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道標

2022年2月から福山シティFCの選手兼法人営業になりました、背番号22番 橋本真太郎です。
なぜ私が、福山シティFCの選手兼法人営業の道を選んだのかに至るまでをここに綴ります。拙い文章ですが、ご拝読頂けますと幸いです。

目次
・自己紹介
・なぜ福山シティFC?
・入団1年目〜2年目
・選手兼法人営業の道を選択した理由と経緯
・3シーズン目にかける想い

【自己紹介】

1997年6月8日、鹿児島県の奄美群島にある沖永良部島(おきのえらぶじま)に生まれる。高校まで大自然の中で育つ(ちなみに高校は島に1つだけ)。大学は鹿児島県にある国立大学法人鹿屋体育大学に一般入試で入学。そして卒業後福山シティFCへ入団。

詳しくは福山シティFCのHPのプレイヤーズヒストリーをご覧下さい。選手、スタッフ全員分ありますので是非。 



【なぜ福山シティFC?】


はじまりは“ヒグトレ”という1つの本からだった。


もともと大学卒業後はサッカーは引退して、一般企業に就職するつもりだった。
しかし、母校での教育実習経て、まだ本気でサッカーを続けたいという気持ちが大きくなり、サッカーを続けることを決意。
そして大学4年の9月、チーム探しが始まった。

ちょうどその時期にTwitterで福山シティFC(当時は福山SCC)のセレクションを行うという副代表樋口さんのツイートがタイムラインに流れてきた。

このツイートの少し前、友人から“ヒグトレ"というものがあるというのを聞いてすぐTSUTAYAに本を買いに行き、練習前のウォームアップとして行なっていた。
そこから樋口さんのTwitterをフォローしていたのだ。

そのツイートを見てすぐDMを送り、セレクションに参加することになった。

その時は金欠でセレクションに片道14時間かけて夜行バスに乗って行ったことを昨日のように覚えている。めっちゃ腰が痛かったわ、隣のおじさんとのポジション争いは白熱するわで、セレクション前のアップにはキツすぎた。
もう一生夜行バスは乗らんって戦いに負けた時胸に誓った。おっちゃん半端ないって。笑

そしてセレクション当日の朝、福山駅に着いた。会場は竹ヶ端運動公園陸上競技場。17名の入団希望の選手が集まった。
ミーティングルームにいた全員が、胸の高鳴りを抑えることができなかったのは、セレクション前だからか、それとも岡本代表の熱いビジョンに心躍ったからかはわからなかったが、10月の終わりにしては少し暑苦しかった。

セレクションではカタ君(帷選手2021シーズンで現役引退)の裏にパス出してめっちゃ走らせたことをよく覚えている。だって足速かったんだもん。しょうがないよね。笑

そして、その時のセレクションに合格したのが僕と#15 前田海を含め3人だった(もう1人は現在フィンランドで頑張ってます🇫🇮)。


こうして2020年福山シティFCに入団することになった。

【入団1年目】



入団当初は県一部リーグに昇格したばかりで実績も何もない状態だった。もちろん知名度は0に等しく、練習前に朝の出勤通学の時間の駅前や土日のデパートでチラシを配ったりは当たり前だった。

地道な活動を積み重ね、少しずつ認知されてはじめた矢先、2020年4月新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が発出。チームは無期限の活動自粛、ユニフォームスポンサーが白紙になり存続の危機に陥った。そんな中チームを救ってくれたのはクラウドファンディングだった。開始3日で目標金額を達成し、多くの方々にご支援を頂いた。あの時の感動は今でも鮮明に覚えている。今の僕たちがあるのもご支援頂いた皆様のおかげだ。心より感謝申し上げます。

結果で恩返しするべくリーグ戦は全勝優勝、天皇杯広島代表を勝ち取り、Jクラブ撃破とはならなかったが、県リーグ所属チームながらベスト6という結果を残すことができ、ある程度は満足のいくシーズンだったと思う。

