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「学問への/からの挑戦状」

「学問×メディア」というテーマを引っ提げたStudy Talk vol.0の投稿から、もう1か月以上が経過しました。

このラジオをきっかけに、シェアスタッフがそれぞれの観点から「学問の社会的意義」を考えてきましたが、今回はもっちゃんがこの問いに立ち向かってみたいと思います。そこで掲げたタイトルは「学問への/からの挑戦状」です。

考える範囲

まず先に、ここで僕が扱うトピックと目指す結論について述べたいと思います。ここでの基本的な主張は

”「学問の社会的意義」という問いは「学問への/からの挑戦状」である”

です。特に、ここでいう「学問」とは、哲学を中心とした人文社会科学のことを意図しています。
そして、そのことを見ていくために、次のような順番で考えを進めてみたいと思います。
・学問の性質とその分類
・再考すること/距離をとること
・今の社会における学問(≒哲学)の必要性
・「学問への/からの挑戦状」とは?

文系/理系の問題なのか?

学問の社会的意義、などと言うと多くの人(少なくとも多くの「大学人」)は文系学部廃止論争を思い浮かべるのではないでしょうか。文学部は「役に立たない」学部の筆頭として、よくやり玉にあがる印象を持つ人は多いと思います。

けれど、その観点はおそらく誤りでしょう。ここで特に本質的なのは基礎研究/応用研究の区分です。いわゆる「理系」の分野でも、理学や数学の諸分野はやはり「役に立たない」と言われてしまうことがあるからです。ここで焦点が当てられているのは「研究の成果物が即座に私たちの生活を豊かにするか否か」「研究成果が目に見える形で姿を現すか否か」でしょう。

そこで、大雑把に基礎研究と応用研究を次のように特徴づけてみたいと思います。

基礎研究 = 発見の学問
応用研究 = 発明の学問

だいぶラフな記述ではありますが、だいたいの人に納得してもらえる特徴づけなのではないかと思います。けれど、実はこの分類には収まりきらない学問分野があります。それは哲学です。

当たり前を問い直す(=再考する/距離を取る)

哲学は、何かを「発見する」学問ではありません。まして、哲学したからと言って生活を豊かにする便利な道具が生まれる訳でもない、というのがほとんどの人の感想でしょう。では、哲学はどんな学問なのでしょうか。

哲学の特徴を知るために、野家(2003)を引いてみましょう。

要するに、常識を鵜呑みにせず、当たり前を思われている事柄を絶えず疑い、物事を根本から考え直す知的活動、それが哲学という学問なのである。[...]哲学が研究の対象とするのは、生身の人間や有用な物質ではなく、目で見ることも、手で触れることもできない「概念」や「価値」だからである。(野家(2003: 3))

これは、非常にベーシックな哲学に対する理解を端的にまとめた文章でしょう。哲学は、もう知っていること、当たり前と思っていることにもう一度問いを投げかけ直す営みです。その意味で、哲学は再び考え直す学問、いわば「再考する学問」だと言えるのではないでしょうか。

実はこの「再考する」ことは容易なことではありません。少し例を挙げて考えてみましょう。

僕らはふつう地面にまっすぐ立って生きています。その生身の実感で言えば、地面は平らなものでしょう。その「当たり前」の感覚の一方で、僕らは地球が丸いことを知っています。けれど、地球の丸さを知るためには、僕らが生きているこの地上から、はるか遠く宇宙空間にまで飛び出さなければなりません。地球の丸さを知るためには、地球から距離を取る必要があるのです

この「距離をとる」ことは、当たり前のことを再度問い直すときに不可欠の要素です。ですから、哲学は「再考する学問」であると同時に「距離を取る学問」でもあるのです。

現代社会の歪みと「当たり前」の罠

ここまでの議論を見てきた皆さんは、きっと次のいずれかの気分でいるのではないかな、と思います。一方には「うんうん、哲学は当たり前を問い直すんだ。これは哲学者の特権であり卓越性だ、凄いだろ!」と哲学賛美をしたくてうずうずしている人。もう一方には「当たり前を問うて何になるんだよ。そんなの役にたたねーじゃん。」という人。これはいささか戯画的にすぎるかもしれませんが、これまでの学問論争はおおよそこの二陣営の対立であったのではないでしょうか。

ここで僕は、このどちらの陣営に与することもしないつもりです。ただ、現代社会には、現実問題として当たり前を問い直さねばならない問題が山積みになっていることを指摘したいと思います。

おそらく、このような文脈で良く挙げられるのは生命倫理の問題でしょう。臓器移植、脳死、クローンetcといった問題が、確かに眼前にそびえたっています。

けれど、もっと喫緊の問題があるようにも思います。それは政治的・社会的問題です。具体的に、性にまつわる問題を挙げてみましょう。

名前を挙げることは控えますが、性的マイノリティに対して差別的ともとれる言動を行い批判を受けている議員が居ます。あるいは、女性に対する差別に対して異議申し立てを試みるフェミニズムの運動があります。その試みは、「MeToo」の呼称で広く知られることになりました。

