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クリエイターなら自己満の痛いエッセイを毎日投稿して勘違いするのではなく価値の種を投稿しよう

こんにちは、しちゃうおじさん(以下「しちゃおじ」)です。

最近になって『もしかして、そういうこと?』とうっすら感じてきたことに、『noteには他のSNSメディアやBLOGメディアで活躍できなかった(もちろん大手メディアには相手にしてもらえない)落ちこぼれ的なクリエイターさんが全国各地からラストリゾート(最後の拠り所)として集ってきており、創作活動を追求するというよりはお互いのプライドを守ったり傷を癒やす場所として村社会を形成しているのでは?』があります。

この仮説では、お互いのプライドを守ったり傷を癒やす場所がnoteですから、Twitterのような攻撃的なツイートやリプライはご法度ですし、Instagramのような高級外車・高級ブランド品・海外リゾートホテルなどのキラキラした勝ち組の世界観は毛嫌いされてしまいます(「しちゃおじ」が投稿しているいわゆる “お金を稼ぐ系” も嫌われがちです)。

「しちゃおじ」自身もTwitterで日頃のストレスを発散しているような輩や、Instagramで気持ちの悪いリア充アピールをしているような輩は、『現実社会で誰からもまともに相手にして貰えない寂しい人なのだろう』と冷めた目で見てしまうのですが、noteを2年以上も観察しながら利用をしていると、noteもたいして変わらないことがわかってきます。

TwitterとInstagramとnoteではメディア特性(表現可能性や利用者属性)が異なるだけで、本質的には他者承認欲求を満たすための自己満ツールに成り下がっているのです。

ここを読まれている皆さんもnoteサーフィンをしていて『これは読むに耐えないな』と思うnoteがあるように、「しちゃおじ」にも『これは痛すぎる...』と思うnoteがあります。

それが、(主に)男性のクリエイターさんが書かれている自己満エッセイの数々です。

女性のクリエイターさんが書かれているエッセイは、何の抵抗もなくスンナリ読めたり文才に感心したりすることも度々あるのですが、(基本的に)男性のクリエイターさんが書かれているエッセイはどれもこれも痛すぎるし、こっそりと内に秘めている承認欲求もここまでくるとインスタのリア充アピールを凌駕するほどの ”キモチワルサ” になっています。

話題(テーマ)のくだらなさからはじまって、リズム感(ノリ)や言葉のチョイス(言い回し)を含めて事の顛末(一部始終)が読むに耐えないしょーもない内容であるばかりか、寒いギャクや『は?』的な告白をなぜか挿入してみたり、情弱ウケそうな自己啓発系やスピリチュアル系な内容を盛り込んだりして、絶望的にセンスの欠片もないわけです。

こういったエッセイって、一体どこの誰が楽しみに読むのか見当がつかないのですが、noteをSNS的に利用しているクリエイターさんも多いので、相互フォロバーさん同士のご近所付き合いでお互いのnoteを読み合ってコメントし合ったりしているのでしょう。

この仮説においてはお互いのプライドを守ったり傷を癒やす場所がnoteですから、こういった本当のことを書いてしまうと村八分にされそうですが、あなたがクリエイターの端くれであるならば自己満の痛いエッセイを毎日投稿して互助会コメントで勘違いしてしまうのではなく、クリエイターとして何かしらの価値の種をnoteに投稿し続けることです。

何の価値もない自己満コンテンツ(つまり電子ゴミ)をnoteに投稿したところで、例えばGoogleさんはそれをきちんと理解していますので、やがてキャッシュ(データベース)から自己満コンテンツは削除され、実質的にネット上に存在していないも同然になります。

そもそも承認欲求をnoteで満たそうとしている時点でクリエイターとして失格なのですが、創作活動に集中することで他者からの承認ではなく創作自体が幸福に変わるのです。

さて、先日に投稿した{居場所を求めるコミュニティ依存がアマチュア、自分の頭で考えて自立自助で歩みを進めるのがプロ}の記事にて、「しちゃおじ」の結婚観について少しだけ触れてみたところ「なぐなぐ」さんから以下のようなコメントをいただきました。

結婚観は、明治以降に急速に変化したものなので今の感覚が後世つづくとは思ってないです。ただ、人類は生き物。遺伝子を残すための本能はあると思っています。そのため、仲間を作って共闘する(自分のチームの生き残りを図る)とともにそのチーム内での地位を高めるために仲間を蹴落とす(異性を獲得するためのマウントをとる)。この相反する複雑怪奇な行動は、そう簡単に変化しないのかなぁとも思います。この本能を理解しつつ、一歩離れて生活してゆきたいと思っています。

 「なぐなぐ」さん、いつも貴重なコメントありがとうございます!

