ミクミクダンスとアナベルのバタフライが、表象のレベルで全然違うと言われれば、それはそうでしょう。とはいえ、今の変容する映像環境をクリティカルに捉え返す時に、「こういう風な見方がある」というような批評的な操作をやることは、凄く重要ですよね。さっきも言ったように、僕たちが直面している映像文化は、19世紀とか20世紀に映画や写真が発明されてから、今までなかったくらいの凄く大きな変化だと思ってます。
七里:それは僕もそう思っています。
渡邉:その時、今のご指摘にも繋がりますが、例えば、僕がこの『イメージの進行形』を出した後、「議論が乱暴だ」とか「雑だ」という類の意見が見受けられました。ただ、そういう操作っていうのは、僕もある程度自覚して、あえてやっているわけです。なぜなら、今みたいな時代だからこそ、そういう多少乱暴な操作が必要だろうと思うからです。それはどういうことかって言うと、やはり僕は明治維新のことを想起するんです。例えば、吉川幸次郎という著名な中国文学者が『古典について』というエッセイを書いています。その中で彼が何を言っているかというと、明治の文化を一言で枠づけると、「すごく雑だ」と言っているのですね。「肌理が粗い」と言っているのです。それは例えば、言葉の扱い方にしても、江戸時代に蓄積されてきた「注釈」の素養、言葉の肌理を読むという知が、『広辞苑』のような、意味を抽象化して粗末にするっていうことにも表れている。そうした、江戸時代にあった豊饒な知やスタイルを、明治の時代はいろいろなところですごく雑にしてしまったというふうに吉川幸次郎は言っているんですね。でも、その彼の発言はネガティブなニュアンスではないのです。要するに、当時の「近代化」というのは、日本の歴史が始まって以来のもの凄い大変化だったわけですよね。そのときに明治の知識人もそうだったかも知れないし、クリエイターもそうだったかもしれないけど、ある種、それまであった豊饒な差異とか、その差異に気付く感性みたいなものを、あえて抽象化して、瑣末な、雑なものにすることによってこそ、失われる文化をサバイブさせるというか、かつての文化のDNAみたいなものを受け継いでいった、そういう作業だったんじゃないかっていうことを言ってるのです。僕が試みているのも、そういう作業です。あるいは、僕が『イメージの進行形』を書き終わってから、痛切に感じたことがあります。皆さんもご存知だと思いますけど、正岡子規の「歌よみに与ふる書」を読んだんですね。僕はすごい感銘を受けました。あの本の中で、子規はすごく無茶苦茶なことを言ってるわけですよ。「貫之は下手な歌詠みにて、『古今集』は下らぬ集にこれあり候」と。つまり、今まで和歌の歴史は、江戸時代まで紀貫之という人が絶対のお手本だったわけですね。『古今集』も権威あるお手本だった。でも、そんなものは全部下らないよって子規は言っちゃったわけです。例えば、いま映画で言ったら、「ヒッチコックは下手な監督にて、『サイコ』は下らぬ映画にこれあり候」って言うようなものですよね。それで、それはおそらく嘘なんですよ。子規は本当に思って書いたわけではないと思う。これも、あえて子規は書かざるを得なかった。この、なぜ書かざるを得なかったかという文脈がすごく重要です。つまり正岡子規って人は和歌とか俳諧といったものが……。
七里:正岡子規は分かったから、敢えてそこまで…いや、だからね、『イメージの進行形』批判をしているわけでは、僕らはない…
渡邉:全然いいですよ。
七里:その…さっきの初音ミクを見て、アナベルのダンスを見て、その違いについて話をしたい…。
渡邉:そこはじゃあ、どういう違いだと思います?
