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東京藝大卒業後のひきこもり経験を経て孤独・孤立・生きづらさに向き合う現代美術家 ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 渡辺篤さん

この記事はインタビュー動画の書き起こし記事です。元の動画は こちらからご覧いただけます。 ***** 渡辺篤さん(現代美術家) 聞き手:山田英治(株式会社 社会の広告社) 渡辺さん)渡辺篤(わたなべ あつし)です。僕は現代美術を作る仕事をして現代美術家と名乗っています。 山田)渡辺さん自身は今、どういった作品で世にどんなことを問おうとされているのでしょうか? 渡辺さん)僕自身がもともとひきこもりの当事者経験があって、僕がひきこもりを終えた直後から現代美術家に現場復帰

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      禁止看板だらけの公園に子どもたちが自由に遊べる冒険遊び場(プレーパーク)を!ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 関戸博樹さん(日本冒険遊び場づくり協会代表)

      関戸博樹さん(NPO法人 日本冒険遊び場づくり協会 代表) 聞き手:山田英治(株式会社 社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 関戸さん)関戸博樹(せきど ひろき)と言います。NPO法人 日本冒険遊び場づくり協会、という長い名前のNPOなのですけど、そこで代表をやっております。 山田)冒険遊び場づくり、とはどういったものになるのですか? 関戸さん)もともと日本でスタートした取り組みではないのです。1940年代にデンマークで始まった取り組みで、子どもが遊びを手作りできるようにしたい、そういう思いからスタートしています。 遊びを手作りできる要素や遊びの環境そのものを変えること、そこに子どもは成長の発達欲求を持っているのではないか、そうしたコンセプトの遊び場を作ろうということで始まったのが1940年代デンマークの冒険遊び場の始まりです。日本には70年代に入ってきて、同じように子どもが遊びを手作りできる、プログラムのない自由な遊び場が冒険遊び場(プレーパーク)です。 日本の場合、市民活動で広まったというのが大きな特徴です。イギリスなどヨーロッパの場合はしっかりとした法的根拠があって、場所もすでに冒険遊び場の用地があったりするのですが、日本はなかったので。 子どもが外で遊ばなくなったというように言われて久しいですが、 1970年代もその前(1970年以前)の子どもたちの育ちに比べたら、街の中で子どもが自由に遊ぶ風景が失われてきている、そういう危機感は恐らくあったのだと思うのですね。そこに意識のあった親たちが、もっと子どもに自由な育ちの遊びの場をということで日本では導入されて、日本では市民活動でしたので、草の根で少しずつ広がり今に至るというのが現状です。 山田)日本で行われているプレーパークの主な特徴はどういったものになるのでしょうか? 関戸さん)市民活動と言いましたけれど、今のところ何か公的な法律の位置づけがない活動ですので、それぞれの自治体に冒険遊び場をやりたいなという人たちが、「自分たちの町で、この公園で、こんな子どもたちの自由な遊び場をつくりたい」という目的で、その場所を使える利用申請などをとりながらやっているということが多いです。公園を使ってやっているというのが結構特徴で、(誰でも参加できる)オープンアクセスですよね。 海外だと冒険遊び場は塀に囲まれていて、門があって、子どもしか入れないという所もあるのですが、日本の場合は公園でやっていることが多いので、誰でも入ることができ地域の大人も来られます。結構そこは特徴的だと思います。 山田)禁止事項が多い町の公園で、行政への説得などは大変だと思うのですけれど、実際はどうですか? 関戸さん)冒険遊び場(プレーパーク)が何なのかを知らない自治体職員さんも多いですし、活動の当初はどんなことをやるのかすごく心配される方は多いと思います。ただ、プロセスを踏めば火の使用に関しても、全ての場所でできるわけではないですけれど認めてもらうことができますし、信頼関係ですかね。 行政の方と市民活動者の人たちの信頼を築くためのコミュニケーション、それを重ねていくことによって出来ることが増えていくこともあると思うので、そこはすごく大切に皆さん活動されていると思います。 山田)これほど全国で(プレーパークが)少しずつ増えてきている実例があるというのは、一つ説得材料にはなるのですか? 関戸さん)そうですね、やはり特殊事例ではないというのはすごく大きいと思います。しかも海外にもあってグローバルスタンダードな活動で、かつ、子どもの権利条約などに紐づいた子どもの発達の権利を保障する取り組みの一つなのだということも言えると思いますので。 昨年子ども家庭庁が発足して、今の日本社会の中で子どもが遊ぶということの大切さを訴えていくことは追い風にはなってきていると思います。これを機に子ども基本法(子どもの生育に関する日本で初めての法律)などもできていますし、子どもが遊ぶことについて、もっとそれぞれの自治体の中で地域課題としてアプローチをしていく(ことが大切です)。活動する方たちも自治体の方たちも、自分たちの町の中で、どう子どもが遊び、(自らを遊び)育てるのかを考えていくきっかけになるのじゃないかなと思いますね。 【自分で自分を遊びながら育てた原体験から、子どもを尊重した遊び場づくりへ】 山田)関戸さん自身は、プレーパークに出会う前、どんな子どもだったのですか? 関戸さん)私自身は比較的恵まれた環境で子ども時代を過ごしていたなと思っていて、生まれ育ったのは、今ここ(インタビュー場所)練馬の立野町というところですけれど、武蔵野台地の一画ですね。まだ空き地も多く、比較的、異年齢の子ども集団が自分の家の近所にはあって、小学校へ上がる前から一人で外に出て家の目の前で路地遊びができたり、空き地に入って虫取りや生き物探しをしたり、そういう自分で自分を遊びながら育てるといった原体験が私の中にはありました。 冒険遊び場は大人が用意した施設ですが、私は大人が用意した施設で遊んだことというのは基本なかったのですね。ですから大学生になって児童館にボランティアに行く機会などがあったのですけれど、最初はすごく違和感がありました。 何で子どもたちはわざわざ大人のいる場所に遊びに行くのか?自分であれば絶対選ばなかった、避けて通っていたはずなのに、そういう場所が今あるのだろう?ということもすごく気になりました。 ですから私自身 (冒険)遊び場をやりながら、そこに大人がいることの影響など(について考えること)は、自分の幼少期の原体験が大きく影響しているかなと思います。 山田)その違和感はどんなふうに自分の中で解消していったのですか? 関戸さん)大学生の時たまたま子どもと遊びを通して関わるという大学のサークルに入って、地域の子どもたちを遊び場・遠足に連れて行ったりしていたのですけれど、その候補地に(東京都世田谷区)羽根木プレーパークを一回選んで行ったことがありました。それが冒険遊び場に初めて私が訪れた時でした。 プレーパークに初めて行った時に感じたのが、遊んでいる子どもたちが大人たちの手出しや口出しみたいなものとは全く無縁の空間の中で、まさに焚き火をしていましたし、建築みたいなこともやっていました。そういう空間の中で遊べているのを見て何か「自分自身の幼少期の遊びの風景とすごく似ているな、ここの子たちは」と感じました。 それから、大人が程よい距離感にいるということと、「ここの大人は子どもと遊んであげるために居るのではなくて、子どもが遊べるための環境を作っている人たちなのだな」ということに気付いてですね。 プレーリーダー(遊び場を作る人)の方がいたのですけど、何か「大人の在り方もここの場は子どもを尊重した在り方なのだな」ということに気付きました。 ですので、自分自身の(中で)、子どもの遊び場なのに大人がいるということの違和感は、その辺りで払拭された感じはありますね。 【自分らしく生きるために余暇の大事さを痛感。遊び場(余暇)を通して地域福祉をしたい】 山田)子どもに関わりたいと思ったのは、いつ、どの様なタイミングですか? 関戸さん)結構偶然なのですが、大学の時に社会福祉を勉強していまして、当初は、ろう者(聴覚障害)の方たちの支援をしたいなと思っていました。 ですから、大学3年生の頃に社会福祉実習があり、そういう方たちの生活や仕事の場を実習先として選んだりして行きました。素晴らしい施設で自分のやりたい事だと思ったのですが、やはり日本の社会福祉行政の限界というのですかね、職員(側)が力を注げるのは、その人たちの生活と仕事を守る最低限のところまでしか(手が)まわらなくて。命を守る、暮らしを守る、そうなると余暇にまで手が回らないのですよね。 そこの施設の利用者の方たちが、仕事が終わった後や休日に自分らしく生き生き過ごすというところはなかなか支えきれなかったのです。 ボランティアの方がたまにですね、外出支援をしてくださって、皆さん出かけていくのですよね。 私が実習していた施設は、ろう重複障害、耳が聞こえないだけじゃなくて肢体不自由だったり知的障害だったり、あとは盲ろう、目が見えない方だったりいろいろな障害がある方たちだったので、なかなか一人での行動が難しかったのです。例えば買い物に行くにしても一人で行けません。 そういう方たちが、週末に外出支援をしてくださる方たちの手を借りてですね、いろいろな自分らしい過ごし方をして帰ってくるのですよね。その時の表情とか語る言葉ですね、 「今日こんな美味しい物を食べた」とか、 「〜に行ってきた」 「こんな乗り物に乗ったんだ」 「買い物をしてこれを買ってきた」 「映画を観たんだ」などですね。 そういう(様子)を見ながらですね、やはり人は余暇が大事だと、人として生きるということは、自分らしく生きるには余暇が大事だなということを痛感しました。 その人の余暇を支えられる仕事を自分の福祉の実践の中でできないかということを感じました。そして、1日の中で朝起きてから夜寝るまで、施設の中の人たちとしかコミュニケーションをとらない、施設の中の人としか関わらないのではなく、「地域に開かれた施設」ということが何かキーワードなのではないかなと思いました。 町の中には多様な人がいますので、そういう人たちの中で自分自身がやってみたいこととか、そういう余暇の過ごし方も含めて、多様性ということがすごく重要かなと思ったんですね。 たまたま大学生の時の羽根木プレーパークとの出会いの話をしましたけれど、社会福祉を学ぶ中で一つ実践が欲しいなと思って、たまたま自分の(入っていた)手話サークルや、アルバイトの時間のない時に活動していたことが、子どもと遊びを通して関わるサークルだったのです。 