僕以外は、、、

2020年の公式戦出場時間はリーグ戦の15分だけだった。

なぜなら1番下手だったから。

それを補おうと、ストロングだったフィジカルをとにかく鍛えた。これだけは誰にも負けないように。

試合に出られなかった分追い込んだ。

みんなが試合に行ってる間、毎週階段トレーニングに行った。

プレイヤーとしてチームの力になれないことが悔しくてたまらなくて、居ても立っても居られなかった。

それを隠そうと必勝祈願とか言って階段の頂上にある鐘をかち割るくらい鳴らしてた。

そのくらいしかできなかった。俺もいるよって。

そしてみんなの優しい反応が正直辛かったこともあった。



シーズンも終盤にかかり、続々と契約のリリースが出てはじめ、少し落ち着かない日々を過ごしていた。

そんなある日の練習終わり

対面パスをしていたら樋口さんに呼ばれて、グラウンドで契約更新の話をもらった。

嬉しかった。

久しぶりにプレイヤーとして認めてもらえた気がした。

しかし今シーズン1番試合に出れなかったのに、来年は活躍出来ると考えるほど馬鹿ではなかった。

その一方で自分の可能性を信じたい気持ちもあった。

そして樋口さんは続けてこう言った

「レンタルしてみるか?」

二つ返事でお願いした。

2021シーズンは県リーグ所属チームとしては異例の期限付き移籍をする事となった。





【入団2年目】



出場機会を求めて四国社会人リーグに所属するFC徳島に期限付き移籍をした。

FC徳島は2020シーズン四国リーグを優勝し、地域チャンピョンズリーグ(JFL昇格をかけたトーナメント、以下、地域CL)にも出場したチームだ。

JFL昇格を置き土産絶対に福山に帰るぞと意気込んでいたが、いきなり度肝を抜かれた。

練習場が小さいフットサルコートで、しかも人口芝がぺったんこ。まるでテニスコートだった。スパイクはツルツル滑ってサッカーなんて出来たもんじゃなかった。

既存の選手はみんなトレーニングシューズを履いていた。スパイクでやってたのは知らなかった新加入選手だけ。いや、教えてよ。笑

すぐに近くのスポーツオーソリティに買いに行った。

徳島では日中は仕事をして、夜に月曜日以外はそのフットサルコートで練習して、月曜日だけちゃんとした人工芝のグラウンドで練習という環境だった(今は毎日人工芝でやってるみたいです)。

仕事はOKスポーツクラブという地元のスポーツクラブでジムとプールのインストラクターとして働いた。ちびっ子たちは可愛かったし、職場の方々、おじさま、おばさま方にはすごく良くしてもらった。おかげさまで阿波弁をマスターすることができた。ほなけんまた会おうだ。笑