吉田:僕はフォーマットがあるかないか、だと思う。初音ミクの場合はフォーマットがあって、そこにみんな乗っかっていくっていう、別にそれは悪いことじゃなくて、アナベルの場合はやっぱりなんか「こんな変なもんありますよ」っていう面白さできているわけだよね。それが素材のいろいろ、こんなもんもある、こんなもんもあるよって出してきてるだけで。一方、初音ミクの場合は、初音ミクっていうソフトがあって、ソフトに乗っかると歌ってくれますよ、この人が。或いはミクミクダンスのソフト使えばこの人が踊ってくれますよっていうフォーマットを、みんなそこに乗っかっていく。ただそれが作られていくうちに、多分どんどんどんどん、変化してくんだろう、フォーマット自体の変化も起こってくる、ってこともあるんだろうけども。その場合にフォーマット自体は、それにみんな一応乗っかるっていうそこの違いかなって思う。だから何度も言うように、現実があってそれをイメージ化するっていう、その二つの間の緊張感ってものから、映画っていうのがあるとしたら、それをできあがったイメージから、またなんか作りだすっていう、イメージからイメージを作り出すっていう、二重段階になってるんだけども、最初の基盤になってる部分は、まぁ置いとこう、と。そこの疑いから、疑いとか緊張から映画って言うのは力を引き出してきたけども、その最初のイメージはありきにしようってことで出来てきてるのかなぁっていう。このソーシャル時代の映像ってものが。そういう気が僕はしてて。
七里:初音ミクって、やっぱりプログラムだから余計それが顕著なんだと思うんですけども。例えば「踊ってみた」現象っていうか、そういうのはどうですか? アナベルだってなんかの曲に合わせて踊ってるわけだし、YouTubeで踊ってる人たちも、なんかちょっとブサイクちゃんだったりするとか、そういう微妙な面白さが…
吉田:「踊ってみた」の場合にしたって、元の曲に自分が新しいダンスをつけるわけじゃないから。ありきのダンスなんですよね。
七里:じゃあそれも人間がフォーマットに嵌ってみるっていう。
吉田:そうそうそう。だから初音ミクと、初音ミクは多分初音ミクだけでモノ言っちゃいけなくて、片方でPerfumeとか、ああいうものも対にしないといけないと前から思ってて、それは最近佐々木敦さんもそんなこと言ってるのを見たんだけど。方やこう、人間をそういったプログラム化する、機械化するのと、機械を人間化する、まぁ本当に反対方向から一致してきてるっていうのもあって、なんかそれが相即的なものとして語らないといけないと思ってんだけど。なんせやっぱりフォーマットにとにかく乗っかってみましょうっていうことで、フォーマットありきになってんのかなっていう気がしてるのね。で、イメージからイメージを作るって意味で嘘字幕を見せてもらいたいわけ、今。
七里:あ、見ましょうか。じゃあ1番(の映像)をお願いします。
渡邉:またこれを僕が解説をして…ってことですよね。
七里:お願いします。
渡邉:今、吉田さんが解説してくれたお話っていうのが、凄く重要な論点です。吉田さんが「フォーマット」という言葉で呼ばれていたことというのは、この10年くらい、文化批評や社会学系の議論の中で一種の流行語のように言われていた、「アーキテクチャ」というものです。全てを設計し、それをプログラムの下に管理していく情報環境のことをアーキテクチャというふうにいうわけです。濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』(NTT出版)で詳しく論じられていますね。この、全てを設計管理し、そこから自己生成していくようなプラットフォームというのが、これからの文化や社会をずっと作っていく、とこの10年ほどずっと言われていました。それで、今お見せしているのが、これもニコニコ動画で10年くらい前からずっと流行っている「嘘字幕動画」と呼ばれているものです。