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時間は半分しか存在しない 「webデザイナーの半端さについて」

武蔵野美術大学を卒業して、半年ぐらいバンド活動的なことをしたりサカイ引越センターのバイトをしたりをして親から白い目で見られるというありきたりな時間を過ごした後に、私はなんとかwebデザインやその頃盛り上がり始めたインターネットに繋がったデバイス体験などを作ろうとしている会社に入った。
それは2010年ごろのことで、それからパソコンの前で重いphotoshopを立ち上げたり、sketchを開いたり、githubに接続したりしたり己の無力に身悶えたりしながらそういった活動を今この瞬間までとりあえず続けている。

この文章は、webデザイナーの過ごす「時間」について綴られる。

時間は半分しか存在していない。つまりは我々はいつでも忙しく生きることができる。

Webデザイナーはデザインにおける創造性と、プログラミングにおける創造性をどちらも使うことができる。
ただし、一般的なフローにおいては、デザイナーが渡したデザイン画からエンジニアがブラウザ上などで動くようにする。その際に、多くのデザイナーは上がって来たものに対して何かしらの違和感やこうすればよかったと言う感想を抱くだろう。
それは、ブラウザという環境では書体のレンダリングの違いやブラウザ幅のダイナミックな変化やパソコンに向かう時の気持ちがsketchを見てる時と違うとかいろんな要因があるが何かしらひらめいたりざわついたりする。そして、そういった小さなざわめきはプロジェクト管理の名の下に押さえ込まれる。



真にエンジニアをリスペクトする点があるとすれば、それは彼らが未知のものに向かっているという点である。デザイナーはイラストレーターの使い方を知っているし、GUIツールの使い方はある程度で覚える。ただ、プログラミングにおいて新しい言語などに取り組む際はなぜこのコードが動かないのかが分からない、つまりは丸一日を、ただただ唖然としてエラーの探索につかってもなお分からないというまるっきり生産性のない時間帯というのをいくつも経験しているはずだ。我々は彼らのその点においてお金を支払っているとも言えるのではないだろうか。
ライブラリーやフレームワークという名のブラックボックスの中を探索し続ける粘り強さ、仕様書の更新を眺めて該当の箇所を探し当てること、セキュリティーやアクセス数といった、翻ってサーバーなどの物理的な部分とつながるような部分の責任を持つということはそのコードの内容以上にエラーを修復するような能力、つまりはより多くの範囲のプログラミング知識が必要となるということだろう。
プログラミングをただのデザインを再現するものとして扱う人間にはそのような未知のものへと向かい続けなくてはならないという心持ちがわからないのではないだろうか。
特に私のような、デザインを基盤としているプログラミング音痴の人間はその未知のものへと向かう際の解決能力がとても低くなぜ俺はこんなに分からないことばかりをやりつづけないといけないのか、ちゃんと一応手を動かせるようなことをやって技術として積み重ねる方がずっといいんじゃないだろうかという葛藤を毎日抱えることになる。
それは、定型化されたグラフィックデザイナーや職人的な在り方への誘惑でもある。

しかし、真に価値があるかもしれないものは全くもって生産性がないかもしれない領域で探索した時間のなかにあるはずだ。

Webデザイナーに必要なものはそういった変化する中間の領域にとどまり続けることであるならば、時間の半分は自分にとって未知なものとの接触に当てられることになる。

デザインとはsketchやイラストレーターなどのツールを扱うことで半分はプログラミングというのではない。自分が扱える範囲のプログラミングは既にデザインの一部である。残りの半分とはまだ習得できていない言語であり、まだ作ったことがない領域、または方法のことである。
未知のGUIツールもまた同じである。プログラミングに比べて優しいというイメージがあるがUnityにしてもBlenderにしてもFlamer Xにしても自分にとって新しいGUIツールを使い始めるということは大きな困難が伴う。その困難の痛気持ち良さを楽しめるかどうかを迫られている。

つまり、時間の半分は技術的な向上ではなく何かしらできないことの出来なさと向き合う時間なのだろうか、そんな生活を送ることがwebデザイナーなのではないだろうか。



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