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「0メートルの旅 日常を引き剥がす16の物語」(岡田悠)

・私の職業はシステムエンジニア(SE)だ。業界は金融。SEにおける金融業界というのは、金融機関の勘定系システムのようなレガシーな分野から、決済機能を始めとする今流行りのDX分野まで、日本のSE業界の中でも特に人口の多い業界にあたる。
・私が就活をしていたころには「Fintech(フィンテック)」(※FinanceとTechnologyを合わせた造語)という言葉が流行っていたけど、ここ2年ほどですっかり「DX(デジタルトランスフォーメーション)」という言葉に取って代わられた。
・いま「Fintech」って聞くとなんか懐かしくてダサい。”ハンドスピナー”や”チーズタッカルビ”と同じくらいの懐かしさだ。


・そんなことはいい。


・SEの仕事では、パソコンは当然毎日使うし、そのパソコンで仕事をするために、多種多様なアプリケーションを使っている。
・そんな職場環境で、たびたび、私たちの頭を悩ませる事象の筆頭。それは「アプリケーションの不具合」である。


・何か処理を実行したら固まってしまった。原因不明の謎のエラーを吐いてそもそも実行できない。去年からの話をすれば、在宅勤務をしようと思ったらリモートアクセスがつながらなくなっちゃった、とか。
・アプリケーションを構成するプログラムというものは、思った通りには動いてくれず、書いたとおりにしか動かない。


・プログラムの中でちょっとした”想定外”が発生すると、すぐに異常終了したり、ループに陥ったりしてしまう。目に見えるアプリケーションの動きとしては、フリーズして固まってしまう。
・「想定外のエラーが発生しました」なんて甘ったれたエラーメッセージを吐かれる場合もある。
・想定してるじゃないか。そういうメッセージが出るということは。本当に想定外のエラーが発生したのなら、間髪入れずにその場でぶっ壊れるべきだと思う。
・いや、やっぱりいきなり壊れると困るから壊れないでくれ。


・そんな想定外が起きた時、パソコンやアプリケーションならば、これをすれば70%くらいの確率で大抵直るという手段がある。”再起動”だ。


・なんのことはない。いったんアプリケーションを落とす。あるいはパソコンなどのハードの電源を落として、少ししたらまた立ち上げる。オンからオフへ、そしてまたオンへ。すると、情報が物理的にリフレッシュされ、袋小路に行き詰った処理は振り出しに戻り、また正常に動作し始める。



・この「オン→オフ→オン」のリフレッシュ方法が有効なのは、なにもパソコンやアプリケーションだけに限った話ではない。私にだって、この手順は超有効かつ即効性のあるものだ。その効果たるや、半ば祈りながら最終手段として再起動するパソコンやアプリケーションとは違う。私に対して「オン→オフ→オン」をすれば、不具合の99%は治る。


・私にとっての「オン→オフ→オン」、それは”旅行”である。


・「ネットで見かけた」、「噂に聞いた」、「前々から名前だけは聞いたことがある」、「ただただ、行ったことが無い」、そんな見知らぬ土地へ降り立ち、ネットで見かけた光景が、噂に聞いていたモノが、あるいは、まったく想像もしなかったモノが、我が身の五感を前に現実となる瞬間は、いつ、どこであろうと新鮮な興奮と感動をもたらす。


・私は旅行が、そして旅が好きだ。
・自分で行くのはもちろんだが、人から旅をした体験を聴くのも好きだ。
・人から話を聞けば、私も行きたくなる。その人が体験したという素晴らしいモノ、コトを、私も体験したい。そして、私は私なりの興味や出会いに従って、私オリジナルの体験としてその場所を記憶に刻みたい。
・私のこの「聞きたい」「行きたい」の欲求は、日常生活をのんのんと過ごす中でも常に体内を留まることなくめぐっている。


・さて、しかしこの昨今においては、人から旅の話を聞く機会もずいぶん減ってしまった。そもそも人に直接会う機会が減った。私が人の旅の話を聞いていて楽しいのは、その話す人の楽しそうな表情を見ることにもある。
・そんな楽しそうな顔で思い出されて語られては、私も行くしかないという気になる。


・だが、そうした機会はもうしばらく先のことになるだろう。


・旅の話を聞きたい。


・岡田悠さんの「0メートルの旅 日常を引き剥がす16の物語」は、私にとってそんなタイミングで発売された救いの一冊である。

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・岡田悠さんは都内で会社員として忙しく勤められる傍ら、会社のお休みと有休を巧みに組み合わせて、これまで国内外問わず様々な場所へ旅に出られている。国内は全ての都道府県、海外は約70ヵ国という、生粋の旅人だ。
・そしてその(珍)道中をweb上で記事に綴った旅行記をはじめとする多くのweb記事が非常に人気を博している会社員兼業ライターである。


・「0メートルの旅」は、岡田さんがこれまで旅をされた国と地域の中から、16ヵ所を抜粋し、そこでの旅行記をエッセイのようにまとめた作品で、大きく4つの章に分けられている。「海外編」「国内編」「近所編」「家編」の4つで、岡田さんのご自宅から距離の遠い順に16の国と地域の旅行記が綴られ、最終的に岡田さんのご自宅(0メートル)に行き着く構成になっている。


・物語のスタートは、岡田さんのご自宅から最も離れた場所、“南極”から始まる。


“南極”て。
・物語のゴールに設定される場所じゃないか。極地って。ことファンタジーにおいては、主人公の生まれ故郷から遠く離れた極地へ向けて仲間と共に旅立つ冒険譚がセオリーである。