児童福祉はしないなと思いながら大学に入ったのですけれど、縁あって子どもと遊びを通して関わるサークルの中でプレーパークと出会い、社会福祉実習を終えた後に自分の気付きがありました。「その地域で、人の余暇を扱っている福祉の実践」と言ったときに、私はこのプレーパーク・冒険遊び場が地域福祉の一つのいい実践ではないかと感じたのです。子どもは遊ぶことでエンパワーメントされます(力や自信を与えられる)し、大人たちも自分の子どもたちの地域で遊ぶ環境について、自分が関わることで変わっていくわけですよ。 これまでは禁止看板だらけでやっちゃいけないことがいっぱいあった公園が、私が一歩動くことでこんなに変わっていくのだ、と思う中で、暮らしの当事者になっていくと言うのですかね。 与えられた物の中だけで生活するのではなくて、自分で暮らしは変えていける。 だから私は大人にとっても壮大な遊びだと思っていて、「冒険遊び場作り遊び」と呼んでいるのですけれど。 ですから「冒険遊び場作り遊び」ができる大人を増やしていくということが自分にとっての地域福祉の実践になるということを思い描いて、「では、プレーリーダーになろう」と考えたのが、大学3年生の終わりぐらいですかね。 山田)プレーパークが仕事という形になったのは、どのようなきっかけですか? 関戸さん)東京都の渋谷区にある「渋谷はるのおがわプレーパーク」という常設の冒険遊び場があるのですけれど、そこがオープンする年が私の大学を卒業する年と同じだったんですよ。 プレーリーダーになってみたいなと思った私は、そこの人たちのところに行って「プレーリーダーになりたい、是非面接を受けさせてほしい」という話をして、無事に採用していただき、プレーリーダーとしてのキャリアを2004年にスタートしたのですね。そこで8年間、常勤のプレーリーダーとして「渋谷はるのおがわプレーパーク」で仕事をさせてもらいました。 その中で自分自身が当初感じていた「冒険遊び場の可能性」、「地域福祉としての可能性」をやはり力強く感じて、やっている大人たちが元気になっていく、遊びに来る親たちも元気になる、子どもたちも遊ぶ、遊べる環境があるということをもっと広めたいなと思いました。 2年間、(息子の)子育てをしたくて、長男が1歳半のときにちょうど私の連れ合いの育休が終わるタイミングだったのでバトンタッチをし、2年間主夫を挟んでですね、その後もうちょっと(冒険遊び場を)広げる仕事がしたいと思いました。現在はフリーランスで、全国に遊びを通した環境づくりということで、人材育成や、 (冒険遊び場の)立ち上げ支援ですね。そんなことを今はお仕事としてやらせてもらいながら、日本冒険遊び場づくり協会の代表を合わせてやっている感じですね。 【何歳からでも遊び直せる。遊ぶことで人生が変わる!】 山田)遊び場での印象的なエピソードなどはありますか? 関戸さん)そうですね、遊べない子っていうのが今多かったりするのですね。 大人の価値観などに、おそらく幼少期からたくさん影響を受けた中で、例えば鬼ごっこしようって言っても、僕は足が遅いからやらないとか。 本来子どもは遊ぶ時に、やる、やらないを決めるのは、やりたいかやりたくないか、面白そうか面白くないかだと思うのですけれど、上手いか上手くないか、できるかできないかで決めてしまう子どもが今すごく多いな、ということをプレーリーダーになってすぐ感じました。 そういう子たちは、いわゆる「他者との物差し」って言うのですかね、尺度が決まっている。学力だったり、足の速さだったり、誰が見てもこっちが優れていてこっちが劣っていると分かっちゃう、そういう尺度で遊びも見ちゃっているということがすごく悲しいし愕然としたのですけれど、自由に遊ぶ場というのはその尺度が関係なくなってくるのですよね。 自分の物差しを持てる、泥団子を一つとってもピカピカの方が得意で好きな子もいれば、ぐちゃぐちゃの方が好きな子もいる。大きなものを作る子や、たくさん作る子、投げたい子、いろいろな物差しがあってよくて、いろいろな尺度でここは居ていいのだなということを子供たちは肌で感じます。 子どもたちは最初そういう風に「いや、僕は上手じゃないから」「足が速くないから」って言って断っていた遊びの輪の中に、遊びに行き続けることで入っていけるようになるのですよね。 これはすごく遊びの持っている大きな力だと思いました。ですから、何歳からでも遊び直せるし、遊べないという感覚を持っている子たちの遊び心が開く、そういう場面にはたくさん出会えましたし、やはり遊ぶことはすごく大事なのだなと思いました。その子のある種、人生が変わっていくっていうのですかね。そういう瞬間にはたくさん立ち会えていますね。 【出張型など、柔軟に子どもたちが遊べる環境を広げていく】 山田)冒険遊び場の未来について教えてください。 関戸さん)子どもたちの育ちはやはり待ったなしなので、こうしている間にもどんどん子どもたちは大きくなってしまうわけです。子ども時代に遊び育つということが全ての子にとって当たり前になるようにしたいというのはもちろんなのですけれど、そのためには冒険遊び場の広げ方も工夫が必要だなって思っています。 例えば常設の冒険遊び場を1か所作るには、今の日本の現行の制度の中だとなかなかすぐにはいかないです。それぞれの自治体の行政課題にうまくフィットすれば、予算がついて常設の遊び場ができるということはこれまでのケースの中にも事例がたくさんありましたが、もっと柔軟に子どもたちが遊べる環境を広げていくという視点も大事だと思っています。 今国内では、プレーカー(車)での遊び場作りというのが広まっていまして、今日の開催などもそうですが、遊びの素材や材料を子どもたちの生活圏内に持って行くのです。 山田)出張型の? 関戸さん)出張型ですね。拠点を作っても、今子どもたち本当に忙しいって言うのですかね。放課後の時間も短いですし、習い事とか塾とか、そういった大人の都合で日々の遊ぶ時間がなかなか確保できない子たちも多いので、そういう細切れの時間で遊んでいる子どもたちの家の近くの空間や、子どもたちが集まる場所ですね、そういう場所に自由に遊べる機会を持っていく。 そのプレーカーでの遊び場づくりは広まってはいるので、そういったことも含めてどうやったら子どもが遊び育てるのか、そのために冒険遊び場づくりはすごく良い手法だと思っています。一番大事なのは子どもが遊び育つという目的の部分なので、手段にあまり固執はせずいろんな形を探りながら子どもたちが遊べる機会を、遊びながら育っていく機会をもっと広めたいと思っていますね。 【子どもたちが遊ぶことで自ら育つ機会は、社会的に大人たちが保証していくべき】 山田)今後の課題はなんですか? 関戸さん)さきほどの広めたいこと、やりたいこととも繋がりますが、大人の視点を変えるっていうところがやはり急務なんじゃないかなと思っています。人材育成的なことも含めて、親や地域の大人は子どもが遊び育つということがどういうことなのかを知らないまま(だと思います)。もちろん善意があって子どものために良かれと思って様々なことをされていると思うのですが。 本当に子どもが遊び育つため、子どもが育つためには大人がどんな在り方で、その大人たちはどんな地域や場所を作ると子どもが育つのかということ(検討や実践)をもっと広げるという点では、まだ広めきれてないという状況があります。ですから、そこをもっと発信していくということが課題です。今こうやって発信の機会をいただいているので、それはもっともっと増やしていきたいなと思っています。 昔に戻そうというのは難しいと思うのですね。今の子どもたちの遊び環境を昭和に戻して子どもたちだけで路地や山、川、そして空き地を取り戻す、昔に戻すということではないです。でも確実に今の子たちはやはり都市化の影響で遊ぶ場所を奪われて、大人の都合で管理されることが多くなってきてしまっているので、遊ぶことで自ら育つという、「子どもの育ち」のベースですね、それは社会的に大人たちが保証していかなきゃいけない、そういう時代になっているのだろうという認識のもと、子どもが遊ぶ場は大人が作る必要がある時代になっています。 ただ一方、そこに「子どもの育ち」をきちんと意識して配慮しないと、大人は逆に「子どもの育ち」の阻害要因になってしまいます。手出し口出しをして、大人が遊ばせたいようにしか遊ばせないとですね、それでは子どもたちは育てないだろうなと思っていますので、自由な空間というのが大事だと思っています。 ―子どもたちが自由に遊べる、冒険遊び場を全国に広めていく、そのためにはまず大人の意識を変えていきたいー *** メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、高評価、コメントをぜひよろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門のクリエイティブエージェンシーです。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

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        生きづらさを抱えた若者たちが「My田んぼ」で変わっていく。大手百貨店の正社員からバー経営を経てたどり着いた「百姓」というマルチワーク。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 高坂勝さん(NPO SOSA PROJECT)