いただいたコメントに対して『恋愛も結婚も他者を蹴落としてまで自己の本能的欲求を満たす残酷な行為(生存競争)なのですが、それを自覚している方はまずいませんよね。』とご返信をさせていただいたのですが、「しちゃおじ」が過去に月30万円ほど稼いでいたそこそこ人気のナンパブログに書いた「恋と愛の違いと恋愛や結婚のこと」といった表題の記事を思い出しましたので、ここに掲載させていただくことでより詳細なご返信とさせていただきたく思います。

投稿日を確認すると2016年2月29日になっていますので今から約7年前に書いた記事でして、その後にそのナンパブログは飽きて消してしまったので、ここでしか読めません。

既に7年が経過していますので考え方の変化による違和感を覚える部分もなくはないのですが、記録としてあえて一字一句そのまま掲載しています。

「恋」とか「愛」とか「恋愛」とか「結婚」とかをテーマに語っちゃっている男性エッセイストさんは、是非とも一読してコメントしてくださいね!

恋と愛の違いと恋愛や結婚のこと

人に好かれる事は知っていても、人を愛する能力においては欠けているところがあるようでした。(もっとも、自分は、世の中の人間にだって、はたして、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思っています)

人間失格 - 太宰治

空想の愛は、すぐに叶えられる手軽な功績や、みなにそれを見てもらうことを渇望する。また事実、一命をさえ捧げるという境地にすら達することもあります。ただ、あまり永つづきせず、舞台でやるようになるべく早く成就して、みなに見てもらい、誉めそやしてもらいさえすればいい、というわけですな。ところが、実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとってはおそらく、まったくの学問でさえあるのです。

カラマーゾフの兄弟 - ドフトエフスキー(原卓也訳)

あなたにとって「愛」とは、どのようなものでしょうか?

一般的には、未熟な「恋」が成熟して「愛」に至る(愛が生まれる)といった認識があるようです。「恋 → 時間の経過 → 愛」です。

しかしながら、「愛」は「恋」の延長線上にあるものではありません。

結果として、そのような形になることもありますが、「恋」と呼ばれているものや恋愛感情全般と「愛」とは本質的に無関係であり、”全く別のもの” であるからです。

語感の良い造語

「愛」に、ロマンチックな意味合いは一切含まれません。「愛」は、好き・嫌いの感情に影響を受けるものではありません。

「愛」は、憧れたり・欲したり・求めたり・望んだり・羨ましがるような代物ではないのです。

さて「愛」の本質に迫る前に、先に「恋」と「恋愛」について触れておきたいと思います。「恋」と「恋愛」の意味と関係性を知らないと、「愛」の本質を見誤るからです。

あなたにとって「恋」とは、どのようなものでしょうか?

 そして、「恋」と「愛」が結合した「恋愛」とは、一体どういったものなのでしょうか? 少し考えてみてください。

「恋」と「恋愛」は何が違うのか?「恋愛」と「愛」に関連性はあるのか?

以下PDFを読まれると、この辺の疑問が解消します。

明治翻訳語のおもしろさ - 福田 眞人

一部引用させていただきます。

恋愛という言葉、日本では比較的新しい言葉である。 (中略) 「愛」という言葉が、かつて仏教用語であって、人間相互の感情を表象する言葉でなかったことは興味深い。実際に日本人が「恋愛」なるものを認識したのは、明治3~4年(1870-71)に出た中村正直訳『西国立志編』以後ということになる。そして、二葉亭四迷によって、小説の世界で「ラヴ」と「恋」の違いを知ることになる。今、比較的新しい言葉(造語)としての「恋愛」を、「情」・「色」・「恋」などの語感と比べてみるとどうだろうか。「恋愛」の方がより洗練されていて、洋風で、より高級、より新鮮、より重要な語感を得ることだろう。そのことは、明治時代の方が、今日よりももっと強烈に感じられたはずである。