ざっと解説すると、今映っている映像、作品は、『ヒトラー 最後の12日間』というドイツ映画です。それの断片映像ですね。その映像に、ニコ動のいわゆるマッド職人というユーザーが自由に字幕をつけていくわけです。その字幕は、この映像の映画の本筋とは全く関係ないわけですね。例えば、オタクネタだったり時事ネタだったりですね、これだとクリスマスについてヒトラーが怒ってるわけですが。(動画再生)まあ、くだらないですね。こういう動画が、ニコニコ動画で「嘘字幕」とか「総統閣下シリーズ」で検索すると、何千件と出てきます。さて、この嘘字幕は、二分か三分くらいの『ヒトラー最後の12日間』の中の使っている一シークエンスは全部同じで、字幕だけ変えているというのが動画の趣向になっているわけです。はっきり言って下らない動画だといえます。しかし他方で、すごくクリティカルというか、面白いなと言える側面がある。それは、まさにさっき吉田さんがちょっと仰ったフォーマット、一般的に呼ばれているアーキテクチャの特徴を、映像レベルですごく象徴的に示している映像だと思うからです。つまり、あそこで一種のフォーマット、プラットフォームになっているのは、たまたま偶然選ばれた『ヒトラー最後の12日間』の何分間かの動画、映像ですね。あのフォーマットっていうのは変わらないわけです。あれを一つのフォーマット、アーキテクチャにして、いわゆる通常の区分で言えば、本来は映画の映像の単なる不可的要素に過ぎない「字幕」のほうが創造的に増殖している。いいかえれば、データ、コンテンツに付加されている、付加要素としての「メタデータ」に過ぎなかった筈の字幕っていう要素が、言ってみればニコ動のマッド職人によって、どんどんどんどん無根拠かつ無目的、自己生成的に創発していっている。あの字幕だけ変えた同じ映像っていうのがわーっと、大量に産み出されていくわけです。つまり、あの動画を支配しているのは、言ってみれば本来は付加要素に過ぎなかった筈の、あの嘘字幕なのです。そういうメタデータ、付加要素が一つのプラットフォームの中で自己増殖していって、あらゆる行動とか文化とかコンテンツを操作していく、管理していくっていうのは、映画に限らず、要は、僕たちの文化がアーキテクチャの台頭によって直面している一つの傾向だと言えます。濱野さんをはじめ、いろんな人がそういうこと書いていますね。そういう現象っていうのを、今見て頂いた映像は、すごく象徴的に写しているなあという風に思うわけです。
吉田:ここで、そういったものが増殖していくっていうのは、成程、こういうことなのかなぁとは思うんですけど。で、我々としては、その付けられた字幕がその映画自体の解釈を画期的に変えるってわけでは全然ないわけじゃないですか。解釈とかっていう、そういう次元にまで行かない、すごくこう…。
渡邉:その「解釈」の定義というのは。
吉田:『ヒトラー最後の12日間』自体が、普通に見ればこういう映画に見えるけど、実はこういう側面もあるんですよっていう。全く普通に見ていると気がつかないような解釈を、新しい見方を、それに対して、元の映画に対して、元の映画が全くもう、それ以前の見方では見れなくなっちゃうような具合の解釈をしているわけではないじゃないですか。兎に角、表層的なところを滑っていく感じの映像技術。これが、確かにソーシャル時代の映像だと言われればあぁ成程、とも思うけれども、じゃあその中から何が生まれるのかしらっていう。何かそれを積極的に、我々世代みたいなもんからしても肯定しうるような「何が」そこに見出されるのかな、というとこで、どうなんだろうと思うわけですよ。これ、一個一個は確かに作品っちゃ作品なんだけど、作品という風に、大文字の、我々がこれまで考えてきている一本の映画なら一本の映画、一個の小説なら一個の小説、作品として成立しているようなものとして、これは言えるのかどうか。