        高坂勝さん(NPO SOSA PROJECT、 My田んぼ) 聞き手 山田英治(株式会社 社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 高坂さん)高坂勝(こうさか まさる)と申します。 山田)どういったことをされているのでしょうか? 高坂さん)分かりやすいところで言えば都会の人たちに米を作る場所を提供することです。米作りができるようになると、ちょっとした野菜も作られるようになり、ちょっとした土木もできるようになり、DIYもできるようになります。すると生きる知恵ができるので、どんどん自分ができることが増え、イコールお金を使うことが少なくなります。 この“ザ・消費社会”というものは温暖化で、究極の言い方をすれば、紛争戦争につながってしまっています。自分でできることを増やすことによって消費を減らしても幸せに生きていける、むしろ「こっちの方が楽しいじゃん、豊かじゃん」ということを伝えていきたいと思い、米作りなどを教えています。 山田)いわゆる肩書き的なことでいうと、どういうことになるのですか? 高坂さん)一言で、最近の働き方というカテゴリーで言えば、マルチワーカーということなのでしょうね。 山田)マルチワーカー。 高坂さん)なおかつマルチワーカーというのは一種のお金を稼ぐということが含まれていると思うのですけど、私の場合はあまりお金にならないようなことで走り回っているというのがあるので、カッコよく言えばアクティビストなのでしょうけれど。 山田)そのお仕事を始めるきっかけといいますか、今、高坂さんは田んぼをお持ちということですよね? 高坂さん)そうですね。自分自身の田んぼはもちろんあります。自分が食べるお米を作ることと、NPOとして今100組くらいの方と米作りを一緒にして、やり方を教えています。 山田)(田んぼは)結構広いのですか? 高坂さん)1町歩ちょっとあるぐらいですかね。1町歩とは1000平方メートル×10(倍)ぐらいということです。 山田)なるほど。その今の生業(なりわい)を始めるきっかけは、どういった流れでしたか? 高坂さん)2004年から2018年まで東京池袋でオーガニックバーをやっていました。さらに言えば、その4年前の2000年までサラリーマンをやっていました。 そのサラリーマンの時に常に、前年対比110%っていう目標が与えられるこの世の中に、自分も疲弊していたし周りも疲弊していっていました。人口減少が進んでいく社会の中で、どう考えても売り上げを取ることは難しい社会なのに全員がそこを目指していくっていうのはおかしいのではないかと気づいて、では(経済)成長しなくても幸せになれるモデルを作ろうと考えました。 山田)僕も30年前サラリーマンでしたけど、会社側はどんどん変な雰囲気になってきましたよね。 高坂さん)そう思いますよ。 山田)バブルが崩壊して日本はなんとかやらなきゃいけない。アメリカにどんどん追随して株主の顔色を見る成果主義が流行りましたよね。どんどんギスギスして足の引っ張り合いで(自分の成果の)アピール合戦のような。「俺はこんなことちょっとしているんだよ」、「私は全部やりました」、「いやいや、みんなでやったじゃないか」、というようなことなど、どんどん雰囲気が悪くなっていった30年でしたね。 高坂さん)あれですよ。部下の成果は上司の成果、上司の責任は部下に責任を押し付ける、そういう会社になっていきましたね。 【米が作れるようになったら、もう怖いものはない】 山田)お米作りはどういうきっかけなのですか? 高坂さん)2000年に会社を辞めて30歳でした。2004年にお店(オーガニックバー)を出すのですけれど、そのインターバルの3年ぐらいの間で、1年間は世界中や日本中を旅しました。 パレスチナにも行きましたし、国内では金沢に行きました。それまで米も研いだことなかったのです。30歳まで生きる知恵が全くなかったのですね。それで友人が始めた居酒屋で働き始めました。でも友人だと甘えちゃうから、いくつかフリーターでも働いていたのです。イタリアンも作りたいなとか、魚さばきたいな思えばそういうところとか、数カ月で変わるイメージで働いていたのですよね。 こうして生きているのだから米が作れるようになったら怖いものはないなと、その時代に思ったので、いつかお店を出してお店が軌道に乗ったら、次は米を作ろうとその時に決めました。 山田)それで米作りをやろうという時に、今のこのエリアの千葉県匝瑳市(そうさし)に行き着いたことは、どういうきっかけからですか? 高坂さん)もうさんざんお店で、これから米作ろう、野菜作ろうって、みんなを促して実践させていたのに、俺は口だけ番長でやっていないわけです。俺もやりたいなと思っていました。 でもバーが週休1日で米作りに行くのはハードかなと思ったので、バーを週休2日にしたのです。いよいよ米作りをやるという時に、すでにうちのお客さんが米作りを始めていたのですが、その中の一人が、「こんなところで田んぼを始めたんだ」と言っていたのです。それは俺がやりたい農法ができる条件に近いような気がして、早速、「連れて行ってくれ」と頼みました。 次の日にお店がありましたが、日中この匝瑳まで来て、「ここはどこかもわからない、千葉県のどこかわからないのだけど、ここへ来たら自分が理想とする8割を満たしているな」と思ったのです。 理想の100%を目指していたら見つからないので、「やらせてくれ」と言ったら、「いいよ」と一言で言ってくれたので、そこから急にスコップを借りて開墾を始めて、お店が始まるギリギリに帰ったというのがきっかけです。 【米作りも料理も独学。口コミだけで税理士や弁護士も来る人気店に】 山田)開墾っていうのは耕作放棄地からですか? 高坂さん)そうですね。 山田)そうなのですか。では、その師匠はなんという方なのですか? 高坂さん)師匠は、私があえて言えばという意味ではいるのですけど、独学です。 山田)そうですか。バーに来たお客さんを農地に案内するという活動と、先ほどおっしゃっていましたけど、どんな方が来て、実際に農業をされて、どんなふうに変わっていったのかを教えてもらえますか? 高坂さん)どんな人と言ったら、もういろいろな人です。本当にうちの店には、玄関前、お店の入り口の前で6時前から下向いて待っているやつがいると、あぁ、こいつは自殺を考えてきているなというやつから、本当に明日どう生きていけばいいか分からないというやつから、生き方迷子から。 一方で弁護士さんとか税理士さんとか、世間的に見ればみんなうらやましいと思っている人などもいます。でも、弁護士さんも公認会計士さんも公務員もそうですけれど、2000年代から法律というか規制が変わって、どんどん量産されているので過当競争が激しくなっているのですね。 だから弁護士でも税理士でも食えないっていう時代も来ていて、その中で特に社会派の弁護士なんて、夫婦の離婚の調停とかそういうことで日銭を稼ぎながらも、いろいろな社会運動なんか、お金にならないじゃないですか。 そういう人が田んぼをやりに来たりしています。もうピンからキリまで年齢も10代から70代までですね。 山田)高坂さんがされているバーが有名だから、こうやって集まっちゃったのですか?たまたまノックする人がそういう人が多かったのですか?どうして集まってきたのですかね? 高坂さん)最初は口コミですね。昔はお店を始める時には八百屋や鳶職でも畳屋でも大工さんでも別に広告なんかしなくてって、商売になったわけじゃないですか。そうだとしたら、ちゃんとしたまともなことをやれば、自分が生きていけるくらいの売り上げにはなるという何の根拠もない想定です。 でも昔の人ってみんなそうじゃないですか。かつてみんな生業をやっていた人達は、何か大きくテレビCMを打って、といったことをしなくても、八百屋は八百屋で食っていけていたのだから。そこにニーズがあれば自分一人、もしくは家族を食わせるくらいのものはやっていけるはずだと。それにはただ現代社会においては、少しとがったり絞り込んだりとか、多少の戦略は必要ですけれど、ちゃんとしたことをやれば、ちゃんとお客さんはつくと思ったのです。 今はなくなっちゃったのですけど、この宿や今日ご案内する自宅もそうですけど、落ち着く空間を作ることにはすごく気を遣ってきたというか得意というか。もちろん料理もですけど、家に来たら絶対にまた来たくなるという店にしたのですよね。 山田)そうするとお酒が売りというよりは、お食事も売りということですよね? 高坂さん)そうですね。一回来たらまたここは来たいなと思わせてしまえば、もう口コミ力で行けるので、一人来ればそれが二人になり、その二人がまた連れてきて四人になるっていう、その戦略だけですね。 山田)料理も独学ですか。 高坂さん)はい。 山田)お米作りもとおっしゃっていましたけれど、料理もそうして人を呼び寄せるまでいったというのはすごいですね。 【38年間ひきこもりの人も、米作りを通してNPOスタッフに】 山田)リピーターも増えて売り上げも上げ、「やばい、稼ぎ過ぎた」と言ってお米もやり始め、そうしたら「お米作りをやってみたい」という人がいてやり始めたと。それでやった結果、みんなはどうだったのですか? 先程、自殺したいとか、ある種の生きづらさを抱えた方も多かったと聞きましたけれど、そういった方がやり始めてどう変わっていったのでしょうか? 高坂さん)まず今年も26組が新規で入ったのですけれど、16組が来年も続けるのですよ。初めて米を作った人たちが毎年3分の1から半分以上の割合で、また来年もやりたいと言います。(その理由は、)特に畑ではなく、畑でもいいのですけど、田んぼはドロドロだから、人間の本能なのかなと思うのですね。それだけ土に触れられる居心地の良さがあると思います。 山田)そこから卒業して実際に、田んぼの農家さんになるのですか? 高坂さん)農家、それから地方移住です。 山田)高坂さんみたいな生業ということですね。高坂さんの中で印象的な人はいましたか? 高坂さん)山ほどあり過ぎて、誰かと言えないというか。 山田)今はひきこもりの方が146万人と、すごく多くいらっしゃるのですけど、本当に生きづらさで、もうずっと家の中で自分を責め続けている、ずっと苦しい状況が続いているという方が多いです。 でも、何かちょっとした同じような境遇の方にお話することで、少しずつ社会に出ていく。そこで農業に触れて土に触れて、農作業は一人の作業が多いから人と会う必要がないし、僕もそれならやれるという感じで農業をされる方がたまにいるのですけれど、そういったひきこもりの方とか、生きづらさを抱えた方もいらっしゃるのですか? 高坂さん)もうそれは、もう山ほど。まぁ生業っていうよりは今一緒にここで、 DIYを中心にやっているやつも38年間ひきこもりだったのですね。 山田)そうなのですか。 高坂さん)お兄ちゃんが私の主催する米作り体験の「My田んぼ」を申し込んでくれて、弟が30何年間ひきこもっちゃっていて、出てくるきっかけにできないかって、随分重い課題を果たせられたのです。 彼が田んぼに来ていて、そんなに全然ひきこもりという感じじゃないので、なにかと声を掛けて、今うちのNPOスタッフをやっています。ここでも一緒にDIYなどをやって、彼らしく生きられるようにと。 別の方で、パニック症の方もいました。パニック症って人が攻めてくるように、攻撃してくるように感じちゃうから、電車も乗れないしエレベーターも乗れない。 その子のお父さんお母さんが田んぼを7、8年やっていて、「息子がこうなっちゃったから、高坂さんどうにかできないか」と言うので、ちょうど抵当物件だったログハウスがあったのでそれを買い、ゴミ屋敷になっていたので、うちのスタッフと直しました。都会で人が怖くて住めないのだから、田舎に来るしかないじゃないですか。 それで彼は来て、今ソーラーシェアリングの仕事とか、いろいろな仕事をマルチワークでやっています。今でも知らない人に囲まれるのは怖いけれど、知っている人だったら大丈夫ですので。 山田)すごいですね。いろんな生きづらさがありますよね。発達障害のようなケースや、生きづらさが世にどんどん現れ始めていて。ひきこもりの件も、その本人が悪かったというよりはむしろ社会ですね。例えば、管理教育が厳しいとか。親が子供に価値を押し付けるタイプで、それが辛くなってとか。結局周りの物差しが間違っているようなところで、追い詰められているような。 高坂さんされているのはつまり資本主義の側に対してですよね。物差し側に対する問いかけから始まった活動故に、そうじゃない生き方とか、働き方とか生業があるから、救われるというか自由になれるというか、そんなところもあるのですかね。 データがあって、都会の子と田舎の子で自然に触れられる時間でいうと、都会の子の方が多いらしいのですよ。