上記のように、「恋愛」という言葉は ”語感の良い造語” であることがわかります。

もし「恋愛」と翻訳されたのではなく、「色事」や「色恋」と翻訳されていたら、誰もそれらに憧れを抱いたりしなかったでしょう。

このように、「恋愛」の他にも ”語感の良い造語” はたくさん存在します。「人間愛」「親子愛」「家族愛」「動物愛」「地球愛」などが代表的です。

後ろに「愛」をくっつけると、途端に耳障り良く聞こえてくることが理解できるでしょう。

西洋思想のプラトニック・ラブ(精神性主体の愛)は、日本語で「純愛」などと訳されますが、これも ”語感の良い造語” です。とても美しい響きがします。

「愛」は「愛」でしかないのですが、プラトニック・ラブのように、敢えて ”精神性を強調した思想” が理想とされ支持される事実は大変興味深いところです。

どうやら人々は、何かしら「直面したくない現実」「認めたくない現実」から、無意識の内に目を背けているようです。

「恋」とは何か?「恋愛」とは何か?

人々が無意識の内に、現実から目を背けているもの...。 それが、「恋」と呼ばれているものです。

「恋」とは、情(欲情)や色(性行為)のことであり、つまりは動物的な生殖本能に過ぎません。

「好き」という情動は、生殖本能から理由もなく湧き上がってくる感情です。「恋」は、決してロマンチックで神聖なものなのではなく、人間の生殖本能であるのです。

リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子ではありませんが、これでは我々の自我が納得できません。

そこで私たちは、生殖という動物的本能に振り回される「恋」という感情を、ときにセンチメンタルに、ドラマチックに、美しく・儚く・ほろ苦く、装飾・演出し始めます。

動物的な生殖本能である「恋」を、私たちの理性が無意識の内に都合良く編集したもの...。 それが、現代で「恋愛」と呼んでいるものの実態です。

「愛」とは何か?

さて、「恋」と「恋愛」の意味と関係性が明確になりました。

「恋」=生殖本能、「恋愛」=生殖本能である恋を私たちの理性が無意識の内に都合よく編集したもの。

では、「愛」とは一体どのようなものでしょうか?

よく「恋」と「愛」の違いについて書かれているものがありますが、「恋」と「愛」は本質的に ”全く別のもの” です。

もちろん、語感の良い造語である「人間愛」「親子愛」「家族愛」「動物愛」「地球愛」などの「愛」とも関係がありません。

太宰治は、「人を愛する能力においては欠けているところがあるようでした」と表現しました。 人を愛するには、何かしらの能力がいるようです。

「愛」と「能力」って、あまり結び付かないような気がします。

ドフトエフスキーは、「実行的な愛というのは仕事であり、忍耐であり、ある人々にとっておそらく、まったくの学問でさえあるのです」と表現しました。「愛」とは、仕事であり忍耐であり学問であるようです。

私たちが思い描く愛とは、ずいぶんと様相が異なっています。 とても憧れたり・欲したり・求めたり・望んだり・羨ましがるような代物ではなく、実務的で大変厳しいものに聞こえてきます。

なんだか冷めますが、これが愛の本質です。 

私たちがイメージしている愛は、(対象を)慈しむ気持ちであったり、(対象を)大切に思う気持ちであったり、(対象を)幸せにしたいと思う気持ちであったりします。

しかし、これらは感情に過ぎず、感情ほどいい加減で無責任で信じられないものはありません。 感情が含まれるものは、所詮「恋愛」の範疇にあるものです。

「愛」に感情は含まれません。「愛」とは極めて理性的なものです。

感情を含んだ「愛」は、ドフトエフスキーの言う「空想の愛」であり、バブル期に流行したトレンディドラマのごとく作られた「偽物の愛」なのです。

愛とは意志である

さて、結論です。

「愛」とは何か? それは、「愛する」という意志そのものです。

好き・嫌いなどの感情やありとあらゆる条件に一切左右されることのない強い意志であり、その意志に基づく行為・行動が「愛」なのです。

先に触れた、「人間愛」「親子愛」「家族愛」「動物愛」「地球愛」などが「愛」とは本質的に無関係な理由は、そこに「愛する」という強い意志が含まれていないからです。

ここで言う強い意志には、責任や覚悟といった概念を含みます。 それらのないものは「愛」ではなく、「義務感」や「同情」や「思いやり」の範疇に過ぎません。

人は、「好きだから」「楽しいから」「一緒にいたいから」「尊敬できるから」「成長できるから」と、何か理由があるから人を愛することができるのではなく、自らが「愛する」と意志することで人を愛することができるのです。

例えば、あなたには永遠の愛を誓い結ばれた運命の女性がいるとします。 しかし、その女性との平和な日々は長く続かず、彼女が重度の認知症になってしまったらどうでしょうか?