七里:多分、作品っていう概念が変質している…もっと言えば作品っていう行為が無化してく世界…ですよね。
吉田:そう、だから映画作品ってものも成り立たなくなっていく。
七里:ただ、これも、ここで観たのは初めてなんですけど、打ち合わせの時にノートパソコンで見ていて、そのときには渡邉さんの仰ることに頷けたんですよ。それがなぜか、スクリーンで観ると違う印象になる。
渡邉:そうですか?「くだらねえなぁ」って思いながら…。
七里:「くだらねえなぁ」って言ったけれど、でも、これはこれで元の映画がどうだっていうことではなく、ヒトラー的なね、存在の悲哀みたいなね、このちっちゃい奴のちっちゃい哀しみの発露みたいなのが、もの凄く情感をもって、って言うとちょっと大袈裟だけど伝わってくる。やっぱり、コンテンツとかなんとかいうカタカナ言葉で映画も何も十把一絡げにくくられるような、ああいうことではなくて、もっとこう、映画って舞台芸術と違って“場”のものではないけどそれでも、こういう映画館とかで観ると、まぁ映画館っていうにはここはこじんまりしてますけど(笑)、スクリーンに映して暗がりで観るっていうことが映画っていうものを作っているかもしれないなって、まぁ当り前のことですけどね。だから今、パブリックビューイングでしたっけ?映画館でオペラを見たりサッカーの試合を中継したりもするから、それまで映画だとは言わないけども、ネット動画みたいなものも映画館で見せると、なんか見え方が変わってくる部分ってあったりするなあと思ってたんですけど。だから、くだらないこともないかもしれないと(笑)。
渡邉:吉田さんがここでずっと仰ってることというのは、端的にまとめると「アーキテクチャ批判」だと思います。吉田さんが仰っていることは、もちろんすごく分かるし、今後も重要になっていくことは間違いないのだけれども、ここはやっぱり世代の違いだと思います。あの動画が『ヒトラー最後の12日間』の解釈になんの影響も及ぼさないっていうふうに仰ったじゃないですか。つまりそれは、注目する部分が「データ」ですよね。つまりコンテンツ、表象と言ってもいいし、なんでもそうなんだけれども、そこの部分がすごく重要だということですね。それはよく分かっているし、そうだと思うんだけれども。これも繰り返しになりますが、今の時代は、そちらには動いてないのではないかというのが僕の議論の大前提にあるのです。
吉田:それ分かってて。で、どうしてもネガティブに言っちゃうんですけど、面白いと思ってるでしょ?こういうもの。まぁ初音ミクとかもちょこちょこ見るし。「なんで面白いって俺は思っちゃうんだろう」っていうところがあって。
七里:それは知りたいですよね。
吉田:そう、俺もそこを知りたいけど(笑)。「なんで俺はこんなもんを面白がってんだ」っていう(笑)。
渡邉:いずれにしろ、基準を変える必要があるというのは思っていて、そのことだけをずっと考えているのですが…。
吉田:そういうのを見て面白いなぁって思って、それを肯定したい、肯定する言葉をどうやって見つけようかなぁって思ってるっていうことなんですよ、要は。だから、こういったものを批判してる、こんなんダメじゃんって言ってるわけじゃないですよ。それをなんで僕は面白いと、ずっとこういった映画とか表象ってことを考えてきてる人間が、「なんでこれって面白いんだろ」って思って。僕はアニメも見るんですね。アニメは劇場にかかってるものとかじゃなくて、テレビでやってるやつとかも週に10本とか20本とか見るんですけど、面白いわけ。
七里:20本も見てるんですか?
吉田:見ますよ(笑)。
渡邉:何をご覧になっているんですか(笑)。
吉田:まぁ今はそれはいいけど、恥ずかしいから(笑)。
渡邉:『まどマギ』(『魔法少女まどか☆マギカ』)ですか?
