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アンティークコインの世界 〜名品古代貨幣解説〜

状態が良く、且つ神話・歴史上重要な五枚のギリシア・ローマコインを今回は紹介していく。ギリシア・ローマ世界は、底なしの面白さを秘めている。そのアプローチの仕方は無限大だが、貨幣という媒体から当時の歴史・文化に迫っていく。


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【伝説の神獣スフィンクス】

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図柄表:スフィンクス
図柄裏:四分割刻印 
発行地:イオニア・キオス島
発行年:前400〜前380年
額面:ドラクマ
材質:銀
直径:14mm
重量:3.52g
状態:F toned
資料:SNG Cop 1545
*1)本貨に銘文は打たれていないが、タイプによっては発行者の名が刻まれているものもある。

前5世紀にイオニア地方のキオス島(古典ギリシア語ではキオス、現代ギリシア語ではヒオス)で発行されたドラクマ銀貨。キオス島は数多くの著名人を輩出した都市で、ギリシア最古の文学イリアスで知られるホメロスの出身地でもある。

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本貨の表面にはスフィンクスとワインを保存したアンフォラ(二本の把手がついた液体保存用の土器。美麗な絵が装飾されたものは、諸外国へも輸出された)、裏面には四分割の刻印が打たれている。スフィンクスはエジプト発祥の神獣で、男性とライオンの合成獣として当初は表現されていた。しかし、ギリシアに伝わると女性化されて表わされるようになる。

スフィンクスの有名な神話はオイデュプス王の物語である。女神ヘラによって地上に送り込まれたスフィンクスは、テーバイでオイデュプスに接触し難問を出した。その際、問題を外したら食い殺すと脅す。だが、聡明なオイデュプスがこれに見事正解する。難問が解かれたことにショックを受けたスフィンクスは、崖から飛び降りて絶命したという。

この神話のワンシーンを視覚的に描いているのは、ルーブル美術館所蔵のドミニク・アングルの絵画が最も有名だろう。おそらく多くの人のオイデュプスとスフィンクスのイメージはここにある。だが、不思議なことにエジプトで描かれるスフィンクスは巨大であるのに対し、ギリシアで描かれるスフィンクスは身体が小さい。性別も女性化されており、ベースはライオンだが、翼も生えている。両者ともスフィンクスという名だが、果たして同一の存在なのか疑わしいほどである。とはいえ、エジプトからギリシアにスフィンクスが伝播したことは間違いなく、ギリシアが繁栄期を迎える以前にエジプト文明から多くを学んでいたことも確かである。

ちなみにローマ皇帝アウグストゥスは、エジプトを属州化したことを生涯誇りに思っており、彼の印章指輪にはエジプトを象徴するスフィンクスの姿が刻まれていたという。


【庶民の皇帝ウェスパシアヌス】

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図柄表:神格化ウェスパシアヌス
図柄裏:カプリコーンと盾
発行地:ローマ
発行年:80年
銘文表:DIVVS AVGVSTVS VESPASIANVS(神なる皇帝ウェスパシアヌス)
銘文裏:S C(元老院決議により)
額面:デナリウス
材質:銀
直径:18mm
重量:3.22g
資料:RSC497/RIC357/RC2569
状態:VF+ toned

ローマ帝国でティトゥスの治世に発行されたデナリウス銀貨。彼の父ウェスパシアヌスの肖像が描かれている。本貨はウェスパシアヌスの崩御後、彼の神格化を記念して発行された。

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ウェスパシアヌスはネロに仕えた騎士階級出身の軍人だった。その優秀さからネロより寵愛を受ける存在だったが、ネロ祭で居眠りをしたことを機に左遷される。ネロの死後、ローマでは皇帝の地位を巡って内乱が引き起こされた。ガルバ、オットー、ウィッテリウスと三人の将軍たちが皇帝に即位するが、いずれもその治世は短命に終わった。この動乱を収束させたのが、ウェスパシアヌスであり、彼はローマに安定をもたらした。従来では貴族階級が皇帝に即位していたが、ウェスパシアヌスは騎士階級である。実力があれば、貴族階級でなくとも皇帝に即位できるようになった転換期として、彼の即位は古代ローマ史上重要と言える。初代ローマ皇帝アウグストゥスは、もともと騎士階級のオクタウィウス氏族の出だが、カエサルの養子となりユリウス氏族を名乗ったため、貴族階級とカウントされる。

