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自分に優しくすること。

自分に優しくする、というのを覚えたのはつい最近のこと。

それまでは、自分のたっかいたっかいプライドを守り通すために何がなんでもがむしゃらに!と行動していましたから。
なんだか言葉にすると馬鹿馬鹿しく見えてきますね。

そんなもんだったのかもしれないです。

自分への扱いを自分が全く理解していなかったってことじゃないですかね。


適応障害だと言われた時期からスクールカウンセラーに「自分の行動したいままにすることが大事です」と言われて悩んでいました。

自分のやりたいことってなんだよ、だったら学校行きたくないというのが最優先に上がるのだが。それはどうなのだろうか。


そこから、なんとなく「やりたいこと」をノートにたくさん書き出してみて、そのリスト通りに行動してみました。

このゲームを全クリするだとか、ソシャゲのジュエルを貯めるだとか、数独をやりまくるだとか、漫画を読むだとか。


学校にも行かず、自分のやりたいことリストに則って事を行なっても、例えが最悪ですが実家暮らしのニートみたいな生活を高校生ながら送っていることに嫌気がさしていました。

両親に申し訳なさを覚えて、何回も、数えきれないぐらいに謝罪し続けました。
母親がもういいよ、って泣きながら言った光景が頭に浮かんできます、最悪の光景です。


泣きじゃくって、カウンセラーの言葉に従ってみて、気づいたのは「自分に寛容でないと生きていけない」ということです。

この場合、寛容という言葉を言い換えてしまえば「諦め」という言葉になります。

自分は、ニートみたいな生活をしている自分に諦めをつけました。


だって病気ですからね。適応障害だって、大きな病名をつけられてしまったからには休まないとおかしな話だ。

ニートみたいな自分は次の高校に行けばニートじゃなくなるし、それまでは親のスネかじって生きていればそれでいっか。

って。


自分に優しいとか寛容とか諦めとか、いろんな表現を出しましたが結局はどこかで現状を認める機会を自分に与えないといけないのかもしれない。

それをどの表現にしたって、解釈が人それぞれなだけで現象は同じなんでしょう。

いつこの病気が治るのか知りませんが、病気くんと一緒に生きなきゃいけないことを受け入れてしまった。
そのことには変わりない。

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