屋上には出られなくても
「今日も関口はサボりか?」
定年間際の担任が半ば諦めたように漏らす朝のホームルーム。夏休み明けの教室にはまだ休みボケの抜けきらない弛んだ空気が漂っていて、担任の話なんて誰も聞いてはいない。それでも、学級委員長の私はしっかりしていなければいけないと背筋を伸ばす。
「横山~、お前だけだよ、先生の話聞いてくれるの」
担任が情けない声を出すのに、苦笑いで返す。
「じゃあ、ホームルームはここまでな。横山、話聞いてくれたついでに、関口に何か言ってやってくれないか?」
「はい」
ここは素直に返事をしておく。一応、このクラスで私は一番のいい子ちゃんなのだ。
そんなことで始まった、いつもと変わらない午前の授業をいつもと変わらない調子で聞いて、昼休みがやってくる。
「真奈~、ご飯食べないの~?」
「後でね」
いつものように弁当を広げることもせずに教室を出て行こうとする私に声をかけたのは、いつも一緒に昼休みを過ごす友人の里香。高校に入って一番に仲良くなった友人で、偶然にも3年生の今までずっとクラスが同じだから必然的にずっと仲良くし続けている。幸い喧嘩をすることもないし、親友は誰かと問われれば里香を思い浮かべるだろう。
「真奈、本当に関口んとこ行くの?安藤の言うことなんか聞かなくたっていいって」
「一応学級委員長だし、やりましたってポーズよ、ポーズ」
「委員長は大変だねえ」
安藤とは担任の苗字だ。他の教科担任にこのクラスで唯一真面目とも言われる私のことを、里香もそこまで強く止めもしない。私は「じゃ」とだけ言い残して目的の場所へ向かった。
廊下をずっと歩いて、突き当たりの階段。この上には教室はないが、代わりに屋上へ出る階段がある。階段の片側半分はいつのものかも知らない荷物で埋まり、窓も塞がれていて暗い。特に立ち入りを阻むものはないのをいいことに、荷物のない半分を慎重に歩いて上っていく。ひときわ荷物の多い踊り場を過ぎ、階段の一番上、屋上への出入口の扉。そこに寄りかかるように座り込んだ女子生徒がいる。顔を見なくてもわかる、私のクラスのサボりの達人、関口だ。
「誰ですかー」
私を見やって関口が棒読みで言う。逆光で誰だかわからないのか、私の顔を覚えていないのか。
「3年E組の学級委員長の横山真奈ですー。関口さんに何か言ってやってくれって安藤先生に言われて来ましたー」
私も棒読みで返す。関口はくすくす笑った。
「委員長がなんでこんなとこ知ってんの?」
「有名だよ、3Eの関口さんがここに棲み付いてるって」
「棲み付いてる!?」
今度はお腹を抱えて大爆笑する関口。「妖怪じゃないんだから」と言いながら笑いが止まらない様子の関口を、私は少し面倒だなと思いながらしばらく黙って見ていた。
「で?何か言ってやってくれってことは、教室にちゃんといなさいとでも言いに来たんですか?委員長」
ふざけた口調とは裏腹に、微かな怒気をはらんで聞こえる関口の言葉。
「何を今更。担任の先生の頼みを聞いて、説得するポーズだけしに来たの。委員長も大変なんだから」
「なるほどねえ」
微かな怒気が消えた返事。関口は軽く伸びをした。
「こんな学校で、いい子やるのも面倒な話だよね」
この高校は、偏差値37のいわゆる底辺公立高校。昔から勉強のできない生徒の吹き溜まりのような目で見られているこの高校に、勤勉で成績優秀な生徒を期待している大人はほとんどいない。ただ、不良と呼ばれるような生徒はそれほどおらず、ただただみんななんとなくやる気がない、そんな空気が流れている。進学や高い志を持っての就職を目指す生徒もいないから、3年生になっても生徒の間に切羽詰まった雰囲気は生まれない。現に、過去の卒業生もなんだかんだ社会のどこかにおとなしく収まっている。
「とりあえず、安藤に言われたことはやったから。それだけ。じゃ」
「待って」
里香や関口に宣言した通り、担任の言いつけ通りに何か言いに行くポーズだけして教室に戻ろうとした時、関口に呼び止められた。
「せっかくだから、委員長もサボり、いかがですか?」
「結構です」