吉田:『まどマギ』は当然見ましたよ。
七里:わかんね~。
渡邉:『まどマギ』を見てないって、これヤバいですよ(笑)。
七里:ヤバいっすね~ダメだ(笑)。
吉田:だからアニメをね、どうやって積極的に肯定的に語ったらいいんだろうかってずっと探してるって感じなんですよ。映画はたしかにずっと言ってるふうに、現実があってそれを写してるもんだけど、アニメっていうのは始めから絵なんだから、それを組み合わせてく、どうしても作品として見てるってまだ映画を見る感覚と同じ感覚で見てることはあるのかもしれないけど、どうもそれも違うような気がすると思って。いろいろね、東浩紀さんの本とか読んでるわけだけど。「成る程」とは思うけど、じゃあ自分としたらどうなんだろうっていう、そこがまだ架け橋が見つからないっていう状態。だからそこは、こうやって話をしていく中で見つかるのかなぁっていうふうに思ってるわけなんだけど。
渡邉:よく分かります。
七里:だから、要は…また強引に話を結びつけちゃうんですけども。さっき言ったようにスクリーンに映すと、初音ミクであれ、マッド動画であれ、なんか映画のようにみえてきてしまう。っていうのと同じようにですね、コンテンツの問題、そういう切断面が繋がっていくような、洪水のような映像があるっていうことは、そういうのが撮れる、作れる環境が、ものすごく敷居が低くあるっていうことでもある。で、僕、二、三日前に買ったんですけど、これ(iPhone)で映像撮ってみたんですよ。それをちょっと見てもらおうと…大したもんじゃないんですけどね。
(30秒ほどの動画再生)
(終了後、一同爆笑)
七里:まずはこれ、キレイでしょ(笑)
渡邉:さっきのあの動画はなんだったんだっていう感じ。大違いですね。
七里:これで撮ったんですよ、しかも昨日。僕が助監督時代にお世話になった上司や部下たちと、たまたま梅見の会があって。たまたまなんだけど、その席にある女優さんがいたから、「ちょっとなんか、撮ってもいい?」って感じで撮ったのが今の映像。寝そべってたのが鈴木清順組の助監督とかをやられている僕の上司だった人なんですけど、「ああ、今の雰囲気いいな~」って、なんかこう、「梅から、パ~ン(※カメラを振る)」みたいな感じで(笑)。そう、“パーンみたいな感じ”でも、この程度の映像は撮れちゃう。そして、スクリーンでかかっちゃう。
吉田:ホントに、スクリーンで見てて、全然、ね。
七里:なんか映画のワンシーンみたいなね。
吉田:割とこう、手前から後ろまでクリアにね、写ってるしね。
七里:もうこれでいいんじゃないかな(笑)みたいになりますよね。そうするともう、苦労して助監督してカチンコ打って何年も映画の作り方学ぶなんていうのは、てんでバカバカしいことになっちゃうし。今このフィーリングで…フィーリングっていう言葉も(笑)意識せず出てしまう、この古さ(笑)。ヤバいっすね~(笑)。
吉田:画素数とかってのは全然普通の…
七里:フルHDですね。
吉田:映画とかに使ってるようなものと全く変わらないんですか?
七里:厳密に言うと、今はもっと4Kだなんだってなってきてますから、所謂HDのサイズで間違いないですよね?高橋さん。(と講座の記録撮影をしているカメラマンに問う)
高橋:ビットレートが低い。
七里:あぁそうか、だからちょっとカクカクする。でも、画素数はフルHDってことでいいんですよね。(高橋、頷く)
吉田:でも今流してもそんなにカクカクした感じでも(ない)…。
七里:あれはあれでいい感じですよね。だから、被写体を選んで、選んでって言うとなんか偉そうですけども、その場にたまたまいた女優さんを、なんかこう、いい風景の中で撮ればそれでいいじゃんっていう。で、ここでかけちゃって「あれ、キレイだね」ってなって…だから何だってことでもないんですけど。どうでしょうかね(笑)?ソーシャル化の一端である…
渡邉:まさに映像圏というか、僕が本来描いていたこととも繋がると思うのですけど…なんか…難しいですね…。
七里:(笑)そんなこと言わずに教えて下さい。
渡邉:何を(笑)。良い映像だったなぁという感じですけど。ただ、やはり僕は、この現状に対してポジティブにならざるを得ないわけです。だから…。
七里:いや、だから僕もポジティブに受け止めようと思ってやってるんですが(笑)。ちょっと休憩入れますか?
渡邉:皆さんがすごい心配なんですけど、大丈夫ですか?疲れてないですか?