それが面白いなと思って。都会の子の方が逆に自然に飢えているから親が連れて行くなどで自然に触れる機会が多い。うちの子も都会育ちなので区が契約している棚田に行って田んぼをやるのですよ。でも逆に田舎はそこら中自然だらけだけれども行かない。川で泳いじゃ危ないし行かないですよね。そういうデータがあるらしいですね。 高坂さん)思い返してみると、私も横浜の隅っこで裏が山で、あと小学校にも山があったので、ドロジュンとか、町によってドロケイとかいろいろな言い方あるだろうけど、走り回って転げ落ちて年がら年中泥だらけになったじゃないですか。俺もいじめられっ子で、どっちかというと運動神経はいい方じゃなかったですけれど、それでも走り回ってやっていましたよ。 山田)やっていましたよね。 高坂さん)今、都会でも田舎でも、子供が山の中で走り回っている姿を見ないですものね。 山田)そうですね。たき火とか、やっていましたよね。でも、今は「危ない、ダメ!」と言われるし。 高坂さん)野球やサッカーもしちゃいけない。意味がわからないですね。 山田)騒ぐから公園作るなとか、もうかわいそうで。 【怒りが原動力。「百姓(マルチワーク)」で暮らしていけると伝えたい】 山田)高坂さんにとって、最初に勤務していた百貨店の丸井を辞めてから今に至るまでの原動力はなんですか。でもストイックにならなければいけないところもあり、何か犠牲にしているかもしれない、そのあたりの原動力は何なのですかね? 高坂さん)原動力は怒りですよね。 山田)怒りですか・・・ 高坂さん)この世の中に対する(怒り)。今だったらパレスチナに対するイスラエル。もちろんハマスを応援している訳じゃないですよ。やはり社会人の時代の理不尽などから始まり、今の与党からこの経済界のやっていることから。 まさに子供たちのいじめから、構造的な資本主義のパワハラに対する怒りですね。 それに対して例えば自然エネルギーは不安定ですから、質素に慎ましく生きる、私はそれでいいのです。私は米も作っているし、電気も作っていますから私はそれでいいのです、って言えるのです。 でも世の中の人はみんな(それが)できないわけじゃないですか。そうだとしたら、自然エネルギーでも今と変わらないぐらい幸せを得られるんだよというモデルを作っていくことは、その怒りをそちらの方に転換しているということなのですよね。 山田)怒りがベースにあるけれども、まず作っちゃえというポジティブエネルギーですね。 高坂さん)こっちの方が楽しいのですよ。資本主義で毎日買い物に行って、その買う物を買うために、夜10時11時まで働いて、余った時間でまた買い物して。「そちらの方が不幸じゃない?というか矛盾してない?」、そういう問いかけがあります。でもこちらで「そうは言ったって」という時に、「だって俺やっているじゃん。俺のまわりはやっているよ、あいつはやっているよ」と、モデルをたくさん散りばめていけばいいと思ったのですよ。 山田)「こっちの方が楽しいぜ、おいでよ」、というのをどんどん作っていこうという感じですよね。 *** メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、高評価、コメントをぜひよろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門のクリエイティブエージェンシーです。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

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          「大赤字のローカル線はなくなって当然?」採算以外のローカル線の価値を定量化し、最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 中原晋司さん(中原水産)パート2

          中原晋司さん(中原水産株式会社 代表取締役)  聞き手 山田英治(社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 中原さん)(ローカル線を存続させる)対策としては、まず“鉄道の価値”とは何かというところを、地元と私も含めて押さえないといけないかなと思っています。単なる採算、鉄道の運輸収入の採算だけであれば、どこのローカル線も大赤字ですよね。とっととなくすべしみたいな。それは論理的に正しいと思うのです。 ただ、私がやっていて、例えば指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)に鉄道が走っていることによって、結構メディアに枕崎が紹介され、(その紹介では)鉄道に乗ってというものがあり、それこそ広告に換算すると、結構な額になるということが分かりました。 それから、その鉄道で来た人がお金を落としていく経済効果など、その地域のためのいろいろな効果もあることから、鉄道は広告塔のような形になります。これを無視して、単に鉄道に乗っている人が少ないという理由で(廃止せよ!で)はなく、こうした効果を含めて地域が支えていくという姿勢があれば、存続ができるのではないかと思ったのですよね。 そのため、逆にその価値が見えないまま地域が支えることもできないため、やはり価値を定量化し、わかった上で地域が支えるのか、支えないのかというところに持っていくところに意味があるのかなと思っています。 【地域総力で公共交通のアイデア出し。住み続けられる町づくりのために】 山田)昨日、イベントに参加させていただきましたが、どういった趣旨でされていたものになるのですか? 中原さん)鹿児島県の指宿や枕崎がある南薩エリアを所轄する南薩地域振興局の事業です。やはり県も危機感を持って公共交通として鉄道をどうするかというところで、地元が支えないと駄目だという仮説を県も持っていらっしゃるみたいなのですね。 それをワークショップという形で4回会議して、地元の鉄道の活性に興味があるような住民の方々に具体的なアイデアを出してもらい、現状を伝えるということを事業としてやっています。その事業の受託・運営を中原水産が任せていただいたということです。 山田)昨日、僕も参加させていただきました。住民の方がいろいろな電車のアイデアを出してワークショップをしていて、すごく盛り上がっていましたよね。 中原さん)今までは、どう住民が関わっていいのか分からないという状態でした。住民も仕事があり、いろいろなことがあります。鉄道会社に対しては、行政と鉄道会社がどうするかという活性化策は出していたのです。しかし、やはり行政の人は商売しているわけではないため、商売している人や地域で普段、鉄道に接する人たちも含めて、どうしていくのかということを地域総力でやらないと、なかなか充実してこないのですよね。 そのため、そういった意味では、ありそうでない会議といいますか。地域住民が主体となり、行政の方とJRの方も次から次へと意見を出してきました。やはり地域住民が真ん中に入ることによって、より(意見が)出てくるのかなというところをすごく感じました。 山田)昨日もそうですよね、JR九州の方と県の方、市の方、そして地域の方。そのメンバーで地域鉄道をどうする?みたいな話というものは面白く、いい会だなと思いますね。 中原さん)やっぱり地域住民一人一人が力を合わせて盛り上げていかないと、たぶん、到底無理ではないかという状況なのですよね。 山田)なかなか地方に行くと、枕崎もきっとそうだと思いますが、車社会で、もう全然電車に乗らないよと。別にそれが廃線してもしなくても関係ないのでは?という方もかなり多いと思うのですが、こちらはどうでしょう? 中原さん)車でいろいろなところに行くのは便利なのですが、私がすごく心配なことは、運転できなくなる、もしくは何かの事情で運転できない人というのはいると思うのです。その人たちにとって住み良い街ではなくなった瞬間に、都会の公共交通が発達するところに、たぶん移住せざるを得ないという状況になっていると思うのですね。 今、例えば車利用で普通にガソリンを入れて運転していますけれども、世界の状況が変わっていって、ガソリンがもしなくなったら、車社会ができないではないですか。そのため、何かそういうものもひっくるめて、町として公共交通が充実しているということは、一つの町の便利さの指標になると思っていて、今ある世の中が当たり前だと思わない方がいいなと思っています。 もちろん車社会を享受しながらも、そうではない、もうちょっとコンパクトな町を作る。CO2を廃止するという問題もありますので。公共交通はクリーンなものが多いため、できるだけ環境にも優しいような世の中にしていくためには、ローカルの場所・田舎の場所でも考えていく必要があるのかなと思っています。 山田)電車に乗れないから電車をなくしてしまいました、そして、バスになりました。今度はバスの運転手が不足して担い手がいないため、大変だということを聞きますよね。減便になって、バスも走らない。タクシーの運転手もいなくなる。相乗りにしますか、など。そのため、何がこの地域にとってベターかということはみんなで話しつつ、残されるものは多様な選択肢を残しておくということですよね。 中原さん)そうだと思います。その鉄道を必ずしも残さなければならないという思いでやっているわけでは実はないのです。鉄道は一つの手段で、広告塔として、私はすごく価値があると思っているのですが、移動手段としては、やはり大量輸送のため、人口が少ない中で、鉄道だけがベストかというとそんなことは全くないのですね。 その町づくりの中で、例えば鉄道をその広告塔として使えるのであれば、観光客を誘致したりして、他のいろいろな移動についてはタクシーやバスがある中で、今後の自動運転やライドシェアもひっくるめて(考える)。技術はどんどん革新していきますので。もしかしたら今、例えば空飛ぶ車などが実用化されようとしていますが、ヘリポートみたいな場所があれば、枕崎から鹿児島までたぶん10分とかそこらで行けるのですよね。 それが安い値段でできるとしたら、枕崎の価値があがるでしょうし。それもひっくるめて、視野を広くして、移動手段というものを地域が意識しておくということはすごく大事かなと思います。 公共交通というのは、移動手段なのですよね。やはり一番根本にあるのは、町をどうするか、町づくりをどうするかという話で、これからどんどん人口も減っていくため、いろいろなインフラを地域の各所に隅々まで行き渡らせることはたぶん無理だと思うのです。そうした中、一度住んだ家に住み続けたいという思いもある中で、町づくりとして最適なものは何かを考えることですね。 枕崎は本当にコンパクトな町であるため、ある程度、市街地に集中させて病院や買い物が充実できれば、歩いていけると思います。ポテンシャルがあるため、それに参加できる人はすればいいのかなと思います。その中で、その町の中の移動手段と、例えば鹿児島市みたいなところとの移動手段というものを主体的に考えていくことが必要なのかなと思っています。 