何がいかがですかなのか。私はこんな底辺高校でも、一生懸命いい子を頑張っているのだ。
「なんでそんなにいい子でいたいのさ。こんなとこにいれば、私も委員長も同じだよ」
関口の言葉を無視して、元来た階段を下りていく。関口の吐き捨てた言葉に腹が立った。私には私の思いがあっていい子をやっているのに。しかし関口の言いたいこともわかる。こんな学校でいい子でいても何にもならないことくらいわかっている。
「真奈、関口どうだった?」
教室に戻るなり、待っていてくれた里香が気だるげに問う。
「元気にサボってたよ」
「ふうん」
興味のなさがありありとわかる里香の様子に、心の何かが少し引っかかったが、それを流して自分の鞄から弁当を取り出す。彩りよく詰められた、母の手作り弁当。ミニトマトを口に放り込むと、里香の視線が刺さった。
「卵焼きひとつちょうだい」
「いいよ。ほら」
一口大に切られた卵焼きを箸でつまんで、里香の口に放り込む。いつものことだから、誰も不思議に思わない。
「おいしー!真奈のお母さんとうちの母さん、交換してほしいよ」
「それはダメ」
「えー!」
こんな会話もいつものことだ。里香に羨ましそうな目で見られながら弁当を完食したところで、午後の授業の予鈴が鳴る。午後の授業もそれなりにやり過ごし、部活に入っていない私と里香は連れ立って帰路についた。
「まーた関口はサボりなのか。横山、関口に言ってくれたか?」
朝のホームルームで、担任の溜め息混じりの声が私に縋るように放たれる。
「言いましたけど、それで来るようになったら誰も困ってなくないですか」
「そうだな…」
担任は後頭部をポリポリ掻いて、ホームルームを締めた。
「委員長も大変だな」
担任の去り際に隣の席の男子生徒に小声で声をかけられた。私は肩をすくめるだけで何も言わない。
その昼休み、私はまた屋上への階段へ向かっていった。今日は弁当持参だ。里香には「無駄なことはやめときな」と言われたが、昨日の仕返しがしたくて、それを振り切って歩いていく。
荷物が邪魔な暗い階段。上っていったその向こうに、屋上への扉にもたれかかって座るセーラー服の姿。
「関口さん」
「委員長、また来たか。いい子やるのも大変だ」
と、関口は私の右手に提げられた弁当箱に目が行ったのか、「うわ」と声を漏らした。
「ここでお昼食べる気?冗談…」
「サボりいかがですかって言ったの、関口さんでしょ。午後はサボらせてもらうからね」
暗がりで、関口がにやりと笑った。私の座るスペースを確保してくれたのを見て、そこにゆっくりと腰掛ける。屋上への鉄扉に背中を預けると、なるほど気持ちがいい。
「あーあ。せっかくきれいなお弁当なのに、暗くて彩りもわかんないや」
「お母さんのお弁当?委員長、愛されてるねえ」
そう言って、関口はコンビニのちぎりパンをどこからか取り出し、包装を無造作に開ける。
「私、こう見えて我が家の期待を一身に背負ってるので。きれいな手作り弁当作ってもらってます」
わざとそんな言い回しをしてしまうのは、底辺高校在籍の自分と家庭での待遇をかけた捨て身の自虐だ。
「私なんかさ、毎朝起きたら千円札置いてあんの。親の顔より見た野口英世の顔よ」
関口が笑う。ちっとも笑えないのだが、関口には関口の事情があるのだろう。ちぎりパンをちぎらずに端から食らいつくようにして食べる関口を見て、なんとなく、言葉が漏れた。
「私の兄ちゃんさ、6歳上なんだけど、16歳の時に少年院入ったことあるんだ。頭良くて、進学校入って、自慢の兄ちゃん、自慢の息子だったのに。今でも、前科のせいでいろいろ大変で。だから、母さんは私にはそうなってほしくなくて。私、バカだからこんな高校しか入れなかったけど、勉強苦手でもいい、真面目で、品行方正であればいいって。だから、私はいい子でいるの。たとえこんなバカ高にいても」
「ふうん」
興味なさげな相槌が昨日の里香と重なった。関口はそれきり黙ってちぎりパンを齧り続ける。私も、明るいところで見ればきれいな彩りであろう弁当のおかず達を黙々と口へ運ぶ。
私の弁当箱が空になって、元のミニトートに収まったところで、関口が口を開いた。