七里:休憩っても、もう8時10分前くらいですよね。
吉田:もうちょっとやれば終わりくらいの…
七里:終わりにした方がいいですか(笑)?今日はなんか…
渡邉:大丈夫なのかなっていうか、僕一回目もお客で来てたんですけど、大丈夫なんですかね…お客さんがすごい心配で。
七里:質問とか、聞いてみますか?
渡邉:そうですね。
七里:大体こういうときって出ないんですけどね。今までの話を聞いて、聞いてみたいことがある人いますか?
(手が上がる)
質問:議論っていうのは多分、具体から出発した方がいいと思うんですけど…。で、こういう問題を考えるきっかけになった映画とか、例えば、僕のことは良いかもしれないですけど、僕はカラックスの『ホーリー・モーターズ』を観て、ちょっとそういうことを考えるきっかけになったんですけど、そういうきっかけになった作品とかあれば教えていただきたいんですけど。皆さんに。
七里:じゃあ、吉田さんから…。
吉田:ええ(笑)?俺が言いだしっぺなわけじゃないわけだからさぁ…それを七里さんが言わないとダメじゃないの?
七里:スミマセン、じゃあ…。でも、確かにね、『ホーリー・モーターズ』、最初があれなんですよ、「映画以後」っていう、「以内・以後・辺境」っていう話は。最初にしたのはイメージフォーラム研究所っていうとこで、年一回やってる講座の中で話したんですけど。もう、今までの映画を全部映画以内と括ろう。で、映画以内の映画っていうのは今後も撮られ続けていくだろう、それはフィルムじゃなくなっても。そして、その映画以内に対して、映画以後の映画ってのが生まれ始めてるんじゃないかっていう切り口で話してみようと、タイトルを付けてみたんですね。その時に、やっぱり映画以後の映画かもしれないって思ったのはやっぱり『ホーリー・モーターズ』でしたね。あとは、ベン・リヴァースの『湖畔の二年間』とか。もう、これは現在の文脈の中から出てきた問題意識っていうか、今の映画っていうものを考えつくしたところが出てきてるのかもしれないなって。そういう映画以後の映画だと思った一つは、やっぱり『ホーリー・モーターズ』だったんですけど。そのぐらいでどうでしょうか。そういうのありますか?
吉田:えー…映画でって言われると、ちょっと僕もよく分かんないんですけど。さっき言ったように、僕やっぱり、アニメを見ていて「アニメ面白いな」と思って。「なんでアニメって面白いんだろう」って考えてるのが、多分そこにつながるでしょうね。映像論としてアニメを語る自分の言葉が見いだせれば、僕としてイメージの今を語ったことになれるかなという。映画の方で現在を感じさせる作品、というのは僕にとってどちらかというと評価的にネガティブになってしまうので。
七里:あとはね、あれ…あの人、『ガンモ』とか撮った人なんて言いましたっけ?
吉田:ハーモニー・コリン?
七里:ハーモニー・コリンの、今年やったやつ(『スプリング・ブレイカーズ』)の前なのかな。ゴミ箱にビデオテープが捨てられてて、そのビデオテープを再生したら、マスクをした悪ガキたちがある田舎町で、もう、したい放題のことして、老人虐待したりとか、糞まみれにしたりとかっていうビデオでした、っていうのがあって(『トラッシュ・ハンパーズ』)。それもなんか、圧倒的にすごくて。「これって映画だよなぁ…?」っていうか(笑)、「映画なのか?」みたいな。
吉田:映画とその限界というか、そういうこと?
七里:う~ん…凄いなぁ…って思った。で、そういう映画以後の映画っていうものを、僕もやっぱり目指せれるものなら、でも目指して出来るものでもないかもしれないし、それってそうなってしまうものなのかもしれないし、っていうふうに考えてた時に、そうやって、映画以後の映画にならないもの、ならないけども映画以内に収まりきらないもの、そして映画としか言いようのないものってのもあるなぁ、と。そういうものは、それこそ初期映画の時代からあったんじゃないか。それが辺境の映画っていうか、映画の周縁ではないんだけども、ある時代はそれが映画だったり…
吉田:それは前衛とか、そういうことじゃなくてですか?
