七里圭

映画監督として20年以上生きてきました。 たぶん、これからも、最後まで、そうであろうと…

七里圭

映画監督として20年以上生きてきました。 たぶん、これからも、最後まで、そうであろうと生きるはずです。                                               http://keishichiri.com/jp/

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第10回(第三期二回)「映像アートと、アート系映画の違いって何?」2015年11月22日 登壇者:生西康典×金子遊×三輪健仁×七里圭

七里:長らくお待たせいたしました。毎度こんなにたくさん来ていただいてすごい緊張です。「映画以内、映画以後、映画辺境」を始めようと思います。この講座はすでに第三期に入っておりまして、今期はチラシに“映画辺境の旅”とかふざけて書きましたけど、映像を扱う表現が映画以外にも広がっていて、それと映画の変容とはどう関係してるのか、あるいは関係ないのか。映画とその周辺領域、っていうと映画が偉そうですけども、その関連を考えてみるっていう、第三期で一番やりたかったのが今日の回なんですよ。 金子

    • 第9回(第三期初回)「静止したイメージは映画になるのか? あるいはクリス・マルケルはなぜ猫好きか?」2015年9月21日 登壇者:金子遊×三野新×七里圭

      七里:えーと、長々とどうもありがとうございました。今観ていただいたもの(『ドキュメント 音から作る映画』)は、私がここ2年ほど続けている活動の記録をまとめたもので、夏前から三ヶ月くらいこれを編集してまして、実は出来立てほやほやで整音がまだできていなかったので、かなり聞きづらいところも、まあ、意図的な部分もあるんですけども。 で、ここから、連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」を始めます。今期、第三期は、映像表現が映画だけではなくなっていること、美術の分野でも映像作品があり

      • FUTURAでの「サロメの娘」アクースモニウム上映 2015年8月21日

        連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」は、「音から作る映画」プロジェクトの制作活動と並行し準備され、連動して催されるものでした。ですから、第三期の連続講座が2015年9月から始まるということは、第二期ラスト回の2月から半年ほど間は空くのですが。3月末の「サロメの娘」アクースモニウム上映を催した後、私たちは充電期間に入ったというわけではなく。 実は全く休みなく、制作を続けておりまして。確か、上演を終えた翌週の4月上旬に、翌年から発表を始める映画版『サロメの娘』シリーズやパフォ

        • 「サロメのヴェール」(批評:吉田広明)

          以下に掲載するのは、「サロメの娘」アクースモニウム上映の初演(2015年3月27,28日)について、第二期全発言採録にご寄稿いただいた、吉田広明さんによる批評文です。 文中にあるように、上演から時を隔て(数か月後に)書かれた文章ですが、当時の我々の状況を踏まえ、客観的かつ的確にワークインプログレスとしての作品を分析いただいており、貴重な資料だと思います。 この度、吉田さんにもご許諾いただき、転載いたします。 サロメのヴェール                 吉田広明  

        第10回(第三期二回)「映像アートと、アート系映画の違いって何?」2015年11月22日 登壇者:生西康典×金子遊×三輪健仁×七里圭

        • 第9回(第三期初回)「静止したイメージは映画になるのか? あるいはクリス・マルケルはなぜ猫好きか?」2015年9月21日 登壇者:金子遊×三野新×七里圭

        • FUTURAでの「サロメの娘」アクースモニウム上映 2015年8月21日

        • 「サロメのヴェール」(批評:吉田広明)

          「サロメの娘」アクースモニウム上映について

          連続講座を第二期まで終えた翌月末(2015年3月27、28日)に、私たちは両国門天ホールという小さな会場で、「サロメの娘」アクースモニウム上映という野心的なライブを催します。サブタイトルに「音から作る映画2」とあるように、これは「サロメ」を題材にした「映画としての音楽」の続編ではあるのですが、そうシンプルに言い切れるものでもなく。企画の発端は、2013年6月18日に同志社大学寒梅館で催された『眠り姫』アクースモニウム上映まで遡ります。 アクースモニウム+上映という耳慣れない

          「サロメの娘」アクースモニウム上映について

          第8回(第二期五回)「のぞき穴を見ている人に聞こえるリアルな音って、何?」 〜リュミエールからエジソンへ揺れる映画史を再起動する〜 2015年2月13日 登壇者: 大谷能生×荻野洋一×七里圭

