プラダを着た悪魔が嫌いな人は、たぶん文化の差を知らない人

★ネタバレをたっぷり含みます。

好評なのだけれど、悪評も目立つ。その一部は、どう考えても文化の差を知らないからじゃ…と思う面もあったので、記録しておくことにする。

▪️引継ぎもしないで勝手に辞めた。
→これはアメリカでは当然の事で、引継ぎ期間を設けて辞めましょうねというのは実は日本文化だけど、全く触れた事のない人は気付けないんだと思う。(他の国は知らん。)アメリカは突然クビになることも、突然辞めることも本当に多い。引継ぎなんて概念はない、訳ではないけど。2人重なるように雇って余分な給料を払い、当人同士の引継ぎ能力に事業継続性を委ねるなんて、マネジメントとして無能と考えられている。これは、この映画で最大の「ビジネス文化の差」だと思う。知らないと反感を持って当たり前だけども。

▪️先輩も上司も仕事教えてくれない
→これも、仕事を優しく教えてくれる上司や同僚がいるのは当然ではない。海外でも入社時に研修や教育プログラムを用意している会社も多い様だけど、それは教育部門の仕事であって編集長の仕事ではない。私はファッション誌での経験はないけれど、これまで雇ったのは崇拝者ばかり、というセリフがあることから、応募者は全員ファッション用語、デザイナーの名前などなどは頭に入っていて当然だと推察できる。アンディはガッバーナの綴りも書けない。六法全書を見た事ない人が弁護士をサポートするようなものじゃないだろうか。
また、アメリカでは「先輩」という存在が無い。シニア〇〇というのはあるけど、それは主任とかにあたる肩書であって先輩ではない。30歳離れてても良くも悪くも対等なのが文化として根付いている。仕事を教えるというのは、あくまでそれも仕事だから、チームとして早く独り立ちしてもらった方が助かるから、あるいはその個人が優しくておせっかいで良い人と思われたいから、さらには新人はライバルにはならないと舐めているから、教えてくれる。
メリル・ストリープに至っては編集長、つまりマネージャーであり責任者であり、雑誌のセンスの守護者が仕事なので、優しく1日の終わりに額にキスして褒めてあげるなどありえない。ちゃんと説明されているのに。

▪️パワハラがひどい
これは、文化の差ではなくパワハラの定義を知らないんじゃないかと思うけど。パワハラという言葉は何にでも言えちゃうので、もっと気をつけて使った方がいいと思う。
仕事を教えないではなく与えずに無視したら、それはパワハラだけど、メリル・ストリープもメアリーも指示は出している。怒鳴ったり殴ったりはもちろんない。ダサい、とは表現されるのだけど、それも「私は服にもブランドにも興味のない実直で賢い人間です」とメリルのセリフにあるように、だらしないとか人間としてクズとかの人格否定をしている訳ではない。
危ないのは、無茶な要求を出して達成できなければクビだと脅してるシーン。これはパワハラかなあと思うけど、実質はメリルの私生活に触れてしまったらクビ、というメアリーの忠告通り。。。結果的にはクビを逃れるチャンスを貰っている。
また、無理めな要求をしていらない、とステーキを捨てるシーン。これもなぁ、と思うけれど、アンディが彼氏の誕生日パーティーに来られなかった様に、想定外で何か用意したり不用になったり、直前に予定が変わり続けている業務なので当たり前なのだと思う。全てにおいて完璧に洗練された形にする為に、あらゆる予定の変更を想定に入れる仕事。

▪️お高い服はどうしたのよ
雑誌のサンプルとして集まる服って着ていいんかね。返すんかね。メアリーにあげた服はパリで着たドレス、というセリフがあるので、それだけは自分で買ったのかな。

▪️男にだらしない
まあ、ハリーポッターの最新刊を手に入れてくれるほど自分に努力を傾けてくれる、コネもある、パリの街も知ってるイケメンに揺らがない女のみが石を投げよ。男は知らんけどキス我慢選手権とか観といたら。
距離を置くとか別れる、も人によって全然定義が違うよ。ましてやアメリカの映画に日本的な貞操観念を求めるとは。。。

▪️こんなにすぐに仕事覚えてスーパー活躍できる訳がない
それは、私もそう思う。けど映画として爽快感を出すために、アンディが天才なのは当たり前のこと。

▪️颯爽と辞めてるけど次の仕事だって彼氏や人生を犠牲にするんじゃないの
→そう、それはわからない。ただ、アンディはジャーナリズムという自分の信念に戻ってくることができた。それは、ファッションに対する信念を貫く人々を見て吸収したからこそなのだと思う。
そしてイケメンではなく文句垂れ彼氏に戻ってきた。それはメリルの生き様、離婚して子供に辛い思いさせても、仕事仲間を裏切っても、ファッションの守護者という地位に君臨するという生き様を見たからなのかなと思った。
アンディはイケメンに媚を売って、何を犠牲にしてもニューヨークタイムズの記者を目指す事もできたが、自分に合った書き方の出版社を選んだ。もしイケメンの粗を除いて、元カレに嫌なエピソードが付けば、お洒落な恋愛サクセスストーリーになった。でも違う。この映画は選択する映画だ。何かのせいにせず自分で選べるようになる、という成長物語。そこで、suddenly i see という主題歌が効いてくる。she is a beautiful girl, 彼女になりたい。突然気づいた、なんでこんなに影響されてるんだろう。何百万人が憧れるヴォーグ編集長、そのメリルが最後に一瞥して微笑むのが、ちょっと綺麗になった女性。なんておしゃれな映画。

▪️▪️▪️
最後は映画の感想になってしまったけれども。

つまり、この文化の差を知っているかいないかで、見方がガラッと変わるんじゃないか。
逆に言えば、多くの人が社会に出て苦労してやっと身に付けてきた常識は、どれだけ全てに共通する「常識」なのか、機会がなければ知り得ない。そして無意識のうちに、その常識に感情は振り回され、映画を不快に感じたり怒ったりするケースもあるということだ。

もちろん、ここに書いた事は私の視点であって誤りもあるかもしれない。全部間違ってるかもしれない。私に見えていない何かもあるだろう。

ただ、何かを非常識だと感じる時、それが演出やキャラクターなのか(お笑いで言う緊張と緩和)。それとも自分の想像の及ばない何かなのか。まずそれを冷静に判断し、
不可解な何かを反射的に拒絶しないようにすること。そして想像力の翼を広げたり、新しい何かを知ることが、もっと楽しくて不快感の少ない毎日に直結するのかもなぁ。と思った。

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