七里:前衛…うん、前衛っていうか…でも前衛映画なのかな。
吉田:その中にも何本かそういうのはあるって感じか。
七里:はい。だから、僕はホントに論理的じゃないんで(笑)。直感的にそういう風に思って、語ってみようと思って、見事に失敗したのが 第ゼロ回だったんですよ。それで反省をして、いろんな識者の方々のお話を聞きながら、もう一度、自分が漠然と思っていることを検証してみようというのが動機だったりするんですけど…。今の文脈で言うと、渡邉さんなんか、感じるものありますかね?
渡邉:僕は、作品でいうと、日本では松江哲明監督、海外でいうとペドロ・コスタとかワン・ビンとかっていう人でしょうかね。あと、基本的に僕の映画批評とか映画論っていうのは、フェイクドキュメンタリー論から始まっています。『ブレアウィッチ・プロジェクト』以降、ゼロ年代、まぁ今でも結構流行っていますけど。そのフェイクドキュメンタリーってなんなんだろうっていうところから出発しました。僕が最初に書いた映画論はフェイクドキュメンタリー論でした。『クローバーフィールド』とか、ああいうものは、リアルと虚構っていうのを、すごくシニカルに合体させている。因みにおいくつですか?
質問者:23です。
渡邉:23歳か、若いっすね~…はぁ~…(笑)。何で伺ったかというと、僕いま32歳なのですが、やっぱり映画、所謂「シネフィル」という人は僕の世代にもたくさんいて、そういう人はちょっと違うと思うんですが、80年代はじめ生まれの人たちっていうのは、東浩紀さんや宮台真司さんの言説の影響がすごく強いと思います。もっと抽象的というか、ざっくり言うと、ゲームとかライトノベルとかというオタク文化と、当時でいえば「はてな」みたいな、ネットカルチャーですね。それが、渾然一体となったある種の文化圏が、僕の学生時代すごく盛り上がっていました。今日この鼎談があるというので、七里さんが昔『MIRAGE』っていう雑誌にインタビューされてるのを持って来たんですが。
七里:最新号面白んです。
渡邉:七里さんのインタビューで、七里さんが学生時代だった時の、ある種映画文化の盛り上がり、「ユースカルチャーとしての映画文化」の盛り上がりみたいなことを、凄く細かくこの中で話されてらっしゃいます。僕は、すごく既視感があったというか、七里さんにとってのその80年代の映画文化っていうのは、僕の世代にとっての、所謂「ゼロ年代論壇」と言われたある種の文化圏なんですよね。そこから宇野常寛さんとか、濱野智史さんとか荻上チキさんとか、誰でもいいですけど、今僕の同世代で活躍している若手知識人っていうのが大挙して出てきたわけです。その中で、映画は、ハッキリ言って、誰も重要に扱っていなかった、つまりもう「オワコン」だったわけですよね。だから、僕の問題意識は、僕の世代にとってオワコンになってしまっていた映画っていうのを、サバイブさせて活性化させるためにはどうしたらいいか、というところからこの問題に突き当たった、そういう順序になっている。実は僕、2006年から07年くらい、二、三年ほど全然映画を観てなかった時期があったんですよ。「もうなんか、面白くないんだろうな」と思って。それは、僕が文芸評論の方をやっていたという事情もありますが。それから2008年くらいにまた映画を観始めて、そしたら松江哲明とか山下敦弘とかワン・ビンとか、とにかく、めちゃめちゃ面白かったんですよね。「あ、こんなに映画ってまだ面白いんだ」って思って、そこからもう一回映画について考え始めたっていう流れになって、ここまできている。とはいえ、今日はお話して分かりましたけど、七里さんと吉田さんとは全く足場が違うっていうか、これは世代的なものだと思いますね。
七里:そんなこと言わないで下さい。
(一同笑)
渡邉:だって20歳も離れてるんですから…
七里:でもね、「オワコン?…あ、終わったコンテンツ…」みたいな、それくらいには確かに離れてるかもしれないですけどね。
渡邉:いや、少なくとも僕の周りではオワコンだったと思いますよ。
七里:でも仰った通り、映画って20世紀のものですよね。それで、恐らく今世紀以降の社会であれ文化というか思想みたいなものを構築していくモデルになるのはネットでしょうね。だからそれはもう、渡邉さんが最初っから強調してたように、もう映画だけの問題じゃなくて、文化と言うか、我々のテーマで言うと表象体系、リアルっていうことにも触れる問題だと思いますけど、あるものを表象してイメージを作って、それをシンボル化したり意味を読みこむっていうこと自体が、ものすごい勢いで変わってきてるかもしれないですね。ずれてきてるっていうか、変質してきてるっていうか…。で、それを考えていく、読み解いていくモデルになるのは、やっぱりもう映画じゃなくなっていて、オワコンなんだなっていう…。
渡邉:オワコンとかって言うと、また叩かれるからアレなんですけどね…。いや、まだまだ映画は素晴らしいメディアだと思います。
七里:ホントに(笑)?