【「大赤字なのにノスタルジーで残すな!」という声も。でも最後に決めるのは地域】 山田)中原さんは今、全国で同じように廃線の危機に陥っているローカル線のいろいろな協議会にも参加されるなどで、意見の共有をされていると思うのですが、当事者の方たちと定期的にお話しされているのですか? 中原さん)そうですね、やっぱり現場のローカル線に行って、そこに関わっている人たちとの話し合いをしたりしています。最近はこうした人同士で、いろいろな連携が始まっていて、サミットのようなものに参加しています。 あと私たちも、南九州の宮崎県や熊本県のローカル線のJRの方たちと一緒に情報交換をオンライン上で始めています。ちょうど人吉の肥薩線での水害の1、2日ほど前にオンラインミーティングをしました。人吉が水害を受けた時にお手伝いをするなど、人的な支援や知恵の共有を始めております。 山田)全国でも廃線はしょうがないかなと地域住民が思う中で、それに対して「いやいや、違う価値がちゃんと地域のローカル線にはあるぞ!」というところで立ち上がられている方がいらっしゃっているということですよね? 中原さん)いると思います。あとは、理論武装みたいなところがまだ発展途上かなと我々も含めて思いますね。やはりどうしても誤解されるのが「こんな大赤字なのにノスタルジーで残すな!」みたいな声は、もうごもっともなのですよ。 しかし、やはりさっき言った広告効果や地域に残す価値というのは、地域が決める話です。例えば、何かを維持することに費用がかかります。それに対してメリットが上回れば、残す価値があるという話なのですが、それを決めるのは各地域なのですよね。 そのため、その地域が判断する材料というものについては、まだまだ研究の余地があるかなと思っています。指宿枕崎線で今回のワークショップでも、いろいろな効果や価値をなるべく文字や数字で出すようにしました。それをどんどんブラッシュアップしていって、地域がいろいろ判断するための材料を作っていきたいなと思っていますね。 【指宿枕崎線と地域の価値を最大化するためのキーワード 「マイレール意識」】 山田)今、指宿枕崎線は残す価値があるということで、中原さんは活動されていますが、それは具体的にどういった価値になるのでしょうか?先ほど、観光的な価値という話がありましたが、そういったところですか? 中原さん)やっぱり観光的な価値はあるなと思っています。例えば特に景色やグルメ、おもてなしみたいなもので、もうちょっと単価の高い商品・サービスを提供できると思っております。本当に少ない人数でやった場合でも、単価が高くて、それでちゃんと運営が回るみたいな状況に持っていければ、それ自体が観光価値のような事業にもなりますし、その地域でそれだけ高額なサービスをしているという価値が上がることにもなります。 そのため、そこをまずちょっと増やしていきたいと思います。やっぱり「貨物」がキーワードかなと思っておりまして。今の指宿枕崎線というのは、実は荷物を乗せるに耐え得るような線路の基盤ではないのですよね。 そこは理解しているのですが、これだけトラック運転手不足やいろいろな問題が起こってきて、かつ、どうしても明日中に届けなければいけないというわけではないのなら、鉄道をちゃんと使って低コストに届けるサービスのようなものを作り込んでいければ、まだまだ鉄道というのは、いろいろなものを乗せられる余地はあると思っています。 何かそのあたりもひっくるめて、価値を最大化できるようなアクションを考えていくことが大事かなと思っています。 山田)あと昨日、イベントのディスカッションの中で子供たち、高校生たちを巻き込んでいきたいというお話をされていたと思うのですが、そういったことを今後考えられているのですか?主なお客さんは通学で使う高校生ですものね。 中原さん)この地域の沿線に水産高校や機械系高校、農業高校などがいろいろあります。今後、観光的な要素があることや、ものを売るなどの企画をすることが、この地域の人たちが生き残っていくための一つの大事な産業になると思っています。それを高校のカリキュラムに入れるなどの企画やプロジェクトの立ち上げを考えています。 例えば、高校生が自ら企画して、そのおもてなしまでやるということをやれば、結構いい経験になると思いますし、教育コンテンツとして鉄道が使えるということにもなるため、そこはぜひ積極的にやっていきたいなと思っています。 山田)ありがとうございます。ヨーロッパだと上下分離方式、つまり鉄道の保守の部分は、行政、国が全部管理しますから、あとの上は民間企業で持ってください、ということが一般的だと聞いたことがあるのですが、それは合っていますか? 中原さん)それは合っていますね。しかも、その上の方は結構自由に鉄道会社が乗り入れられることになっています。例えば、JR九州がJR西日本に走らせることができるなどですね。それで競争も起きているということがあります。それから国が、例えば、フランスですと「交通権」があります。 フランスは農業国であるため、地域に住んでもらわないと困るのですよね。そのため、例えばスーパーや学校、公共インフラに対しては、150円といった値段で行ける権利が認められたりしています。そのあたりは町が真剣に考えなければいけないということで、(交通の)整備をしたり、助成されたりしますね。 山田)「交通権」ですか?人権のような感じで俺は移動する権利がある、ということですね。そのためには、国がちゃんとサポートしていかなければいけない。鉄道の線路そのものは道と同じであるため、それは国が管理する。最低限のインフラという意識がちゃんとあるということですね。交通はインフラであり、それが人々の権利であるという考え方があると。 中原さん)その他、その事例でいくと、イギリスでは保存鉄道というのが100個くらいあります。結局、国も支えながら、でも運営はちゃんと給料のある職員とボランティアによって支えられていて、その給料をもらっている職員は結構ファイナンス(資金調達や運用など)に長けているのです。 例えば、クラウドファンディングだけではなく、その遺産相続からもお金を引っ張ってきて、ちゃんと(ファイナンスで)稼ぎながら、ボランティアもうまく活用している。結構、日本のローカル線の支え手にはボランティアが多いのですが、有給職員がファイナンスしているなどということはないですよね。 そのため、お金の集め方とかそういうこともあると思うのですよね、結構ね。ですので、そのあたりが発達してくると生き残れるものは生き残れるのではないかと思います。何か価値の見える化という観点では、広告効果のような定量化できるものがありますが、自分達の「マイレール意識」は(定量化が)なかなか難しいですよね? 山田)「マイレール意識」ですか。 中原さん)自分たちの鉄道だからやはり大好き、そのため掃除もする、草刈りもするといったような。そうした意識も活用していかないと厳しいと思うのですよね。それだけに頼っているとダメですが、やはり取り入れていかなければいけないということで、そのバランスをうまくやれるといいかなと思います。 山田)「マイレール意識」、なるほど。「マイレール意識」を持つ人がそれぞれのローカル線の中で増えていけば、鉄道も守られる可能性が上がってくるという感じですか。 中原さん)枕崎は結構クラファン的な意識が実は結構あリます。例えば、みなと祭りにあがる3尺玉という花火が何百万円もするのですが、全部市民の寄付によってなされているのですよね。枕崎のため、枕崎を盛り上げるためだったらお金を出すのですよね。この駅舎もそうです、市民の寄付でできているので。 山田)そうなのですか。 中原さん)そのため、“枕崎プライド”みたいなものはすごくあるのですよ。それをちょっと鉄道に振り分けていただければ。やはり鉄道で最南端とは(なかなか)名乗れませんし、稚内からユーチューバーがわざわざ終点のために枕崎に来るのですよ。もうそこまで、ネットの効果まで入れたら、とてつもない経済効果だと思うのです。つまり、そこを理解すれば、鉄道を残したいという気持ちが高まるはずなのですよ。 山田)枕崎の“ポテンシャル力”というのを知らなかったですよね。お茶が実はすごいぞとか、あとカツオの売り上げが日本で・・・ 中原さん)カツオの水揚げが2位で、かつお節は日本一。黒豚の一番はじめのブランド豚は枕崎です。 山田)鶏刺し地鶏や焼酎の酒造メーカー、大手酒造メーカーもあり、それを鉄道に持ってくれば、絶対にすごい観光列車はできて、その観光客も誘致できるのではないかと思います。 中原さん)ワイントレインというのがアメリカのカリフォルニア州のナパバレーというところにあります。ゆっくりブドウ畑の横を走って、列車の車内では美味しいワインと食事ができて、かつ駅のすぐ隣には醸造所があって、そこにも行けるという感じで、それって町づくりですよね。例えば今、指宿枕崎線の沿線に芋畑やお茶畑はそれほど見えないのですが、あえて植えるという感じにするなど。 また、指宿枕崎線沿線で駅からすぐ行ける蔵もあるのです。ちょっと遠くても、アクセスをちゃんと整備することです。枕崎の強みというのは、食べ物であれば、どこでも食べられるのですが、作っている現場というのは、現場でしかできないため、そこにいかに来ていただくか、という点が大切だと思います。 山田)ちょっと楽しみですね。中原さん、今後、1、2年の間でなにか予定されていることなどありますか? 中原さん)予定としては、イベント列車を実現化したいなというところで、私は、“焼酎列車”というのを提案しています。それを何らかの形で、実際に走らせることをしたいなという感じですね。 山田)それは鹿児島中央からもう飲み始めるということですか? 中原さん)鹿児島中央からか、指宿からか決めなければいけないのですが、少なくとも3時間飲んだとしても全然いけるような内容にしていきたいと思います。 山田)それで、そのつまみにはあれですか。枕崎の名物がどんどんつまみで投入されると。 中原さん)そうですね。かつおやお芋など、いろいろなお漬物や沿線の枕崎近辺のものを出していければいいかなと思います。 山田)最後のシメは、かつお節の出汁ですか? 中原さん)出汁のドリンクも出したいと思っています。 【ローカル線を考えることで、より人間らしい、より良い生き方の選択肢が生まれる】 中原さん)私は、ローカル線のあり方について考えることはやはり、社会問題として考えることでもあると思っています。日本人は結局、経済的な豊かさを求めて都市部に出て行ったわけですよね。でも(都市部は)環境問題があるなどの点から、日本人が今後、小都市や地方で暮らしていくというのは、一つの選択肢としてあります。 環境にいいことをしているという点では、地方の枕崎はかつお節だって全部リサイクルしていますし。何かいいことというのは、結構地方にチャンスがあって、一人間として関わるのであれば、たぶん地方はそういうことができると思うのですよね。それを世の中に発信していくべきだと私は思っているのです。 ただ、その一方で、経済的に過疎化が進んでしまったがために起こっている、特に公共交通の問題を解決しないと、やはり都市部に流出するような形になります。今後、日本人が多様な生き方をしていくにあたって(地方交通のあり方について考えることは)一つの大事な問題だと思っています。それを解決することで、日本人がより人間らしい、より良い生き方をするという選択肢が生まれるかどうかの瀬戸際だと思っています。 残念ながら、地方にはこういうことを考えられる人が少ないのですよね。ローカル線でもやはり何か束になってまとめて考えるなどしていかないと、なかなかその活動を維持するだけでも大変なので。もう衰退しかかっている瀬戸際ですので、こうやって取り上げていただくことは非常にありがたいことですし、(地域交通のあり方について考える)人たちを増やしていかないといけないと思います。 *** 中原晋司さんインタビュー動画 パート1はこちらです。 https://x.gd/pYSlf メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、高評価、コメントをぜひよろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門のクリエイティブエージェンシーです。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