うわ言や奇声を発するだけで、まともな会話も意思疎通もできなくなりました。 髪はボサボサでフケだらけ、涎・鼻水・大便・小便を垂れ流し、強烈な悪臭を漂わせています。

もちろん愛を誓ったあなたは彼女を一生懸命ケアするのですが、毎回数時間も経てば元の木阿弥です。 うわ言と奇声を発し、悪臭を周囲に漂わせる彼女がそこにいます。

彼女は、涎・鼻水・大便・小便を垂れ流したパジャマ姿のまま町内を徘徊してしまうので、あなたは日中うっかりと目を離すことも、夜間ぐっすりと熟睡することもできません。

このような悲惨な生活は、数週間・数ヶ月では終わりません。 1年・2年でもありません。 あなたの肉体面・精神面・経済面を疲弊させながら、10年・20年と続いていくのです。

さて、例えこの運命にあっても、「愛する」と意志し続けることが「愛」なのです。 なぜなら「愛」は、好き・嫌いの感情とも、ありとあらゆる条件とも、無関係だからです。

人々は愛の本質を知らずに愛を誓い、その愛を裏切りたくないために(もしくは世間体のために)、「義務感」や「同情」や「思いやり」といったものを「愛」と擦り替えます。

しかしながら何度も繰り返しますが、「愛」とは「愛する」という意志そのものです。 あなたが「愛する」と意志した時点で愛は始まり、あなたがその意志を放棄した時点で愛は終わるのです。

また、この「愛する」という意志には、身震いする程の悲壮な決意と覚悟が必要です。 なぜなら、愛とは忍耐であり試練でもあるからです。

したがって「好き」という言葉とは異なり、「愛している」という言葉は軽々しく口にすべきではないし、安易に相手に求めてしまえるようなものでもありません。

教会で愛を誓い合い感動に包まれたとしても、身震いする程の悲壮な決意と覚悟で「愛する」と意志していない関係性においては、もともと「愛」などどこにもなかったのです。

さて、この「愛」を理解できない人間は、以下のような質問に対する回答に納得をすることができません。

【人生相談】夫婦の営みがなくなって10カ月なのに嫁が妊娠しました

上記を読まれると、至極当然な回答をされています。

問題の本質は、パートナーである嫁が浮気をして他人の子供を妊娠してしまったことではなく、質問者がパートナーである嫁を愛していないことにあるのです。

興味深いのは、この記事を「はてブ」している方のコメントです。

『パートナーは繁殖の相手としてはあなたはふさわしくないけれど、自分のパートナーとして、また子どもの父親としては最適だと判断』アホか。浮気相手を訴えて離婚するような話で、宗教臭い話を語るな。

このような感情が先行した意見の方が正論のように聞こえます。

確かに、先の回答はとんでもない内容だし、このコメントの方が100%正しいでしょう...。 生殖弱者にとっては。

「結婚」とは何か?

あなたにとって「結婚」とは、どのようなものでしょうか?

当然のことながら、結婚の意味や目的は人によって様々です。 では、なぜ結婚が社会制度として確立されているのでしょうか?

それは、結婚が生殖弱者(の子孫繁栄)を保護するための社会的なセーフティーネット(安全網)だからです。

主に、孕まされて逃げられては困る女性のためのものであり、弱肉強食な自由恋愛市場におけるフリーセックスではパートナーに恵まれることない、大多数のモテない男性のためのものです。

よく巷では、結婚が「できる・できない」で悩み・考え・語られたりしています。「結婚できた者=勝ち組」「結婚できなかった者=負け組」として認識されているような部分もあります。

しかしながら、結婚を「できる・できない」で悩み・考え・語ってしまっているその時点で、自らが生殖弱者であることを告白している事実を理解しておりません。

なぜなら、「結婚できた者」とは生殖弱者を保護するためのセーフティーネットを利用できた者であり、「結婚できなかった者」とは生殖弱者を保護するためのセーフティーネットを利用できなかった者に過ぎないからです。

つまりは、どちらにしろ生殖弱者であることに変わりはありません。

実際に生殖強者は、結婚(婚姻関係)にこだわりません。 その必要性がないからです。 結果として結婚を選択する場合もありますが、生殖弱者のそれとは中身(意味や目的)が異なります。

