エビは尻尾までがエビ
淡々と過ぎていく日々の中、時々泥に足を取られながらも、「〇〇は大好きか大嫌いかに分かれる」という論法が、相変わらず大嫌いである。
たとえばパクチー。私は好きでも嫌いでもない、食べられる。
たとえばドクターペッパー。好きでも嫌いでもない、飲める。
そういう傾向にあるよ〜という軽いノリで言っているのかもしれないが、うるさい、俺はノリの軽い奴と俺が嫌いだ。
なあ、俺は亀梨和也なのか?
ゴホン。
そもそも人というのは、好きでも嫌いでもないものに囲まれて生きている。人は、この世にあるほとんどのものが、好きでも嫌いでもない。
その中で、その人なりに折り合いをつけて、生きている。
大好きを大切に、大嫌いを蔑ろに、生きている。書くと簡単だけど、大嫌いはあまり蔑ろにできないことに、時々苦しみながら、生きている。
まあいい。めんどくさい。嫌いなものに容量を使われるのはごめんだ。
ん、そういえばあれも嫌いだ。
「〇〇したことないなんて、人生の△割損してるよ」
なあ、俺の人生の十割がどんなものなのか知ってるんだったら、教えてくれないか?
この言葉は、六割の皮肉と三割の懇願、一割の何かで構成されている。
自分で発した言葉の真意すら十割はわかりはしまへんのに、どうして君は僕こと他人の人生の△割が〇〇で構成されていると思うんですか。
いやいや、そんな細かいこと気にしなさんな、冗談やがな、と、君は言うかもしれないけれど、俺は冗談に逃げる奴と俺が嫌いだ。
冗談を言うなら初めからそう伝わるように言え、冗談に攻撃性を込めるな、嫌気がさす。
「え、〇〇したことあるなんて、人生の△割得してるね!」
とはなぜ言わない?
これなら、馬鹿だな、とは思うかもしれないけれど、嫌な気はしない。ハッピーで能天気な日々を、ただ送らせておくれよ。
と言っているわりには、振り返るとあれが嫌い、これが気に食わん、と文句ばかりだ。
自分の行動を顧みずに批判ばかりする大人や子どもにはなりたくない。
全然そんな、本気で言ってませんからね。
へへ。
まあ思いはしますけど、冗談ですし。
へへ、すみませんねえ。
とかなんとか言いながら、今日も君やみんなにやさしくありたい。
ハンバーグやエビフライに心躍らせて、柔らかな風を、食卓に吹かせたい。
やさしさ。
そのどれもが暖かく、君のところに降り注げばいいな。
エビ...フライ......?
オイ、「エビの尻尾はゴキブリの羽と同じ成分らしいよ」って言い出した奴誰だ!!!
俺のターン、ドロー。
死語「KY」を攻撃表示で召喚。
死語「KY」でダイレクトアタック!!
ターンエンド。
...俺のターンが終わってしまったので何も言えなくなってしまいました。
「...エビの尻尾はゴキブリの羽と同じ成分らしいよー」
ハッハッハ、バカめ。
俺のターン、ドロー。
「てめえが食ってる牛肉はてめえが愛する女の腹の肉と同じ成分だよ、たぶんな!!」を守備表示で召喚。
死語「KY」でダイレクトアタック!!
ターンエンド。
あー楽しい。
まあアレだ。パクチーは大好きな人も大嫌いな人も、そのどちらでもない人も、いる。エビは尻尾までがエビだと思うが、食べるも食べないも自由だ。
僕らがするべきなのは、あらゆる人を許容することだ。
ジェンダーについての議論が活発な昨今、僕らがするべきなのは、男性も女性も一緒の人間だよねー、と男女を同列に扱うことではなく、違いを認めて、許容することではないか。
男女を同列に扱うことは、できない。少なくとも僕にはできない。
僕のかっこいい友人はそれができるけど、それでも、違い、はどうしたってある。
ちょっとだけ怖くなる。僕らは同じ、人間だが、一人として、同じ人間はいない。
だから、人は人を愛するんじゃねえのか?
愛はきっと、違いからうまれる。
ターンエンド。
ちょっと格好をつけすぎたので、シーソー理論に基づき、おっぱいぐらいは言った方がいいと思い、ここに書き置きます。
おっぱい。
そうか。
僕の文章は、大好きか大嫌いかに分かれる。
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