渡邉:僕はいろいろインタビューでも言ってますけど、やっぱり蓮實さんにもの凄い影響を受けているし、「映画ってすごい面白いなぁ」て思ってきた人間なんです。それが一回20歳くらいのときにくじかれて、「ああ、もうこれ映画じゃないんだ。これからはネットなんだ」と思って、20代前半やってきたんだけど、また帰ってきた。そのダブルバインドを、どう自分の中で決着させるかってことを20代ずーっと考えてたんですよね。その一つの答えが、『イメージの進行形』という本になった。だから、僕にとって映画は、すごく複雑というか、屈託があるんですよ。
七里:でも、ダブルバインドっていうのは解消されないですよ。それを永遠に抱えて生きてくってことですよ。
(一同爆笑)
渡邉:僕も、これからまだ人生長いですから(笑)。これでも結構いろいろ考えているつもりです。
七里:だから、考え続けるしかないんですよね。僕はもう老い先短いような気がしてきて…(笑)。で、ちょっとまとめたほうがいいんですが、まとめようもないので、どうしましょうか。吉田さん、なんか、最後に仰りたいこととか…。
吉田:とにかく僕は映画っていうことで半世紀きてしまったので、まぁ僕は映画の方からしか語ることができないので、覚悟はしてるんですけど…これからまだ更に変わるでしょうからね、どう変わっていくかも分からないぐらいだけど、この変化に対して正面から行く体力・気力・関心の度合い多分もう持てないと思うので、僕はもうしょうがないですね。
(一同爆笑)
七里:でもまぁ、吉田さん、しょうがないかもしれないけど、今後もお付き合い頂きたくて。
吉田:それはもう、はい。そういう意味では。だから、別に語ることを止めるってことじゃないから、ただ、語り口としてそういう方向からしか僕としては有効なことは放てないだろうっていうふうに思ってるっていうことってだけですよ。
七里:僕らもすごくヒートアップ、したかどうか分からないですけど、すごく疲れたので、この辺で終わりたいと思うんですけども。でも、この話どうやって次回に橋渡そうかと。次回は5月10日に小沼純一さんをお招きします。で、今日の話の中でも出てきたんですけど、デジタル化やソーシャル化の問題って、映画だったらフィルム、美術だったら昔は画布とか、まあ文学だったら紙に文字を書いてとか、そういう風に分かれていたものが全部同じハードディスクの中に収まるようになった、あらゆる表現が一つの記録媒体の中に入るようになってきたっていうことが、ひとつ特徴的なことなんじゃないかっていうところにまで話が進められたらいいなっていう、その辺を読み解く第三回にしたいなと思ってます。5月10日なんでかなり先なんですけど、もしお時間ありましたらまたいらしてください。今日はこんなところで。ありがとうございました。

会場:渋谷アップリンク・ルーム

※各回の要約があります。↓

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