ちなみにウェスパシアヌスの父フラウィウス・サビヌスは、アシア属州の徴税請負人で平民階級だった。サビヌスという名は、ローマ建国神話でローマが対立していたサビニ人由来の名前である。母ウェスパシア・ポッラは、騎士階級の生まれだった。夫婦は兄弟をもうけ、兄サビヌス(古代ローマでは慣習で、長男は父と同名の名が付けられた)は政界に入り、弟ウェスパシアヌスは軍に入団した。二人とも順調にキャリアを重ね、重要な役職に就いていったが、サビヌスはウィッテリウスの治世に起きたローマの内乱騒動で他界した。最終的にウィッテリウスを破ったウェスパシアヌスは皇帝に即位し、内乱の終結とローマの平和を宣言する。

ウェスパシアヌスは有料公衆トイレの設置など、緊縮財政を採用したが、75年にはフラウィウス円形闘技場、いわゆるコロッセウムの建設に着手した。この巨大闘技場は彼の治世では完成せず、息子ティトゥスの治世、本貨が発行された80年にようやく完成した。

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本貨の裏面には、二匹のカプリコーンと盾が配されている。カプリコーンは、初代ローマ皇帝アウグストゥスを象徴する動物だった。本貨のコンディションはVF+ランクで非常に状態が良く、また、彫刻も繊細でウェスパシアヌスの特徴をよく捉えている。


【狂気の皇帝ドミティアヌス】

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図柄表:ドミティアヌス
図柄裏:ミネルウァ
発行地:ローマ
発行年:92年
銘文表:IMP CAES DOMIT AVG GERM P M TR P XI(最高軍司令官、皇帝、ドミティアヌス、尊厳なる者、ゲルマニア征服者、最高神祇官、護民官特権保持六回)
銘文裏:IMP XXI COS XVI CENS P P P(最高軍司令官二十一回、執政官一六回、終身監査官、最高神祇官)
*1)CENSOL ケンソル 監査官。
*2)PERPETVVS ペルぺトゥウス 終身→カエサルが就任した終身独裁官(DICTATOR PERPEVVS)の用語にもこの言葉が用いられている。
額面:デナリウス
材質:銀
直径:20mm
重量:3.46g
資料:RIC730
状態:VF+ toned

ローマ帝国でドミティアヌスの治世に発行されたデナリウス銀貨。表面にはドミティアヌスの肖像、裏面にはガレー船に乗るミネルウァとフクロウが描かれている。

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ドミティアヌスはウェスパシアヌスの次男で、長男のティトゥスが急死したことを機に皇帝に即位した。だが、暗殺未遂事件から疑心暗鬼になり、部下を次々に葬る暴君へと姿を変えていく。

将来、公職に就くエリートとして育てられた兄ティトゥスと異なり、ドミティアヌスはそうした教育を受けてこなかった。それゆえ、優秀な軍人だった兄と異なり、軍才を発揮できず遠征では失敗を繰り返した。それが市民から皇帝としての評判を落とす原因でもあった。

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ドミティアヌスは女神ミネルウァを極めて好んだことでも知られる。それは彼が発行した貨幣にも表れており、その治世下ではミネルウァがモティーフにされたものが多い。本貨もそのひとつである。

ガレー船はローマ軍を象徴する乗り物であり、フクロウはミネルウァの神獣だった。ギリシアの女神アテナの神獣がフクロウであり、その属性を吸収したミネルウァはアテナのアトリビュートを継承している。兜、鎧、盾、槍という武装もそうしたアトリビュートのひとつである。

本貨はVF +ランクのコンディションを誇る良貨で、経年変化によるトーンのかかり具合も素晴らしい。自然にできた錆が偶然にも彫刻の立体感をさらに引き立てている。


【攻めの皇帝トラヤヌス】

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図柄表:トラヤヌス
図柄裏:ダキア人捕虜
発行地:ローマ
発行年:103〜107年
銘文表:IMP TRAIANO AVG GER DAC P M TR P COS V P P(最高軍司令官、トラヤヌス、尊厳なる者、ゲルマニア征服者、ダキア征服者、最高神祇官、護民官特権保持者、執政官五回、国父) 
銘文裏:S P Q R OPTIMO PRINCIPI(ローマの市民と元老院、市民の第一人者)
額面:デナリウス
材質:銀
直径:18mm
重量:3.57g
資料: RIC II 259
状態:VF