「委員長がああいう話をしてくれたってことは、私がサボり魔になった理由も聞きたいってこと?」
「え?別にそういうわけじゃないよ」
私は思ってもいないことを問われて驚いた。関口がサボり魔なのはもはや私の中で当然のことになっていて、理由を知ろうとも思わなかった。先程の話は、本当にただ話したくなっただけなのだ。
「誰も私のこと興味ないからだよ」
「え?」
「気付いた時には、親に放置されててさ。まあ、最低限のことはしてもらったけど。学校に行かせてもらって、お金も少しもらえて。でも、それだけ。で、学校に行けば小学校から早速ハブられて、中学校もそんな感じ。って聞いたら、誰か大人が動いてくれると思うでしょ?でも、そんなこともない。私、マジで空気。だから、誰も何も期待しない高校に入って、授業だって出てやらない、ここでのーんびりして、卒業したらふらーっと消えちゃおうかなあって」
関口がなんの感情も込めずにそこまで一気に言った。
「でもさ、ちょっとくらい授業出ないと勉強だって追いつかなくなるじゃん。そしたら進路指導室に呼ばれるよ、さすがに」
「何言ってんの。私、定期テストの学年トップだよ」
「え」
確かに、関口は定期テストの時だけは律儀に教室に戻ってきていた、ような気がする。しかし、テストの学年順位など気にする生徒はほとんどいない。私もそうだ。
「私、ランク3つも落としてこの高校に来たの。もちろん入試も学年トップ。代表挨拶は辞退した、ってか入学式もサボったけどね。自慢じゃないけど、教科書読めば習う内容くらいわかるよ」
私は唖然とした。委員長としてしっかりしていないとと勉強も苦手なりに頑張っていたつもりなのに、教科書を読めばわかるとは。しかも、そんなことを抜かす生徒がサボり魔だなんて。
「あ、プライド傷つけたならごめん。でも、勉強できてもいいことないよ。落ちこぼれは大人に構ってもらえるけど、勉強できる奴は問題にもされないから。まあ、私は別に今更いいんだけど」
いろいろな感情がごちゃ混ぜになって言葉が見つからない私に、関口はややまくし立てるように言った。
「だから、委員長が安藤の言うことスルーしてくれれば、私は卒業までここでいない人のままでいられたわけ。ちょっとメーワク」
関口がわざと怖い顔をして見せるのが暗い中でもわかった。
「ごめん」
「まあ、いいってことよ。人間だから、完全に誰の中にもいない人にはなれないってことか。安藤だって、自分のクラスにサボり魔がいちゃ困るからね」
溜め息をつく関口に、何かがまた引っかかった。もしかして、という思いをこの際だからとぶつけてみる。
「関口さんさ、すごい寂しいんじゃない?本当は。いない人の自分を、誰かが見つけてくれるのを待ってる」
「なんで、そんなこと」
関口の言葉に焦りが見える。私は言葉を継いだ。
「本当は、誰かに見てほしかった。つらかった時、助けてほしかった。でも、そんな人いないって諦めたほうが楽だから、ここにいて、やっぱり誰も来ないって確認してたんじゃないの?それが、私が来たもんだから、やっぱり諦めきれなくなった」
「そう思う?」
怒っているのかそうでないのか、この暗がりでは読み取り難い引き攣った関口の口元が問う。
「じゃあ、ここ開けてさ、屋上から叫んでみてよ。サボり魔の関口といい子ちゃんの横山でサボってますって」
そう言うなり、関口が立ち上がって一歩引く。私も好戦的な関口の言葉に乗せられて屋上へ出る扉を開こうとする。しかし、冷たい鉄の扉はキイキイ嫌な音を立てて軋むのみで、錆びついたドアノブはびくともしない。しばらく扉と格闘して、やがて力なく手を下ろした私に、関口は薄く笑って言った。
「開かないでしょ?ここ、鍵掛かってるんだよ。屋上には出られない。私も一緒だよ。誰かに見つけてほしくて頑張ってた時期もあったけど、無理だった。ドラマじゃ屋上に出てのんびり昼寝とかするけど、外にも出られなきゃ光も入ってこないようなこんな場所、私にぴったりでしょ?」
関口は再び扉に背中をつけて座り込んだ。私もそれに倣う。
「関口さんは、それでいいの?」
「何が?」