また、一つの家庭にこだわることもしません。

世界各地に何人ものパートナーがいて、各家庭に愛しい子供がいたりもします。 彼らにとっては、むしろこの形の方が自然であり理想的であるからです。

生殖強者は、道徳が何のために存在するかを理解しています。 また、生殖強者は世間の同調圧力を意に介しません。 それらに価値などまったく認められないからです。

彼らは、世間や法律や国家に守ってもらおうなどと考えません。 自由であるために、責任は自ら果たすものだと知っているからです。

結婚とは、「できる・できない」を悩み・考え・語るものではありません。あくまで社会的なセーフティネットである結婚というシステムは、「利用する・利用しない」を選択するためのものなのです。

さて、生殖弱者の権利の主張はおぞましいほどに醜悪です。

特に、生殖弱者の自覚がない「結婚できた者」の主張は下劣極まりないものとなっています。 浮気や不倫で世間が大騒ぎしているのが良い例でしょう。

浮気や不倫程度で、恥ずかしげもなく声高に社会に対して騒ぎ立てるのは生殖弱者の顕著な特徴なのですが、その理由は彼ら・彼女らがあつかましく利用している結婚というセーフティーネット(安全網)が他人に揺さぶられているからに他なりません。

セーフティーネットを揺さぶる不届き者は絶対に許すことのできない存在のため、生殖弱者は徒党を組んで総攻撃を仕掛けます。 それは、自覚なき反射的な行為です。

よく話題になる、浮気・不倫・離婚・裁判・慰謝料は、生殖弱者のセーフティーネットを盾にしたみっともない権利の主張なのですが、権利を主張すればするほど「私は惨めなうえに狡猾な人間です」と言っているのと変わりはありません。

そういった人間は、もともと愛を誓って結婚したのではなく、結婚というビジネス(取引)を行っていた事実を真摯に受け止め、自分の弱さ・未熟さ・狡猾さを素直に認めるべきなのですが、残念ながらそのような誠実さは持ち合わせていないため、「裏切り者! 離婚だ! 慰謝料だ!」となるわけです。非常に醜い姿です。

また、良くある離婚の理由として「価値観の相違」がありますが、これは期待をしていた取引ができなかったときに出る表現です。

中には「愛がなくなった」と言う人もいますが、愛は意志なのですから「愛するという意志を放棄しました」と言うべきです。

しかしながら実態としては、最初から「愛」などどこにもなかったわけですから、「期待していた取引が行えなくなりました」が正答でしょう。

このように、世間一般の慣習である「結婚」は、ビジネス(取引)や損得勘定の打算・妥協に過ぎません。

その他、共依存や世間体や刷り込まれた理想であったりもします。 またある人々にとっては、単に性欲解消手段や義務感に過ぎなかったりもするのです。

念のため補足しておきますが、もちろん「結婚」と「愛」に関係はありません。

大方の場合、期待する取引により結婚生活が始まり、やがて「情」による結び付きに関係性が変化していきます。

その「情」を体裁良く「愛情」などと表現しますが、これも ”語感の良い造語” であり、「愛」と「愛情」とは本質的に無関係なものです。

再び、「愛」について

「愛」は双方的なものだと認識している方がほとんどですが、反対です。

「愛」は意志ですから常に一方的なものです。 傍から見て愛し合う二人がいたとしても、互いが互いに一方的に「愛する」と意志しているのです。

これはつまり、「愛」は個々人の内面で完結する存在であることを意味しています。

例え、愛する人がこの世からいなくなってしまったとしても、あなたの「愛する」という意志が続く限り「愛」は存在し続けます。

「人を愛することができない」という方は、「人を愛する」と意志しない方です。「愛せない人間」なのではなく、「愛さない人間」なのです。

また、双方的な愛を信じそれを期待するのは、空想の世界を生きる未熟な人間です。 双方的な愛など存在せず、それは「恋」を都合よく編集した「恋愛」に過ぎません。

「愛」をロマンチックに神聖化し、憧れたり・欲したり・求めたり・望んだり・羨ましがるような方は、現実を直視することなく生殖を美化し、必死になって「愛」と叫んでいるわけです。

まとめ:「愛」の新しい定義

愛とは意志であり、その意志に基づく行為・行動である。

以上 – クリエイターなら自己満の痛いエッセイを毎日投稿して勘違いするのではなく価値の種を投稿しよう – でした。

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