ここで問題となっているのは、これまで当たり前と思われてきた「家族観」「恋愛観」さらに言えば「人生観」です。

家族とは何か。どんなものか。かくあるべきか。誰とお付き合いをするのか。いつ結婚するのか。どんな老後を過ごすのか。そのすべてにわたる「常識」と思われてきた考え方が、今まさに問い直されているのではないでしょうか。

ここで「だから今までの考え方を捨てろ」とは言いません。僕がここで主張したいのは「その正しさを改めて、距離を取って検討しよう」ということです。その結果、これまでの通念が誤りであると判るかもしれないし、逆に正しかったことが論証されるかもしれません。

もし、そのような検討がなければ、それは自己の価値観を他者に一方的に押し付ける暴力と化すでしょう。その暴力を是認しないこと。そのためのツールとして「距離を取り、再考すること」の使い方を考え直すことが、現代に生きる我々には求められているように思えてなりません。

まさにこれと同じようなことを、サイードが自身の著書で述べています。

人文学とは、歴史における言語の産物、他の言語や他の歴史を理解し、再解釈し、それと取っ組み合うために、言語の様々な力を行使することである。思うに、人文学が今日重要であるのは、「われわれ」が既に知り、感じていることをそれが強化したり肯定したりするからではなく、商品化された包装済みの、疑問の余地なく無批判に体系化された確実さとして現れるもの、たとえば「古典」というお題目の下にまとめられた傑作群の中身を、問い詰め、転倒させ、定式化しなおす手段になるからである。[...]むしろそこにあるのは、けっして解決されえない、注釈どうしの、煮えたぎるような不一致なのだ。 (サイード(2013: 35-36), 太字引用者)

学問への/からの挑戦状

これまで、学問、こと哲学を「距離を取り、再考する学問」と特徴づけながら、その必要性について検討してきました。ここまでの議論は、あるいは既に繰り返されてきたことの二番煎じである感も否めないかもしれません。

しかし、ここで「だから学問を維持せよ」だとか「文学部を守れ」だとか、そういうありきたりな結論を下すことはしません。最後に、哲学者の戸田山氏のことばをいくつか、紹介したいと思います。

彼は、自身の著書『哲学入門』のあとがきで、哲学を「概念工学」と呼んでいます。哲学は「権利」や「自由」といった、人が幸福に生きるために必要な道具としての概念を作り出すことができる、と。

彼は言います。「哲学者の中にも、ビビってしまって、無用の用とか言ってしまう人がいる。」と。けれど、彼はそれを即座に打ち消しこう続けます。

そうではない。哲学は、無用どころか、人類の生存にとんでもなく役立つものでありうる。というか、役立ってきたのだよ、実際。もっと恥知らずにこのことを勇気凛々主張しようぜ、哲学者諸君。もちろん、言った以上はやらないといかんけどな。 (戸田山(2014: 445), 太字引用者)

そう、言った以上はやらなければなりません。哲学者は、人文学者は、いや大学人たちは、実際に「やってきた」のでしょうか。自己の必要性を主張はしても、その実践には億劫でいたのではないか。

僕は、このことが「学問への挑戦状」であるように思えてなりません。学問は、そしてそれを営む大学人は、自己の力をどこまで実際に示すことができるのか、と。

そして、現代に生きるすべての人々が、学問の可能性をどこまで見出し、またそれを実践できるのか、という「学問からの挑戦状」もまた突き付けられているのではないでしょうか。

先に引用した戸田山氏の著書のあとがきは、実際には「あとがきまたは謝辞または挑戦状」と題されています。その最後の締めくくりを引用して、幕引きとしたいと思います。研究を人生や社会に、学者を「人間」に読み替えて、この挑戦状に真っ向勝負を挑む人が、一人でも増えることを願ってやみません。

 哲学はホント役に立つ。ただし、役に立つのは、現実を何とかして変えようとしている人々に限る。自分の分野の前提に安住して業績とインパクトファクターを稼ぐことだけを考えている人には役に立たない。[...]自分の分野が歯がゆくってしょうがない、その根底を疑い、なんとかもっと面白い研究をやりたいと藻掻く科学者。こういう人は、哲学を役立てることができるし、実際に役立ててきた。科学以外の分野でも同じだ。
 ということは、重要な問いは「哲学は私の役に立つか」ではない。「私は哲学が役に立つような種類の人間か」だ。そこで、本書の締めくくりに、逆に哲学からみんなに問いかけてみたい。
 あなたには、哲学を役立てるだけの知恵と力と勇気があるのか?
(戸田山(2014: 445-446))

参考文献
・野家啓一(2003)「哲学は役に立つのか」,原研二編『人文社会科学の新世紀』pp.3-11 東北大学出版会
・エドワード・W・サイード(2013)『人文学と批評の使命:デモクラシーのために』(村山敏勝・三宅敦子訳) 岩波書店
・戸田山和久(2014)『哲学入門』 筑摩書房

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