          七里:よろしくお願いします。映画以内、映画以後、映画辺境第八回、今回は第2期の最終回ということになります。「リュミエールからエジソンへと揺れる映画史を再起動する」と、すごい副題を付けてしまいましたけれども、映画ってそもそもリュミエールから始まっただけじゃなかったんじゃないかと。エジソンの映画があったではないかと。いったん忘れられたのだけれども、最近の映画の現状を見ているとそれは多分レンタルビデオなどが隆盛になりビデオで映画を見るような習慣が、もちろんその前もテレビでの放映とか

          第8回(第二期五回)「のぞき穴を見ている人に聞こえるリアルな音って、何?」 〜リュミエールからエジソンへ揺れる映画史を再起動する〜 2015年2月13日 登壇者: 大谷能生×荻野洋一×七里圭

          第7回(第二期四回)「彼女の声が響くのは、そこに彼女がいるからとは限らない」〜デュラスはサウンドトラックと映像をどのように考えていたか?〜 2015年1月28日 登壇者:小沼純一×吉田広明×七里圭

          七里:では、ぼちぼち始めたいと思います。この会を催させていただいております、七里と申します、今日はよろしくお願いいたします。これは「映画以内、映画以後、映画辺境」というタイトルで、二〇一四年のちょうど二月の二日が第一回だったと思います。なので、おかげさまで一年つづけてこられまして、年も明けてめでたいかと思いきや、世の中も私の身の周りもあまり明るい状況でもなく、今年はどうなるのかなと思っておりますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。  この講座は、僕がこの十年ぐらいの間に

          第7回(第二期四回)「彼女の声が響くのは、そこに彼女がいるからとは限らない」〜デュラスはサウンドトラックと映像をどのように考えていたか?〜 2015年1月28日 登壇者:小沼純一×吉田広明×七里圭

          第6回(第二期三回)「現実はアニメーションであり、ヒトはアニメーションになりつつある?」 ~世界認識のモデルとなるアニメーション表現の今~ 2014年12月14日 登壇者:土居伸彰×吉田広明×七里圭

          七里:今日は、霰とか雹が降ってたようですが、悪天候の中、どうもありがとうございます。すみませんなんか、どうも暗い気持ちで始めてしまっているのは、選挙が…(笑)第六回、今日はアニメーションの研究及びプログラマーと、ご紹介したら良いでしょうか。土居伸彰さんをお招きいたしました。 (拍手) 七里:で、映画批評の吉田さんです。 (拍手) 土居:僕が扱っているのは海外のアニメーションの短編や長編作品だったり、あまり日本では紹介されてないような作品が多いんですけど、その状況をパッと見渡し

          第6回(第二期三回)「現実はアニメーションであり、ヒトはアニメーションになりつつある?」 ~世界認識のモデルとなるアニメーション表現の今~ 2014年12月14日 登壇者:土居伸彰×吉田広明×七里圭

          第5回(第二期二回)「サイボーグになった私達の眼差しはイメージをどう捉えるか」 ~映画分析においてデジタル技術が持つ意味~ 2014年11月27日 登壇者:平倉圭、吉田広明、七里圭

          七里:えーっと。始めようかなと思います。こちら平倉圭さんです。今日はですね、『サイボーグになった私達の眼差しはイメージをどう捉えるか 映画分析においてデジタル技術が持つ意味』というタイトルで参りたいと思います。というのは、この講座の第一期のなかで、今日も来ていただいている映画批評の吉田広明さんから表象体系、ちょっと難しい言い方ですけども、何かを使って何かを表すという、それは映画だけではないと思うんですが、そういう表現の機能が変容してきているのではないかっていう提議があり・・・

          第5回(第二期二回)「サイボーグになった私達の眼差しはイメージをどう捉えるか」 ~映画分析においてデジタル技術が持つ意味~ 2014年11月27日 登壇者:平倉圭、吉田広明、七里圭

          第二期 全発言採録について

          2021年の秋。今の社会状況で、改めてこの連続講座の記録をひも解くに、隔世の感があります。簡素な冊子の文字の向こうから立ち上がってくる、熱の記憶。密という言葉に昨今のことさらな意味もなく、むしろ、それが歓迎されることですらあった、あのころ。小さな会場ではありましたが、目の前までぎゅうぎゅうに埋まった客席の圧を感じながら、必死に話し、聞き、考え、見せた、あのような体験は、もう永遠に帰ってこないとすら思います。 実際、渋谷のUPLINKは、すでに存在しません。「Room」という