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          3才から愛読書は時刻表!ラ・サール、一橋大、マッキンゼー、ベンチャーから家業の水産会社へ。その経験を活かし最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 中原晋司さん(中原水産株式会社)パート1

          中原晋司さん(中原水産株式会社 代表取締役) 聞き手:山田英治(社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 中原さん)名前は中原晋司と申します。仕事は、かつお節の商品を販売する仕事をしております。 山田)中原さんは今、中原水産という、かつお節を販売するお仕事をされていますが、その一方で、鉄道のJR九州「指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)」のブランドコンサルというローカル線を盛り上げる活動もされています。それは、事業としてやられているのでしょうか? 中原さん)うちは、水産会社ではあるのですが、鉄道事業部門というものがありまして、「南九州鉄道プロジェクト」という事業名で活動しております。 山田)水産会社が鉄道事業ということは、あまり聞いたことがないのですが、なぜ、そういったことをされているのですか? 中原さん)一つは、会社の理念として、地域課題に関するいろいろな課題を、事業で解決するというものがあります。水産関係が本業だったのですが、鉄道をはじめとする公共交通というものは、その町をつくる上で欠かせない手段です。移動手段というものがなくなってしまうと、町が衰退してしまうということで、それで事業に取り組んでおります。 鉄道の中で、例えば線路を敷いたり、車両を運転したりすることではなく、運転をする上で、例えば、いかにお客さんを呼んでくるか、その鉄道を使ってどういう催しをするのか、物販などのサービスをどうするのかということですね。その部分に特化して、携わっているという感じですね。 やはり日本の鉄道の端っこ中の端っこ、最南端の路線ということで、誰か途中で通るわけではなく、枕崎に来る目的がないと来ない路線です。そのため、多分、日本の中でも最北端、最南端といったところが一番ハードルは高いと思っております。 多分、放っておくと、もう誰も利用しなくなり、鉄道というものは廃線になると思います。けれども、まだ価値がいろいろあるのではないかということを、ちゃんと理解した上でその価値を少しでも上げる活動していきたいというふうに思って活動しております。 【3歳から愛読書は時刻表、中高大から社会人まで乗り鉄】 山田)元々こちらのご出身だと思うのですが、どんな子供時代でしたか? 中原さん)私は枕崎で生まれ育って、小学生まで枕崎にいました。実は3歳の頃に、愛読書が時刻表になっておりました。その時に覚えていることで、路線図が時刻表には書いてあるのですが、枕崎というものは最初のページで一番端っこにあるのですね。 そこから北海道の稚内まで線路は繋がっているのだなということを思い描きながら、いつも時刻表を枕にして寝ていました。どの列車を使って、どこまで行くという旅行計画のようなものを3歳ぐらいから作っておりまして、かなり鉄道が好きです。写真や模型というよりも、旅行計画を作って乗るということが結構好きな子供でした。 山田)元々好きだったのですね、鉄ちゃんだったのですね。 中原さん)そういうことですね。 山田)なるほど、青春18きっぷなどで全国を回ったりしていたのですか? 中原さん)そういうこともありましたね。 山田)ありましたか。 中原さん)飛行機に乗り遅れて、その腹いせに青春18きっぷで、3泊4日ぐらいで(回り)鹿児島に戻ってくるとかですね。小学校のあと、中・高は鹿児島市内に住んでおりました。その後、大学と社会人を12年ぐらい東京で過ごすことになります。やはり中・高・大学時代や東京にいた時代には、家や大学、会社の間を同じルートではなく毎回違うルートで帰りまして、毎回、通勤・通学も乗り鉄をしていたという思い出もございますね。 山田)通っていたところはどこの中学校ですか? 中原さん)ラ・サール中学・高校です。 山田)あの、かの有名なラ・サールということですね。ラ・サールは全寮制ではないのですか?そんなイメージがあったのですが? 中原さん)通える人は通うという形でした。私は、鹿児島市内にも他の兄弟がいて、塾などの関係で枕崎から通うと公共交通がなく、鹿児島市内に住む方が便利だということで住んでおりました。そのため、自宅生ということで、路面電車で通っていましたね。 山田)なるほど。その頃は将来鉄道に携わりたいなど、どういった夢があったのですか? 中原さん)その頃は、実家の家業は水産会社で、父が2代目をしていました。私は兄弟がいるのですが、私は長男ではなく、次男でした。そのため、継がなければいけないということは多分、なかったですね。親もいろいろなことを経験して、好きなことをして、というような方針でした。 結構コロコロ変わるのですが、例えば、貿易をすることや、官僚になるなどいろいろな思いが多分あったのだと思います。 山田)官僚、国のお役人になりたい時もあったのですね。 中原さん)特に外交に興味があって、日本の国をもっと元気にしたいなど、そういうことには結構憧れていたと思います。 山田)では、枕崎の地域のためにというよりは、外の世界に出ていろいろな活躍をしたいと、その頃は思っていたということですね。 中原さん)そうですね。特に家業が、世界中から魚を仕入れて、世界中に売るということもしていましたので。その枕崎や鹿児島市内など、都会ではないところかもしれませんが、やっていることは、全世界を相手にしていましたので、そのあたりは結構、家庭の影響が強かったのかなというふうに思います。 大学に行く時に、当初は法律関係のお仕事に就きたくて、法学部を目指していました。しかし、父と話をしている中で、経済の“グローバルさ”について考えました。もちろん法律もグローバルなところはあると思うのですが、自由にいろいろな商売を仕掛けていくというルールを自分で作っていくところが非常に面白いかなというところがありました。最終的には商学部の方に行きまして、そこで経営を学ぶということを専攻しておりました。 山田)それは家を継ぐぞ!という感覚ではなくて、ですよね。自分で何かをしようということなのですよね。 中原さん)やっぱりその家を継ぐ前提ではないのですが、ビジネスをするということなど、その頃は鹿児島や地元に対しては、例えば将来的に地元に戻ってきて何かするというのが、選択肢として一つはあるという感じですね。 ただ、都会などそういうグローバルはまだ見知らぬ世界で、そこで働くということも、もちろん魅力的なため、とにかく外の世界を知ろうということで、最終的には鹿児島から一回出るということになります。 商社やいろいろなコンサルティングの会社など、大学の時にインターンをしたところでいくつかご縁があって。それが1週間だけだったのですが、非常に面白かったということがあり、コンサルティングの会社などを受けて内定をいただいたところに入りました。 【マッキンゼーとベンチャーの経験活かし、家業の水産会社を再建】 山田)それは何という会社に入ったのですか? 中原さん)マッキンゼーアンドカンパニーという会社ですね。 山田)インターンの時は、コンサルの何に感動したのですか? 中原さん)何か物事についていろいろな人があるべき姿など、そういうことを考えること、頭を働かせることにすごく感動しました。私も結構、理屈っぽくて、「なぜ何君」と昔、子供の時に言われていて(笑)。「なぜ」を6回ぐらい多分聞いていて、うるさいみたいな感じで止められていたのです。 けれども、逆に「なぜ」ということを、マッキンゼーの人には、6回ぐらい訊かれているのですよね。そのため、そこは自分がやっていた得意なことが、もしかしたら仕事になるかもしれないということがありました。 すごいことはやっぱり、物事の正しい結論を出すということに対してあまり年齢などは関係ないということです。もちろん経験のある人はその経験をお話してくださるのですが、どんな新入りにしても事実をちゃんと積み重ねて結論を出す、というやり方にすごく感動し、短期間ですごく成長できるところだなと思いましたので、その会社に入りました。 山田)マッキンゼーといいますと、世界有数の会社だと思うのです。イメージとしては、ものすごく過酷な、競争社会といったイメージがあるのですが、会社の働き方などそのあたりはどうでしたか? 中原さん)やっぱりすごく厳しいというか、短期間で診断して、それで解決策をやるというところまで持っていかなければいけないため、はっきりいって期間が短いなどということは言い訳になりません。お金をいただいて仕事をするためにものすごいプレッシャーの中で、何とか価値を出そうと、すごくもがいたという形で、そこが非常に良い経験だったかなと思いますね。 昔はやっぱり本当に寝る暇もなく働いたというイメージがありますね。やっぱりそこまでしないと結果が出ないというところで。マッキンゼーに4年半くらいいましたね。 山田)辞めてしまったことは、辛いわけではなかったのですよね?すごく楽しく刺激的で、学びのある日々だったわけですよね。マッキンゼーを辞めたのはなぜなのですか? 中原さん)ちょっとその頃に、自分の将来といいますか、地元に戻るのかなど、いろいろと考えている中でした。コンサルティングの会社というものが、すごく価値があることを私は知っていると思うのです。ただコンサルティングは当事者ではないのですよね。