ローマ帝国でトラヤヌスの治世に発行されたデナリウス銀貨。トラヤヌスのダキア遠征の成功を祝った記念貨である。それゆえ、表面にはトラヤヌス、裏面には捕虜にされたダキア人が描かれている。

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ダキアはトラヤヌスの治世に新しく獲得された属州だった。鎌のように反った剣でゲリラ戦を仕掛けてくるダキア人にローマ軍はひどく苦しんだ。当時のローマ人は足に防具をつけていなかったため、無防備だったそこを目掛け、ダキア人は攻撃を繰り出してきた。これを重く受け止めたトラヤヌスは脛当ての装着を指示し、戦況は見違えるほどに好転、ついには制圧に成功する。

トラヤヌスはダキア征服を生涯誇りに思っており、DACIVS ダキウス(ダキア征服者)という称号を好んで貨幣上に打たせた。トラヤヌスの治世にローマ帝国の領域は史上最大となった。

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ダキア人捕虜の背後に描かれているのは、戦勝記念柱である。ダキア兵から奪った武具でつくったトロフィーであり、ローマでは共和政期からこの風習があった。ガイウス ・ユリウス ・カエサルが、ガリア戦争の勝利を記念して発行したデナリウス銀貨にも同様の構図が打たれている。


【守りの皇帝ハドリアヌス】

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図柄表:ハドリアヌス
図柄裏:ローマ女神
発行地:ローマ
発行年:131年
銘文表:HADRIANVS AVGVSTVS(ハドリアヌス、尊厳なる者)
銘文裏:ROMA FELIX COS III P P(ローマの幸運なる者、執政官三回、国父)
額面:デナリウス
材質:銀
直径:18mm
重量:3.7g  
状態:VF +
資料:RIC220/RSC1308/BMC568/H456

ローマ帝国でハドリアヌスの治世に発行されたデナリウス銀貨。ハドリアヌスの肖像とローマ女神が描かれている。

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ハドリアヌスは帝国の防衛と巡視に重きを置いた皇帝として知られる。統治が難しかった属州を敢えて放棄し、また、属州を自ら巡視することで反乱分子に圧を与えた。巡視に関しては即位当初に有力な元老院議員を複数名虐殺したことから、首都を牛耳る元老院と不仲で、それゆえ、ローマに居づらく旅していたというのが実態だが、名目上は帝国の巡視ということになっている。しかし、彼の巡視に全く効果がなかったわけでもないので、仕事のひとつとして評価してもいいのかもしれない。それに属州では皇帝の来訪でお祭り騒ぎになり、経済効果もあった。

ハドリアヌスの巡視中の出来事で最も有名な話は、愛人のアンティノウスをエジプト属州で失ったことだろう。アンティノウスは、小アジア出身の美男子だった。ハドリアヌスはバイセクシャルだったことで知られる。アンティノウスに惚れ込んだハドリアヌスは、帝国巡視の旅に彼を同行させる。ハドリアヌスには愛人のアンティノウスとは別にサビナという名の正妻がいるが、二人の間に子どもはいない。公然と愛人を連れ回す夫の姿をサビナがどう感じていたかは不明だが、良い心地はしなかっただろう。いずれにせよ、器が大きい女性だったことに間違いない。アンティノウスの死は謎に包まれており、自殺とも他殺とも言われているが、その真相は定かではない。おそらく、アンティノウスの皇帝の寵愛を受けた地位を疎む他殺、あるいは知ってはいけない情報を彼が得てしまったことによる暗殺と思われる。

ちなみにハドリアヌスは、アンティノウスの貨幣を遺している。だが、オークションでも稀にしか出ない珍品で、破格で落札される。


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以上、五枚の古代ギリシア・ローマコインを厳選して紹介した。スフィンクスは誰もが一度はその名を耳にしたことがある神話上有名な存在である。また、フラウィウス朝のウェスパシアヌスとドミティアヌス、ネルウァ・アントニヌス朝すなわち五賢帝トラヤヌスとハドリアヌスがローマ帝国に与えた影響は大きい。四枚のローマコインは、いずれも帝国の繁栄期に発行されたもので、その質の高さは当時の国力の高さをうかがわせる。


Shelk 詩瑠久 🦋




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