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コミュニティを「つくる」と「つくらない」の間

「村つくろう」と言いまくっていたり、Share Villageのトップに「コミュニティをつくる」ボタンを設置している立場ではあるが、今回は「つくる」という言葉の中に潜むバイアス(偏り)に切り込んでみたい。

執筆:丑田俊輔(シェアビレッジ代表)

前回の記事はこちら。

そもそも、「コミュニティ」とはなにか

「コミュニティ」というと、どんなイメージを持つだろうか?同じ価値観や目的で集まる、とか、特定のメンバーシップで、とか。「地域コミュニティ」として土地に根ざした共同体(自治体の枠など)をイメージする人もいるかもしれない。

会社コミュニティ、オンラインコミュニティ。スナックの常連コミュニティなんかはどうだろう。

ところで、コミュニティの研究においては、目的を持った共同体は「アソシエーション」と呼ばれ、区別されたりもするが、こと日本においてはこの違いはあまり意識されていない。(ただし、完全に切り分けられるものでもないのも事実)

スタートアップとか、趣味のサロンとか。これらは「つくる!」という言い出しっぺがいることが多い。誰かの狂気の遊び心が伝染して仲間が集っていくような。

一方で、圧倒的熱量というよりは、気の合うおっちゃんやおばちゃん達が自然と集まって毎日おしゃべりしたり趣味を共有しあう営みも、コミュニティという言葉でラベリングされたりはする。(概して本人たちはコミュニティとは意識していなかったりもする)

「地域コミュニティ」と捉えた場合、意思を持って「つくる!」というよりかは、「ただそこにある」ものだったりする。その土地で代々暮らしているから、育ったから、ご縁あって引っ越してきたから。結果としてゆるやかな共同体らしきものが形成されている。

同時に、村長とか町内会長が住民の意見を束ねながら、「こんなまちにしたい!」という意思なるものも存在している。そこで暮らす人達が心地よくいられたり、自分ごととして参加しやすくなる環境をととのえる上でのビジョンやスタンスは一定の役割を持つ。

「つくる」と「つくらない」の間っぽくなってきた。

共同体ならぬ「共異体」

地域の中を虫の目で覗いてみると、そこには多種多様な小さな群れが共存していて、全ての人が共通の価値観で集っているわけではないことも見えてくる。気が合わない人も、めんどくさい人も、世代も学歴も仕事も価値観も様々だ。

村長とか出納係とか役割はあれど、中心に強烈な思想やカリスマがあるわけではないし、新陳代謝もする。日本神話は中心に一神教的な神がいない「中空構造」と分析されているが、それに近い。

また、日本においては、人間以外の存在(里山など)や死者(先祖など)も含めてコミュニティの一員と捉えてきたこともあり、その射程はとても幅広い。「共同体」というよりは、異質さを包み込む「共異体」といってもいい。

地域に根ざした小さなカフェやスナックにいくと、そのとてつもない多様性を体感しやすい。こうした場は「コミュニティをつくる」という直線的な手段は必ずしもとっていない。その膜が多様な人の参加を妨げたりするためだ。

でも、オーナーのスタンスや場のしつらえ次第で、結果的にその場には多様なコミュニティが同居していたりする。「まちづくり!」というお題目がなくとも、そこで暮らす人たちの営みの積み重ねがまちを彩っていく。「まちづくらない」?

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「つくる」と「つくらない」の間

生活や暮らしを共にする小さな共同体(コミュニティ)として「村」という言葉もある。新たに「村をつくる」という営みは、そんなに頻繁に目にすることはないかもしれないけれど、例えば秋田の八郎湖を干拓してできた大潟村。

国策として農業の村を「つくる!」という意思を起点に、各地から想いを持った移住者達が集った初期フェーズを経て、3〜4世代目が生きる現在は、他の地域と同様に「ただそこにある」存在とも言える。

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自治体ではない村としては、横文字だけど、「インテンショナルコミュニティ」と呼ぶこともある。エコビレッジもその形態の一つと分類される。カブ・ヒル村の実践はとても興味深い。

どこまで「意図」を持つか?の濃淡や、どこまで近隣地域や毎日住んでいる人以外との関わり合いを持つか?といった「開き具合」の濃淡はある。一概には言えないが、例えばヒッピーコミューンは何らかの思想を起点に集うエネルギーが強めな傾向がある。

中心にある意図が強烈なほど、コミュニティの膜を閉じるほど、ある種の熱狂と同質性は高まりやすい。(あまりに閉じすぎると崩壊したりもする。ムラ社会!)

従来のイメージの“村”のみならず、皆で資源を持ち寄って育む「コモンズ(共有資源)」を囲む“村のようなコミュニティ”も生まれはじめている。以前のnoteでは、生存のために生まれた自然村(1.0)、統治のために生まれた行政村(2.0)。そして、リアルとバーチャルを横断しながら、プレイフルな気持ちを原動力に生まれていく新たな村の概念を「村3.0」=共創村と呼んでみた。

こうした新たな村々も、当初の「意図」が言い出しっぺの手を離れて、長い時間と共に「つくる」と「つくらない」の間に溶け出していったりもする。

「間」の曖昧さを噛み締める

さて、そろそろまとめていきたい。

「つくる」と「つくらない」の間。
コミュニティづくりと、コミュニティつくらない。
村つくろうと、村つくらない。
まちづくりと、まちづくらない。
共同体と、共異体。

生物学者のリチャード・ドーキンスが提唱した「デザイン」と「デザイノイド」という概念がある。後者は、人工的にデザインされたわけではないけれど、昆虫のフォルムとか、自然界の中で自然発生的に生まれた機能。どちらも美しさがある。

日本でいう「里山」は、その二つを行き来している代表的なものだ。自然界の理に身を委ねながらも、ある程度人為的に自然界に働きかけることで、村の暮らしを持続可能なものとしてきた。

要は、「つくる」のも「つくらない」のも、どっちが正解だ!ってこともない。自分たちのあり方次第だ。

時にはメタに(俯瞰して)見てみるのもいい。「つくる!」って意気込んでいる時は「つくらない」視点を持ってみてもいいし、逆もしかり。

その「間」にある曖昧さを美味しく噛み締めていこう。

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