新しい景色

心の中でこっそり大切にしている言葉がある。
「見える所まで行ってみよう。そこからはきっと、新しい景色がみえる」

確かトイレのカレンダーに貼ってあった英語の格言だったと思うのだけれど、もうそんな出自もどうでもよくなるほど、この言葉を愛している。

Climbと使われてた気がする、けれど、無理に鼓舞するのではなく、けれど大変さを過小に見せることもない、こちらの表現が気に入っている。絶妙なバランスで、私を長いこと勇気づけてくれてきた。

この言葉の良いところは高い目標達成を指すだけではないところだ。見える所に、たとえば雰囲気のある路地に、気持ちの良さそうな屋上に行ってみることにも当てはまると思う。匂いや少し湿った肌触り、思ったより窮屈だったとか、そこから生まれる感情とか。

その最たるものが旅行だ。
見える情報をかきあつめて、どんな場所かなって思い描く街はだいたい華美になっている。その場所で暮らす人たちはみんな、独自の美しい何かを持っている気がする。
だいたい、ネットの情報は綺麗な写真や又聞きの集合体なんだから、いいかげん期待しすぎない様になれても良い気もするが。
しかし、常に失望する訳ではない。醜かったとしても、美しかったとしても、遠くから見えていたのとはだいたい違う景色を知れる。そして、そこから行くべき新しい場所を知ることそのものが楽しいと感じる。

実はこの度、新しい景色を見たので忘れたくないと思ってnoteをダウンロードした。
その景色とは、「TOEIC850点」である。(ひゃっほーい
Toeicは990点まで存在する。存在はするものの、その到達点は異世界にあり、何か奇妙なものとすら感じる。
この異世界への道は、万人に開かれたルートである。ただ、険しい。
大学のある先輩は、990という称号のホルダーだった。その研究業績、下ネタを絶叫しすぐ脱ぐ姿、数々の伝説と相まって、私の中でこの先輩は理解を超越した奇跡に位置づけられている。

ちなみにその前の最高点は750点。 900点なんてスコアを目指していたわけではないが、仕事上の必要にせまられて英語が出来る風にアピールをしたかったので、試験の直前に私なりに頑張ったのだった。

スコアを見てまず始めに来たのは、弾ける様に嬉しい感情だった。
850!英語ができると言われる点だ!正直手ごたえはあったが、700くらいだと思っていた。やったやった、850!それは美しい景色だった。
私はさらに承認欲求を満たすため、850点が世間でいかに称賛されているかをgoogleに確認しに行った。
すると、出るわ出るわ、際限なく現れるのは900点への道であった。
敬愛する奇跡の先輩に近づく道をちらりと思いうかべるが、それは高望みというもの。そうじゃなくて、称賛がほしい。
しかしだいたいは、「まあ就職に有利かもね」くらいの褒めばかりだった。こちとら、一応は業務で英語を使っているのだ。就職に使えて当たり前だ。もっとほめて。
よく見ると、googleの予測検索ワードに「TOEIC 800 すごい」とある。それで、はたと気づいた。みんなほめられたかったのだ。800すごいね!それだけで良かったのに、そんなにほめるほどでもなかったのだ。悲しかった。
googleはそこで容赦せず、さらなる現実を教えてくれた。「TOEICの真実」「900点の俺が語る英語力のリアル」
そう、薄々気づいてはいたことだが、TOEICの英語はネイティブの小学生レベルなのだ。私としてはなかなか頑張って対策し、なけなしの集中力をかき集めたのに。当たり前だ、新聞だのスタッフ募集だのの記事なんて、日本語なら子供でも何時間でも読める。
ここまできて、ようやく、私のビジネス英語はかなり甘い部類なのだ、という事を芯から理解した。なぜなら、ビジネスシーンでは相手の意図を汲まないと話にならない。だから母国語が英語の人でも、馬鹿にせず、簡単で確実な文法や単語で、目を見て共感を示して伝えてくれる。彼らはいつも、日本人よりずっと優しい。そう。お金になるから優しくしてもらえる場面なら、なんなら自動翻訳でいける。
日本市場には英語ができない小金持ちが集まることがあり、その蜜を吸いたい海外メーカーとの取引では、こんな甘々な世界が往々にしてある。しかしもちろん、取引のもっとシビアな場面、こちらの要求を通すとか便宜を計る関係性を作るとかの場面では、小学生みたいな言葉しか出ないのは致命的なのだ。suitsで話すような、は遠く彼方でも、真面目な違和感のない言葉で話せたらどんなにいいだろう。

さらにこの点は、もう一つの景色を見せてくれた。
日英話せても理解力や推進力がなければ仕事にならない。むしろ日英できる人はハブになりがちなので、仕事ができないと人の足枷にすらなってしまうのだが、それでも、彼らは評価される、という歪んだ景色だ。
言語は「仕事ができる」が先に無いとあまり意味がない。しかしこの、「仕事ができる」という指標は測りにくい。どうやら推進力などはダメでも、評価しやすければ評価されるのが会社という組織であるようだった。上はいつでも、誰かを評価しなければならないのだ。

今や私は、空っぽの中身に850円のタグを付けてもらった気分だった。
私が磨こうとしてきた物、確かな何かとは何だったのだろう。
相手を理解して、求めるものを探して、魅力的なプレゼンをして、信頼感のあるやり取りを継続し、目標に向けたタスクを細分化して、人にうまく依頼し、自分でもこなし、スケジュールとすり合わせて利益に繋ぐ。海外の人と条件や情報をすり合わせて日本のお客さんに届ける。
少しずつ出来るようになってきたつもりだったけれど、本当にそうか?
正直なところ、私は少し調子にのっていた。お客さんが感謝し、頑張ってるねとか、優秀だともたまに言って貰える。
それでも数字は足らない。仕事がうまく回らない時も多い。何ができたら何の称号を貰えるのだろう?

今私は、850ハイも終わり、ようやく落ち着いて周りの景色を注意深く眺め始めている。コミュニケーションに本当に必要なものはなにか?お客さんが求めるものと、本当に必要なものはなにか?市場に何を提供すれば、ずっと生き残っていられるか?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?