「一生暗いところでしゃがみ込んで、それで満足?そんなんじゃ、ふらーっと消えたところで、消えたことすら誰も気づかないよ。本当にそれでいいの?そんなんじゃ、生きてたことも忘れちゃうよ。自分も、みんなも」
「いいよ」
「じゃあなんで、私をサボりに誘ったの?」
関口が急に押し黙る。
「私が関口さんにどう見られてるか知らないけど、本当に、どうしてもいない人になりたいなら、私だったらそんなことしない」
「じゃあどうしたらいいの!?」
関口の隠しもしない怒りに触れて、少し怯んだ。
「頑張ってダメで、頑張ってダメで、もう頑張りたくない人間に、頑張れって言いたいの?それっていいことしてるつもり?委員長はいいかもしれないけど、私は迷惑。いい子ちゃんやりたいなら私の知らないところで勝手にやって」
私には、関口の気持ちをわかることはできない。それでも、関口の諦めきった気持ちに少しでも光を当てるには、言わなければいけないこともある。
「関口さん、10歳の頃に暴力事件で警察に捕まる高校生の一人のこと、”この人は暴力振るってない”って、お巡りさんについていってまで証言したことなかった?でも、子供の言うことはあてにならないって追い返されなかった?」
「なんでそう思うの」
「それ、私の兄ちゃんなの。”せきぐちひなこ”ちゃんって名乗る私と同い年くらいの女の子が、悪い友達に巻き込まれて捕まった時に一生懸命そうやって叫んでくれたって言ってた。少年院に入ることにはなったけど、その子が自分の無実を知ってくれてるだけで救われるって、未だにそのこと覚えてる。あの時の子が関口さんだって、2年生のクラス替えでわかった。そうでしょ?”関口日菜子”さん」
「そうだよ。あの時も私思った。あんなに勇気出して警察に証言したのに、子供だからって相手にされない。ここでも私の声は届かないんだって傷ついた。そっか。私もちゃんと誰かの記憶にずっといたんだ」
関口の言葉の最後は少し震えていた。
「兄ちゃんだけじゃない、私も母さんも父さんも、”少なくとも一人は兄ちゃんの無実を知ってくれてる”ってずっと力をもらってたんだよ。あんまり人に言いたくなかったけど、関口さんには言わなきゃって今思ったの。関口さんがいない人になったら、兄ちゃんの無実を知ってる人もいなくなっちゃう」
関口が黙って頷いたのがわかった。
「屋上に上れなくてもいいじゃん、サボれる場所に光の当たるところなんていくらでもあるよ。教室に来いなんて私は強制しない。でも、ふらーっと消えるなんてなしにして。卒業して、委員長として関口さんに会いにいかなくなっても、関口さんは私の拠り所だから。私だけじゃない、うちの家族みんなの拠り所だから」
関口が何か言いかけた時、予鈴が鳴った。私はいい子ちゃんをサボってここにいる覚悟でいたが、関口が私の肩を強く叩いた。
「委員長!5時間目に遅れちゃまずいんじゃないの?」
「とにかく、私は関口さんをいない人にはしない。覚えといてよ」
私は足早に教室へ戻った。放課後、里香に関口と何があったのか聞かれたが、私は「積もる話をしてまして」とだけ返した。里香は私の兄の話は知らないから、一から説明するのは大変だ。それに、親友といっても知らなくていいことはある。里香も「ふうん」といつもの調子で流しただけだった。
「おっ、今日は関口もいるな」
担任の安堵を含んだ声で、翌朝のホームルームは始まった。
「授業中寝させてもらいますけど、それでよければ」
教室の窓際、最後列の席で、わざとのような横柄な態度の関口がそうのたまうと、教室が爆笑に包まれた。今朝、登校した私を見るなり真ん丸に見開いた目で「真奈!関口になんて言って来させたの!?」と詰め寄った里香も笑っている。
私の告白が関口にどう響いたのかは知らないが、わざと作った偉そうな表情に似合わない精悍な顔と、この高校では少数派の着崩していない制服姿は、暗い階段の先よりも明るい光のもとにいたほうがいいと、私は勝手ながら思ってしまう。
いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。