やっぱりクライアントがいて何かをやるということは、クライアントさんがやるということなのですよね。 そのため、そういう意味では、自分としてはコンサルティングのような仕事もすごく好きなのですが、最終的には自分が主体となってやりたいという気持ちがあります。またコンサルティング(をする場合)も、大企業を相手に短期間で実施する話のため、大きなビジネスの中でほんの一部かなと思っていてですね。やっぱりもっと他のいろいろな経験をしないと、トータルとして自分が成長しないというところがあったと思います。 そのため、それを機に全く違うところに転職しました。ゼロイチでやってみたいといいますか、その起業というところをやってみたいという気持ちがありました。そこで、2つか3つぐらいの事業を立ち上げることに関わりましたね。例えば、3年間でこれだけのお金を用意するから、これだけの事業を、これだけのスピードで成長させるといったことを実験的にやった会社なのですよね。 山田)その後に、どういうきっかけで実家を継ぐことになったのですか? 中原さん)実家はですね、私が大学生の頃はいろいろな失敗もありながら、事業としては順調だったのです。やっぱり環境の変化ですね。その昔やっていた商売というのが成功パターンではなく、逆に足を引っ張るというのですかね。赤字になってしまいました。特に加工部門が非常に赤字で、作れば作るほど赤字という状態でした。 それまで得た利益というのはあったのですが、それをもう食いつぶして会社の存続に影響を及ぼすというような状況になっていました。それを私も2社の会社に勤めながら、会社の財務状況というものは見ていましたので。 これは多分ほっておくと、ちょっと先が短くて下手すると倒産してしまうということがあるため、その時に、自分としてできることはないかと思いました。もともと、地元に戻って何か仕事をするということを考えた時に、やはり自分が戻るということが一番いい選択だろうということで、それで戻ったという感じですね。 私はどちらかというと加工品みたいなものを、そのベンチャーの時にもやっていましたので、そのあたりで活路が見出せるのではないかということで戻ったという感じです。 山田)そうなのですね。 中原さん)東京で2社経験したのですが、その経験を非常に活用できました。最初にやったことが無駄の削減、コストの削減ということです。筋肉質に「まずはやる!」ということなのですが、それはマッキンゼーでいっぱいやっていました。そのため、額や規模は違うのですが、どういうふうにすれば(無駄やコストが)減っていくのかというノウハウのようなものはあったため、そこでは論理的にその会社を良くできるのです。 ただそこから先はですね、やはりベンチャーの経験が生きていて、いろいろなことを絞った結果、新しい事業を生み出していかないと中小企業は生き残れないということに気付きました。そこで、どこの部分を活かして、どこの部分を終わらせるかというところの取捨選択をしながら(取り組みました)。 元々加工部門で工場を持っていましたが、そこは作れば作るほど赤字だったり、大ロットだったりしました。稼働することが最優先になってしまって、少量多品種の商品を作った方が本当はいいという仮説があったのですが、なかなかそれができなかったのです。何でも(元々のやり方は)思い切ってやめて、そういう少量多品種にするために他のところに作らせて、そこから仕入れるという形を取りました。 それが実は2社目の会社のオーナーが得意とした手法だったのですよ。産地を使って、(自社工場では)ものを作らない企業という形ですね。当時は何をやっているか分からないと言われましたけれども、そこが決め手になって何とか再建ができたという感じです。 【駅舎消滅をきっかけに指宿枕崎線の企画をSNSにアップ、夢のイベントが実現しビジネス化!】 山田)またちょっと話が戻りますけれど、地域の「指宿枕崎線」を盛り上げる事業に参画するきっかけは何ですか?中原水産としてのビジネスの本丸の部分といいますか、そこが見えてきた中で、地域のためにやってみようかという流れなのですかね? 中原さん)そうですね。元々の鉄道とのかかわり合いはですね、14年前に戻ってきた時に一つの衝撃的な事件・状況がありました。枕崎の駅舎がなくなっていたのです。今あるのは、最近できた最新の駅舎なのですが、その前に、枕崎というのは、もう一つ南薩鉄道というのが走っていて、立派な駅舎がドンと鎮座していて心の拠り所みたいなところだったのです。 けれども、再開発がありました。今は駅舎の奥にスーパーがあるのですが、そこの駐車場だったところが元々は駅舎だったのですね。再開発で、そこは結局解体されて更地になり、線路も切られて駅舎もないと。本当にホームだけという状況があって、愕然としたのですよね。 “最南端”の駅と名乗ることはそんなにないのですが、それがなくなっていました。物事というものは、何もしなければなくなり、活用できなければなくなるのだなと気づきました。 駅舎もなくなっていくし、線路がなくなっていくかもしれないと、その時すごく危機感を覚えたのですね。そこで、地元に戻って再建もしながら、SNSに「指宿と枕崎の間に特急列車を走らせたらどうなる?」というテーマで、ダイヤまで含めてどんなことをするかなどを書いて、アップしたのですよ。 そうすると、枕崎市役所の方と、指宿の観光協会の会長の目にとまって、この駅舎が新しくできることになったのです。その時に、記念列車を走らせるのですけれど、その中で何かやってみないかというのが枕崎市役所職員の声でありました。 指宿もやっぱり、指宿までは観光列車が来ておりますが、そこから先が難しいのです。南薩地域は、このあたりに訪れた人を滞在させて指宿に延泊してもらうことが目標だったらしいのです。じゃあ、その妄想の列車を現実化してみないかということで「夢たまプロジェクト」というのができたというわけです。 山田)そうなのですか。「夢たま」の名称はどこからきたのですか? 中原さん)枕崎まで観光列車「指宿のたまて箱」を走らせる夢を実現するということで、「夢たまプロジェクト」なのです。 山田)その特別列車、記念列車では、「その中のことをやっていいよ」と言われて、具体的にどういうことやっているのですか? 中原さん)大体1年に一回、十何年前くらいに、最初は「指宿のたまて箱」を枕崎に引っ張ってくるというものがあって、その中で何を振る舞うか、着いたら何をするかという企画の実施のようなことをかなり任せていただきました。その列車の中で、かつお節を使った飲み物を展開したりしました。 枕崎駅について30分くらい時間があるのですが、その間に枕崎の牛、豚、鳥や魚などを選べる丼ぶりや、デザートも選べるようにしました。枕崎のグルメの懐の広さを表現するようなお弁当などを駅で展開したりしたのです。 あとは七夕の時期に七夕列車というものを走らせました。私は彦星ではなく、「ひこ出汁」という彦星のコスプレをして、皆さんを自分のお店に連れていって、カラフルなそうめん・天の川そうめんという出汁のおいしいそうめんを振る舞ったりしました。 その後、港祭というのが同時期に開催されているのですが、そこで花火を見られる指定席に座っていただいたりしました。つまり、列車の移動中に何をするかと、着いてからどうするかということを考えて、それらの企画と実施にかなり携わったということなのです。 このイベント列車をやった時に、実際お金をいただくなどして、これは仕事になるなと思ったのですね。やっぱり飲み物を提供するだけではなく、何かサービスを振る舞ったとしても、それがお金になるのでしたら、私たちは水産会社ですが、この鉄道を活用して事業になるなという思いがありました。 あとですね、マッキンゼー時代に、実は鉄道会社様がクライアントだった時があって、いろいろな、例えば鉄道会社の収入を増やすために何をしたらいいのかと言ったことでリサーチを設計するような経験もあったのです。ただちょっと途中で体調を崩して離れることになってしまったので、ちょっと心残りがあったのですよね。 そういった経験もあって、こうしたイベント列車だけではなく、鉄道の価値をちゃんと定量化したりしました。あとは、地元を巻き込んで、何かムーブメントを起こすことは、マッキンゼー時代などに結構やったことがあるため、それを活かせられないかということで、事業化を模索したという経緯がありますね。 一番、大きなミッションは、この「指宿枕崎線終点の枕崎市」ですね。この町が発展しないと、やはりその中の地場の産業として生きている我々としては、会社も発展できないということがあります。 この町をどうするかということの中に、その移動手段として鉄道があって、そこに関与することで、自分たちの会社も伸びていくし、町の人たちも伸びていく。市民も潤うし他の企業も伸びていくという形です。枕崎の人たちが元気になれる活動をすることが会社のミッションだということで、鉄道事業もやっております。 中原晋司さんインタビュー パート2へ続きます。 https://note.com/shakainoad/n/n372ede78704a 中原さんパート2の動画はこちらです。ぜひ続きをご覧ください! 「大赤字のローカル線はなくなって当然?」採算以外のローカル線の価値を定量化し、最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメント中原晋司さん パート② https://x.gd/tHbOi *** メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、いいねボタンをどうぞよろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門のクリエイティブエージェンシーです。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          3才から愛読書は時刻表!ラ・サール、一橋大、マッキンゼー、ベンチャーから家業の水産会社へ。その経験を活かし最南端のローカル線の活性化に挑む。ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー 中原晋司さん(中原水産株式会社)パート1

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          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「希死念慮を抱えていた若者達が田舎のシェアハウスで元気を取り戻していくその理由は?」能登大次さん (NPO法人山村エンタープライズ)

