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コモンズは暇人のものなのか?

コモンズ(共有資源)や“共”の可能性について語っていると、「それは時間に余裕のある人だから考えられることだよね」なんて声もある。この21世紀、コモンズとか言ってる人は、果たして暇人なのだろうか?

執筆:丑田俊輔(シェアビレッジ代表)

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現代に生きる人々は忙しい?

みんな何かと忙しい。仕事、勉強、趣味、子育て。自分の身の回りのこと以外に使う時間なんてない。それ以外のことは、余裕ある人がボランティアでやるか、行政に任せておくしかない。

経済界からは、コモンズや共助ってGDPにもあんまし貢献しなさそうだし、そんな暇があったら事業を成長させよ!とも言われることうけあいだ。商品化してこそなんぼの資本主義社会。

けれど、人は昔からずっと忙しかったのだろうか?『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)の中では、人類が定住生活をはじめてから、「退屈」という感情が芽生えたと論じている。歴史の長い目線から見ると、生産性が上がっていくことで「暇」な時間は増えてきているともいわれている。(暇とは客観的なもの、退屈とは主観的なもの)

昔も、平安時代の貴族とか、古代ローマ人の一部は、暇をもてあそびながら暮らしていたかもしれないが。ちなみに"School"の語源は、ギリシア語の「暇つぶし」らしい。暇は文化を生み出してきた側面もある。

あれ、でも実際のところ時間がたっぷり余ってしょうがない人は少ない気もする。そして、日々忙しいけどなんとなく退屈を感じているなんて状態もあったりする。ミヒャエル・エンデの『モモ』のごとく、時間泥棒がいるのだろうか?

自分の時間を捉え直してみる

現実では、格差の問題や、長時間労働せざるを得ない状況はまだまだ存在しているし、簡単に解ける話ではない。(自らの意思で没頭してワーカホリックになっている状態、仕事と遊びが溶けているモードに入っている人は全然問題ない)その前提を踏まえつつ、時間について改めて考えてみたい。

暇な時間をどうするかは、学校や会社ではあまり教えてくれない。身の回りには消費社会の誘惑に溢れているし、アルゴリズムでオススメまで自動提案してくれるから、お金と時間が気づかぬうちにスマホに吸い込まれている場合もあるかもしれない。その結果、時間がないと感じていることも往々にしてありそう。

あらゆる営みが、24時間の枠を取り合っている。ありきたりだけど、自分の日常を時々見つめ直してみるのはありだと思う。この時、働くこと以外は余暇、みたいな前提を取り払ってみるのもいい。普段はお金で買ったり稼いだりしているものを、そうじゃない活動に置き換えてみるとしたら?という思考実験も。

もしくは、「自分たちのものと思えている感」「一緒につくっている感」「内発的に参加している感」「自治している感」がある営みは、一日の中でどのくらいあるだろう?という問いかけなど。(念のため、別にそうでない時間が悪いわけでもない)

コモンな世界の入り口はそのくらいのノリでいいし、既に割とそんな暮らしをしているなぁという人もいるはず。日々の過ごし方を捉え直してみることで、コモンズライフの余白がほんのり見えてくるんじゃないだろうか。

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コモンズを考える2つの視点

もう一歩分け入ってみるべく、視点を二つほど挙げてみる。

一つは、「生き延びるため」に“共”にゆだねてみるという視点=「サバイバルコモンズ」!

もともと人類は生き延びる確率を高めるために、群れをつくったり、村をつくったり、共同で助け合ったり何かを生み出してきた。だいぶ人類は豊かになってきたことで、その必要性が薄くなりコミュニティが解体されていった経緯はあるけれど、その中でしんどさが生まれている状況もたくさんある。例えば、孤独な子育て(孤育て)もその一つ。

サービス化されたものにお金を払うことで解決するのが難しい時、コモンズや共助をどうしたら暮らしの中に取り戻せるかを考えてみられたらと思う。
(「自分が生き延びる」ことが大事なのと同時に、「人類が生き延びる」という視点においても、コモンズの出番はありそうだ。里山の生態系や知恵を次世代につなぐ、豊かな地球環境を次世代にのこしていく、といったテーマなど)

二つ目は、「楽しく生きるため」のコモンズ=「プレイフルコモンズ」!

必ずしも課題ドリブン、目的ドリブンでなくてもよくて、日々の暮らしをより楽しくしていく上で、コモンな眼差しで遊び倒してみるという視点。新しいお祭りつくってみるとか、別荘みんなで借りちゃおうとか。“仲間たちとつくる”という営みって、そもそも楽しいもの。

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「暮らしはどこまでコモンズ化できるか?」でも書いたが、小難しく考えすぎず、暮らしの中で巡り合ったものや、何よりも楽しさを起点に、「共」の領域がじわじわ増えていくイメージだ。

楽しく生きるための“共”

実際はこの二つは別個のものというよりは、組み合わさっていたりもすると思う。(ちなみに「サバイバルコモンズ」「プレイフルコモンズ」はいま書きながら命名。文法あってるかな・・笑)

二つの単語を合わせると、ズバリ「楽しく生きる」!

結論。

コモンズ!なんて横文字で言ってる人はある意味暇人かもしれないけれど、コモンズは暇人だけのものではない。

もし暇や退屈な時間がある人は、まだまだコモンな世界を楽しむ余白があるということ。
割と忙しい人も、自分の時間と向き合うことで、もしかしたら余白が生まれるかも。
自助な世界にしんどさを感じている人も、生き抜くための武器の一つとして。

これは今度書きたいけれど、資本主義の隙間からこぼれ落ちる潤沢な資源(山・遊休地・空き家など)と、コミュニティのつながり(共助)をかけ合わせることで、ベーシックインカムならぬ「ベーシックキャピタル」が実現する可能性もあると思う。

暇人も、暇人じゃない人も、コモンズという秘薬を用法用量を守ってお試しあれ。


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