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感情の境界線上での営み

紛れもなく自分の中から湧き出てくる感情だという自信があるのに、どうしても虚しくなる時がある。

より正確に伝えたるため、整理して自分を見つめ理解するために名前をつけ、気がつけば他人の中に芽生えたものも同じものとして認識できるようになった。

もはや本当のほんとの0から1を作り出すことはできない。いつだって知ってることの和差積商や、借りてきた言葉で誰かに教えてもらった感情に名前をつけて、自分や他人と意思の疎通を図っている。

だからどうしても虚しくなってしまうのかもしれない。自分から生まれてきたその瞬間は何にも変え難かったはずの確かな感動が、色やその形の名前を与えられた瞬間に普遍的なありふれたものになってしまうようで泣きたくなってしまう。無理やり型に嵌め手を加え、もしかしたら元の形を殺してしまったのではないかと恐怖する。

そんな思いを持つ人は同世代にあまりいないのだろうか。彼らと会話をするときその感情の形の解像度の低さを感じる。そこには、なんとも言えない居心地の悪さがある。

別に、なんでも鮮明であればというわけではない。脳の容量には限界があるから抽象化して記憶することも重要だ。ただ、その生まれてきた瞬間から圧縮して不明瞭な形でやり取りするのはあまりに残酷ではないだろうか。

なぜ言葉にこだわるのか。共有するのに最適なのは、最終的に言葉を媒介とすることだと思っているからだ。言葉は明確な定義がある一方、耳や目で見聞きして感じるものというのは、好みや環境、身体的なものに左右されてしまう。それらは一部の人には意図した通り正しく伝わるだろうし、言葉を補助としてなら十分に働くが、単体ではどうしても曖昧なことが多い。過去の自分と現在の自分でさえも、捉え方は違うことだって珍しくなかった。

だからこそ私は言葉を正しく使えるようになりたい。たとえ今は借り物としか思えなくても、自分の中でなら変わらないものはあるはずだし、それはきっといつか私の一部になってくれるだろうから。今はまだ拙いし間違えてしまうこともあるが、だからこそより多くの言葉に触れ、練習あるのみだと思ってる。

そしてその時々の感情を事象を、出来る限り明瞭に記録しておきたい。いつか死ぬ時の走馬灯で、それまでのすべてを正しく美しく思い出せるように。

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