・南極が物語の終点ではなく起点となる話を読むのは、「0メートルの旅」と、南極でセカンドインパクトと呼ばれる大災害が起きた後の世界を舞台にした「新世紀エヴァンゲリオン」以来である。


・私は旅の楽しみの一つに”移動”があると思っているが、南極は、その大地を踏むだけでも相当な苦労があるようだ。
・日本から飛行機と船を乗り継いで片道5日、さらにはその船路は、世界で最も荒れると言われる“ドレーク海峡”である。本書によれば、船内にはあらゆる場所に手すりが取り付けられ、1メートルおきにエチケット袋が配備されていたとのこと。


・苦労の末にたどり着いた南極大陸、そこで岡田さん一行を待っていたのは、吐く息が白くならないほどに空気が澄んだ桁外れの自然、日の沈まない静謐な夜、”ベルナツキー基地”というウクライナの観測基地、そして”まるで死んだ魚をドブで煮たような臭いがする”野生のペンギンたちであった。


・野生のペンギンはめちゃくちゃ臭いらしい。


・わずか10ページほど間に、南極行きのきっかけと、南極での体験が鮮やかな言葉運びで綴られている。


・「0メートルの旅」の魅力は、岡田さんの旅先での、まるで旅のカミサマから溺愛されているとしか思えないような数々のご経験に加えて、それを書き伝える岡田さんの言葉選びと、それぞれのストーリーを形作る構造のおもしろさにある。
・それゆえに、一地域あたりが10~20ページ程度に短くまとめられているにも関わらず、読後の満足感が大きい。


・ところで、この南極旅について私は先ほど「岡田さん一行を待っていたのは」という書き方をしたが、この南極旅、実は岡田さんご夫妻の“新婚旅行”なのである。
・すごい。そして素晴らしい。
・“波瀾万丈”という言葉がある。“波瀾”は小さい波と大きい波を表し、“万丈”はとても高いこと(丈は長さの単位)を表す。
・ドレーク海峡を渡る南極旅行は文字どおり波瀾万丈に満ちている。こんなにハードな新婚旅行があろうか。


・南極から始まった旅は、南アフリカ→モロッコ→イスラエル...と、次第に岡田さんのご自宅へ近づいてくる。
・国内に入ってからは、仙台→青ヶ島→箱根ヶ崎...と続き、ついには、駅前の寿司屋→郵便局と、ご近所まわりで体験された旅へ、そして最後には“部屋”へと行き着く。


・“部屋”で一体どんな旅を、と思われるかもしれないが、この部屋での旅こそ、本書における数々の岡田さんの旅の中で最長の日数、そして最長の移動距離を誇る。


・期間にして174日、総移動距離は4349km。この距離は日本を横断するのに十分な距離である。というより、岡田さんは自室にいながら、日本横断を成し遂げたのである。


な...何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった...


・何が起きたのか。

・このとおりである。


・エアロバイクとGoogleストリートビューを繋ぎ、バイクを漕げば走行距離に応じて画面の中の風景もその方向に進む。
・この謎であるが魅力しかないマシーンによって、岡田さんはおそらく日本でただ1人、自室で日本横断を果たされたのである。


・このエアロバイク日本横断の旅はいくつかのメディアで取り上げられ、それをきっかけに岡田さんの元へ「どこどこへ行って欲しい」というリクエストがご友人や知人から相次ぎ、人と人とを再びつなぐきっかけとなった。さらには岡田さんご自身のTwitterで「あなたの思い出の場所を教えてください」と募集した結果、全国から300を超える”誰かの思い出の場所“が集まったとのこと。
・その誰かの思い出の場所を巡るという寄り道のおかげで、一室でただ一人繰り広げられていたエアロバイクの旅は、数百の人と人をつないだ一大イベントに発展した。これはきっと、岡田さんが当初この企画を思いつかれた時には想像もしていなかった想定外ではなかろうか。


・南極に始まり、自宅に行き着く岡田悠さんの16の旅の物語。その多くで語られているのは、旅先で起きた数々の想定外(トラブルや奇跡としか思えない出来事も含む)である。そして岡田さんはその想定外の数々を、たとえそれがトラブルだとしても、振り返ってみると旅の記録の一部として心から楽しまれているのが伝わってくる。(トラブルが起きた瞬間はきっと肝を冷やされたことだと察するが...)


・ちょっとした想定外が起きただけですぐにフリーズしてしまうプログラムとは違い、人間は想定外を楽しむことができる。
・エンジニアの仕事中に起きる想定外は全てにおいてめんどくさいことこの上なく、まったく厄介であること他ならないが、旅先での想定外は、それ自体が旅の魅力に磨きをかけ、私たちを強制的に日常から引き剥がし、その旅を記憶として深く刻むことができる。


・自宅での0メートルの旅を終えた本書の最後で、岡田さんご自身が”旅”という言葉の正体について、ひとつの答えを見つけられる。
・その答えは、16の物語を読まれた後にぜひみなさんの目で味わっていただきたい。


・私たちはどこにいても、たとえ自室から0メートルの距離であっても旅をすることができる。
・Googleストリートビューと連動した謎のエアロバイクを組み立てるほどの労力はいらない。本を手にとりページをめくる。それだけで私たちはどこへでも出かけることができる。



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