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【短編小説】ボクの天神湯(1)

東京の下町に古くからある宮造りの美しい銭湯でボクは働いている。
働いている、と言っても掃除をするわけではない。今はもう珍しくなってきた番台に寝そべって常連さんに撫でられたり、入り口で毛繕い兼客引きをしてみたりという仕事だ。

「シロ、邪魔だぞ」
女湯の脱衣所の籠の中で丸くなっていたら、浴室から声を掛けられる。
ちょっと掠れた甘い声、すらっと長い膝の下、短パンに素足でデッキブラシを片手に持ち、頭にタオルを巻いている。
人間の年齢で言うと30代半ばのこの男はボクのご主人様である。
拗ねたような顔でボクが睨み付けると、やれやれという顔をしてからにっこりと笑った。
ボクのご主人様は笑顔がとても似合う。

ボクは仕方なく籠から出ると、散歩に出ることにした。
散歩といっても最近は車も多いので遠くには行かない。せめて銭湯の前の小さな通りまでだ。
今日は梅雨の合間の晴れの日で、近所のお年寄りもシルバーカーを引っ張り出して散歩に出ているみたいだ。
夕方一番風呂に浸かりにくる面々がボクに挨拶をしながら通り過ぎていく。
「シロ、またあとでな!」
ボクはニャーと声を出す。

しばらく銭湯の前に置かれたベンチでウトウトしていると、軽トラックの音が聞こえてきた。瓶同士がぶつかって鳴る音も聞こえる。
ボクは嬉しくなって、尻尾をピン!と立てると、ベンチから降りて軽トラックの方を見つめる。
運転席から、髪を後ろで一つにまとめ紺色のエプロンをつけた女性が出てくる。
(チサちゃん!)ボクはまたピン!と尻尾をあげてニャアと彼女に挨拶をする。
「シロちゃん、来たよー」
チサちゃんはそう言うと、軽トラックの荷台からサイダーやビールの入ったケースを降ろし始める。
番台の横のドアが勢いよく開いて、ご主人様が出てくると玄関でサンダルを突っかけ、チサちゃんの元に走っていく。
「チサ、やるやる。降ろすよ」
そう言って、軽々とケースを持つと銭湯の中に運んでいく。
「お、サンキュー」
チサちゃんも慣れたもので、運んでもらっている間はしゃがんでボクのことを撫でたりしている。

「体力だけはあるよねー」チサちゃんがそう言って、ボクの頭を撫でる。
「何それ、俺のこと褒めてる?」
ご主人様はそう言うと、同じようにチサちゃんの目の前にしゃがんでボクの頭を撫でた。
「体力だけ”は”って言ったんだけど」
とチサちゃんが言う。
ボクは、(そうそう、体力はあるんだよ)って会話に参加する。
(だって、男性の脱衣所に置いてあるぶら下がり健康器でよく懸垂してるもの)
「毎日銭湯の仕事してたら体力もつくよ、よいしょっと」
ご主人様はそう言って立ち上がった。
「おじさんっぽいな」チサちゃんが笑う。
「よいしょが自然に口から出る年齢ですよ、俺も」
ご主人様はそう言うと、伸びをした。Tシャツの隙間から真っ白なお腹が見える。

それを見て、チサちゃんの頬が少し赤くなるのをボクは見逃さない。
ボクはチサちゃんが好きで、チサちゃんもボクのことが好きだけど、多分だけどチサちゃんはご主人様のことの方が好きみたいだ。悔しいけど。

ご主人様はどこか感情が読めないようなところがある。とっても働き者で、チサちゃんにもとっても優しいし、さっきみたいに荷物も降ろしてあげたりする。
でも、びっくりするくらい誰にでも優しい。
だからご主人様を好きになると大変だろうなと、なんとなく思う。

午後4時が近くなると、銭湯の前のベンチに常連さんたちが集まり始める。
風呂敷に洗面器を包んだおじいちゃんや、自転車の前かごに洗面道具を入れたおばちゃんが集まってきては、近況報告やらをして笑っている。
ご主人様も時間に余裕がある時は、その輪に入って喋ったり、ベンチの横にある喫煙スペースでおじいちゃんたちと一緒にタバコを吸ったりしている。

そうして開店時間になるとのれんを入り口に出す。
この時期の午後4時はまるで昼間なので、一番風呂は大変気持ちが良いものらしい。
銭湯の天井近くに開いた窓から太陽の光が差し込んで、綺麗に磨かれたタイルをキラキラと照らす。
カランを押して勢いよく流れる水の音、桶がタイルの床に当たるカポーンと言う音が気持ちよく響く。

ご主人様は番台に座ると、大抵競馬新聞を読んでいる。
ボクは遊んで欲しくて、番台に乗っかるんだけど、全然構ってもらえない。
飼ってる猫より馬が好きだなんて……信じられない。
大真面目な顔をして、俯き加減に新聞を読んでいる。
常連さんが入ってくると、
「まいどー、おじちゃん元気?」
なんて会話しながらも、ボクのことは構わずだ。

そうそう、ここは番台形式なので、ご主人様の席からは女湯も見えてしまうわけなんだけど、最近の傾向としてなんとなーく見えないように目隠しをしてある。
でも、どうやらうちのご主人様は人間界では「イケメン」と言う部類に入るらしく、あと、おばちゃんたちが言うには「爽やか」であるらしく、どっちかと言うとみんな「見られても構わない、なんなら見られたい」くらいの気持ちで来ているような気がする。

あ、言いそびれたけれど、この銭湯の名前は「天神湯」と言う。
ボクの気が向いた時に、ボクとご主人様とこの銭湯に集まる人の話をしていこうと思っている。

(つづく)

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