          第二期 全発言採録について

          第4回(第二期初回)「映画は〈まがいもの〉である、ゆえに想像力を生むのだ/か?」 ~映画を思考することと作ることとのあいだで~ 2014年11月15日 登壇者:吉田広明、平倉圭、土居伸彰、七里圭

          七里:あ、じゃあ、奥に。 吉田:今の作品を作った七里監督です。で、僕は、一期の一回目と二回目で加わらせて頂いている映画評論家の吉田と申します。第二期も、やらせていただくことになりました。一回目の講義では「表象体系が変わっているかもしれない」ことを僕の方で申し上げて、そこに七里さんが引っ掛かって、乗っかったというか、そこでもうがっつり表象系の方を今回二人呼んでしまいましてですね、そのため一回目で問題提起をした僕が引き続き出るというかたちになったわけですけども。まず僕の方からちょ

          第4回(第二期初回)「映画は〈まがいもの〉である、ゆえに想像力を生むのだ/か?」 ~映画を思考することと作ることとのあいだで~ 2014年11月15日 登壇者:吉田広明、平倉圭、土居伸彰、七里圭

          映画版『映画としての音楽』について

          連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」第二期の初回となる、第四回のトークは、出来立てほやほやの映画版『映画としての音楽』初上映後に続けて行う催しとなりました。 そもそも『映画としての音楽』ライブの映画版制作は、あらかじめ予定していたことではありませんでした。良く言えば私のひらめき、傍から見れば暴走ゆえでしたが、これを敢行したことで、ライブ・パフォーマンスと映画製作の往還という「音から作る映画」プロジェクトの、この後のプロセスが明確になり。また、連作方針を「ツリーでなくリゾー

          映画版『映画としての音楽』について

          第3回「響きが光と溶け合うことで」2014年5月10日 登壇者:小沼純一、池田拓実、七里圭

          七里:長らくお待たせしてしまいまして申し訳ありません。七里と申します。今日は、『映画以内、映画以後、映画辺境』第三回目にこんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。前回、三月二二日に二回目をここでやりまして、四月二六日の連休直前にライブ(「映画としての音楽」【 http://keishichiri.com/jp/performances/live_eigatoshiteno/ 】)を、で、それを受けての第三回目ということなんですが、もしかしたら今日初めていらっし

          第3回「響きが光と溶け合うことで」2014年5月10日 登壇者:小沼純一、池田拓実、七里圭

          ライブ『映画としての音楽』について

          連続講座の第二回を終えてひと月後の2014年4月26日、私たちは『映画としての音楽』という名のライブを催しました。「音から作る映画」“1”と銘打ったように、これがその後に続く連作の最初の発表だったのですが、しかしその準備、作品制作はすでに2012年秋から断続的に進められていました。当時の広報記事や記録写真、フライヤーなどを見返すと、並々ならぬ決意と覚悟を持ってこの上演に臨んだことが思い出されます。 連続講座の企画も、そもそも「音から作る映画」という連作プロジェクトの構想の中で

          ライブ『映画としての音楽』について

          第2回「切断面がつながり続ける果てに」2014年3月22日 登壇者:渡邉大輔、吉田広明、七里圭

          七里:『映画以内、映画以後、映画辺境』第二回を始めたいと思います。今日は当初から告知しているゲストの方と共に一回目の方もお招きして進めます。まず今回のメインゲストの渡邉大輔さんです。 渡邉:渡邉大輔です。よろしくお願いします。 七里:そして、第一回に登壇いただいた吉田広明さんです。 吉田:よろしくお願いします。 七里:この講座はそもそも、どういう経緯ではじめたかと言いますと、お手元の折込の中に『映画としての音楽』というライブイベント 【 http://keishichiri.

          第2回「切断面がつながり続ける果てに」2014年3月22日 登壇者:渡邉大輔、吉田広明、七里圭

          全発言採録について

          ここに掲載していく記事データは、すでに冊子(連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境」第一回~第三回全発言採録:2014年11月15日発行)として、販売していたものからの転載です。 今、改めて読み返すと、当時はこんなことがこんなにも問題だったのだなあと議論の内容に隔世の感も覚えつつ。しかし一方で、実に先見性のある議論だったという自負もあり。それはつまり、ここで話されている話題は映画に限ったことではなく、文化社会全般の変化についての論点であると、それらが当然になってしまった現在か

          全発言採録について