徳島での生活も慣れ、試合も出場して順調にいっていた5月のはじめ

僕の腰に違和感が出てきた。

次第に痛みが強くなり、約1ヶ月離脱することになった。

整骨院で鍼をしてもらったり、ピラティスを始めたり、ある程度改善することができて、7月の全国社会人サッカー選手権大会(以下、全社)徳島代表戦で復帰。

8月の国体は負けてしまったが、全社出場権獲得、リーグ戦前期全勝と順調に進んでいた。

そんな中またもや新型コロナウイルスが猛威をふるう。

全社中止、リーグ戦後期残り7節を残して打ち切り。

我々は全勝だったため、四国代表として地域CLへ出場することができた。他のチームの気持ちを思うと辛かっただろうと思う。彼らの分まで戦おう。

地域CL第1ラウンドでは3日連続試合を行った。グループCを2勝1引き分けの1位でクラブ初の決勝ラウンドへ進出を決めた。

1週間空いて決勝ラウンドが東京で今シーズン初の有観客で行われた。

やっぱりお客さんの存在は大きいと改めて実感した。

結果は一勝も出来ずに終わった。

久しぶりに泣いた。あんな大勢の前で。

あの悔しさは絶対に忘れない。

2022年は絶対にこの借りを返す。

そして期限移籍の期間が満了し

2022年福山シティFCへ復帰が決まった。

徳島は本当に何にもなかったけど、出会った人みんないい人達ばっかりで、

すごく居心地が良かった。

2ヶ月も経ってないのに、なんか会いたくなってきた笑

徳島の皆さん、また行くんで相手してくださいねー。




【選手兼法人営業の道を選択した理由と経緯】



僕には夢がある。それも2つ。


ひとつは沖永良部島初のJリーガーになること。

もうひとつは、母校の沖永良部高校に学食を作ること。

なぜ学食かというと、それは僕の学生時代の経験が大きく影響している。



前にも述べたように、僕の島には1つしか高校がない。したがって、必然的にみんながそこへ行く。

しかし、スポーツや勉強で上を目指そうという人は島外へ出てしまう。いや、出るしかない。そういう文化がすでにできていた。

ひとり、ふたりと、僕より才能のある友人や先輩後輩が出ていくの見てなんだか悲しかった。

「えらぶからでも出来るじゃん、上目指せるよ」

そう思っていたが、環境も実績も遠く及ばない島より島外の強豪高に行くほうがいい事は誰が見ても明らかだった。

大会に出るときは毎回鹿児島までフェリーで18時間。

練習試合の相手は島の社会人しかいない。

グラウンドにはライトもなくて冬場の選手権前は、日が沈んだら監督の軽トラの灯りでひたすら走っていた。

ただこれは仕方がなかった。

がむしゃらにやることしか出来なかった当時の僕は、食欲も旺盛でお昼の弁当も相当な量を食べていた。

いつも朝早くから弁当を作ってくれていた母には頭が上がらない。

そんな母は看護師をしていて、夜勤の次の日はどうしても弁当は作れず、スーパーの弁当を仕事帰りに届けてくれていた。

夜勤で疲れきっていて、少しでも早く休みたかったと思う。

だから足りないなんて言えなかった。

そんな時は、少しでも腹を満たすために売店で菓子パンを買った。売店自体も小さくて、2時間目の休み時間を逃すとほとんど残っていなかった。

大学時代フィジカルでしか生き残れないと悟った僕は、食事の大切さ痛いほど知った。

身体が出来上がってくる時に十分な栄養を摂れていなかった事を後悔した。

そしてこれからの島の子供には同じ思いをして欲しくないと思った。

きっとこれは自分にしか出来ない、伝えれないことだ。

こうして、パワー飯が誕生した。





2022年1月下旬

チームが始動して一週間くらい経って、練習後ボールを蹴っていたら樋口さんに呼ばれた。

この人に呼ばれる時は必ずなにかがある。

間違いなく僕の人生の中でキーパーソンの1人だ。

もし願いが叶うならもっと綺麗な女性がよかったです。笑

そして彼は不敵な笑みを見せながら話し始めた。

「真太郎営業やらない?」

2020年からお世話になっている鴎風亭さん、景勝館さんお世話になる予定だったため迷ったが、チャレンジしたい気持ちを抑えることができなかった。



鴎風亭さん、景勝館さんという素晴らしいホテルに勤めることができて嬉しかったです。

年一回は必ず泊まりに行かせていただきます。皆さんも福山いらした時は是非ご宿泊してみて下さい。最高ですよ。



こうして選手をする側法人営業もすることとなり、僕の福山シティFCでの戦いのフィールドが2つになった。


【3シーズン目にかける想い】


僕はこれまで福山で何も残せていない。

今までのサッカー人生をかけて、選手、法人営業として結果で福山に恩返しします。必ず。

見ていて下さい。





最後に、僕の活躍がサッカー選手を目指す島の子たちの道標になれれば幸いです。



最後まで見ていただきありがとうございました。









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