          能登大次さん (NPO法人 山村エンタープライズ 人おこしシェアハウス運営)  聞き手:山田英治(社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 能登さん)NPO法人、山村エンタープライズ代表理事の能登と申します。岡山県美作市の中山間地なのですが、7年半前からひきこもりや不登校など、いわゆる生きづらさを抱える若者たちが全国から集って共同生活をすることや、地域のいろいろな活動を通して社会復帰を目指すためのシェアハウスを運営しております。 山田)『人おこしシェアハウス』はどういうきっかけで誕生したのですか? 能登さん)私ども元々は、福祉畑の人間ではなく、総務省がやっている地域おこし協力隊という事業で美作市に移住をしてきました。美作市と一緒に地域おこしの活動をしており、その一環で、とにかく使われてない田んぼやおうちなどがすごくいっぱいあることを知りました。そのため、そういったところの利活用ということで、空いたおうちをひとつお借りして、田舎のシェアハウスというものを立ち上げたんですよ。 当時、田舎のシェアハウスはほとんど全国に存在してなかったため、結構たくさんの若者たちが集まってくれて、みんなで一緒に古い家を改修工事したり、使われていない田んぼを再生してお米を作ったり、山に行って木を切ったりしました。 そんな地域の活動を集まった若者たちと一緒にやっていると、最初は地域おこしとしてやっていたのですが、どちらかというと地域おこしというものは、なかなか先が見えず、どこまでいったら本当に地域が起きたかがわかりにくいと感じました。けれども、逆に来てくれた方たちがみんな生き生きと元気になっていくんです。 当時、田舎というものに心惹かれてくる方々は、それなりに都会の生活に疲れたり、毎日お仕事と家の繰り返しにちょっと疲れてきたりと、そういう方々が多かったです。そういう方々が田舎に来て地域で元気になっていくのを見て、今のやり方の方が明らかに人の役に立てるし、田舎の強さというのを活かせるんじゃないかなということでこの事業を始めました。 地域おこしをやっていたのが地域ではなく、地域で人が起きるという意味で『人おこし』というふうに名付けて、事業が誕生しました。 【データからも証明される『人おこしシェアハウス』による“レジリエンス力”】 山田)シェアハウスに来て、若者たちの変化はありましたか? 能登さん)ここに来てくれている若者たち自身と接していて、ここのスタッフ全員が感じることですが、明らかに変わっていくんですよ。入居した時はすごく表情がなくて、常に人と接する時はとても緊張したような顔をして、下手すれば、脂汗をかいているみたいな状況なんです。 けれども、1~2カ月すると、だいぶ表情が柔らかくなって、ほぐれて笑顔も出てきて気付けば、僕らともわちゃわちゃ普通に会話するようになってくれるんです。そうすると、自然に働きたいみたいな話になって、生き生きと元気に朝出勤していて、(帰ってくる時は)「ただいま」みたいな感じになってくるんですよ。それはもう本当に一番嬉しい部分です。 あとは、僕から入居している方々の親御さん宛てに毎月、月末に報告書をメールで出しているのですが、そのメールを出した時から、どんどん皆さんお返事をくださいます。「おうちではできなかったことをやっていただいて、本当にありがとうございます」とか、下手すると、子供がひきこもって何十年と悩んでこられた親御さんもいらっしゃるため、そこから「こんなに早く笑顔が見られると思いませんでした」といったお礼のメールを毎月いただけます。 それを見ると、私自身が自己肯定感アップで、やっていて良かったなといつも思いながらやらせてもらっていますね。 ここの近くにある日本原病院という病院の心療内科の先生にサポーターをしていただいていて、開所当時から入居した方全員の健康診断を入居時にしていただいているんですよ。それから一定期間を経て、定期健康診断もやっているのですが、そこで血液とか尿検査だけではなく、心理検査もしてもらっているんです。 その中で希死念慮を測る項目があって、いわゆる自殺願望的なものがどのくらいあるかというのを0から5までの6段階評価をするんです。入居時の方々を測ってみますと、3分の1以上の方が5とか4とかすごく高い希死念慮で入居されるんです。けれども、それがここでの生活を経て、定期健康診断になると、その中の7割の方が0になっているんですよ。 ですので、生きづらかった方が生きやすくなっているというのは、データでも明らかに出ています。 山田)どうしてなのですかね? 能登さん)それは、僕らもはっきりとは分からないところなんです。ただ、僕らが見ていても明らかに笑顔も増えてくるし、緊張した顔立ちだったのが普通のリラックスした顔立ちで暮らしてくれるようになるし。そうなってくると、もうちょっと社会で自分の社会生活を営みたいと思って、アルバイトしたいとなってきますし。自然に社会の方に出ていくようになりますね。 こういった若者支援の施設は、「生活リズムをちゃんとしないと」とか「食事をしっかりみんなで手を合わせて感謝しながら食べるのが大事」とか言われます。確かにその通りで、そういうことを大事にしている施設さんは非常に多いんですけど、我々は全く真逆のことを行っていて、基本すべて自由です。 朝起こさないですし、夜寝る時間も決まってないです。食事をする場所も時間も全て自由というふうにしているのですが、最初に問い合わせをしてくださる親御さんからは、生活リズムを立て直したいから、そちらにお預けするんですというニーズも非常に多かったりします。 しかしながら、自由な暮らしの中で、なぜかほとんどの方が自然に朝起きるんです。日中に何かをする。夜は「もうそろそろ明日早いから寝ます」と自分で言う、という暮らしになっていくんですよ。人間の体の中のいわゆる“レジリエンス”というか、そういう自然の形に戻っていく力があるんじゃないかなと思っているんですね。 山田)私は撮影の仕事をしており、都会で仕事をして、また地方で撮影などをするのですが、地方ロケのたびに健康になって帰るとスタッフはよく言うんですよね。 能登さん)自然の力みたいなこともあると思いますが、やっぱり自分の中から湧いてくるもので物事を改善しないと結局のところ、元の木阿弥になる。 強制されてたたき起こされて、日中起きるようにして、夜この時間に必ず寝なさいとしても結局のところ、自分で一人暮らしをして、自分で会社に通うとなったら、会社の時間には起きなきゃいけなくなる。そういうことを自分の力で整えていくための練習をするのが大事なのかなと思っている部分もあり、自由にしているということもあるんです。 そういった生活リズムだけではなく、例えば、最近凄く話題になっているゲームやYouTubeなど色々と依存対象があるじゃないですか。メディア的なものもここでは全く禁止はしてなくて、何時まででも好きなだけゲームしていいし、好きなだけ動画を見て寝てもいいとしているんです。 けれども、ここに住みながら依存によって社会生活がどんどんダメになっていくことは全然ないんです。みんなどちらかというと、ちゃんとした暮らしをしたいというモチベーションを元々持っているので、そちらの力がどんどん強くなってきて、そうすると自ずと依存は減っていくっていう感じなんですよね。 山田)面白いですね。人間の奥底にあるそれぞれが持っている“レジリエンス”とおっしゃっていましたが、自由にすると沸き起こる、ふつふつとみなぎる“レジリエンス力”みたいなものが出てくる感じですか? 能登さん)何かそんなイメージです。 山田)凄いですね。 能登さん)でも、生きづらさが解消するためにかかる時間には、個人差があり自然の力のため、そこを「何か月までに必ず仕上げます」といったようなお約束は、私たちは決してできないのです。 【みんなが緩やかに繋がっていける“コニュニティの拡大”を目指す】 山田)今後の展望はどんなイメージですか? 能登さん)元々このシェアハウスを立ち上げた時は、ここのシェアハウスを作って、困っている子達が入居し、一定期間を過ごして、元気になったら次に行く、という期間を過ごす場所として設計していたんです。けれども、途中からだんだん様相が変わってきて、ここを出た方達がこの近くで一人暮らしをするというケースがどんどん増えてきています。 僕らはOBと呼んでいるのですが、今15人ぐらいの人おこしのOB達がこの近くで、働きながら一人暮らしをしています。たまにここにも遊びに来たり、困ったら僕に相談に来たり、時々たっぷりお菓子の手土産を持って遊びに来てくれたりしてくれます。それも結構遠くにいるOBも遊びに来てくれたりするのですが、そういう形でここを出た子達とも緩やかに繋がっています。 言わば最初は、シェアハウスという形で設計していたのですが、今は『人おこしコミュニティ』みたいなものが美作市や近隣の町も含めてできてきているのが僕としてはちょっと嬉しい誤算です(笑) 今、僕は人おこし2.0って呼んでいるのですが、シェアハウス設計からコミュニティ設計みたいなところに移ってきていて、そこをどういう風にしようかなと考えています。そういうひきこもりになりがちとかコミュニケーションに課題を抱えているという若者達の場合は一人暮らしをし始めると孤立しがちなんですよね。 誰にも困っていることを言えなくなったり、一応会社は行けているけど、会社と家の繰り返しだけで誰も話せる人がいなくなったりしてしまいます。それを防ぐ為に、彼らが近くに住むという選択肢をしてくれたのかなと思うんです。 そこを、うまく孤立させずにみんなが緩やかに繋がっていけるコミュニティみたいなものを、どういう風に今後保ちながら拡大させていけるか、ということを更に地域の方々や企業さんも含めて、みんなの理解を少し持ち上げながら(進めていく)というところが今、僕の次のステップの興味と関心です。 【“人おこしシェアハウス”で一人でも多くの若者に活力を!】 山田)全国にひきこもり当事者は今146万人もいるというデータが出ていると思うんですよ。 能登さん)どんどん増えていますよね。 山田)それで本当に困られている親御さんもいますし、本人が一番この生きづらさを抱えていると思うんです。けれど、本当に『人おこしシェアハウス』のような仕組みがもっと日本に広がっていくといいなと思うじゃないですか。 例えば、フランチャイズじゃないですが、卒業生の方が『人おこしシェアハウス』をどんどん支店として作っていく風にしていけば、自分が実証しているエビデンスな訳じゃないですか。その卒業生は、「私を見て!」、「私はこうして今がある!」という人がオーナーとなって、シェアハウスをどんどん広げていく。 そのシェアハウスの運営などは能登さんがレクチャー、育成して、事業にもしていくし、世の中のためにもなるというような『人おこしシェアハウスのフランチャイズ化』はどうですか? 能登さん)めっちゃ面白いですね(笑) 山田)やりましょうよ。うちメガホンというクラウドファンディングをやっています。例えば、卒業生の中に『人おこしシェアハウスフランチャイズ化計画』の第1号で手を挙げてくれる人がいるんですよ、と。 今度、どこどこに空き家が発見されて、それをみんなで解体して何かをする模様から、我々が取材も行きますよと。それを動画にしてみたら、実際に運営資金が300万円足りないという。だったら、うちのメガホンでクラファンして資金を集めて実施するというような感じでどうでしょうか? 能登さん)素晴らしいです! 山田)そういった手を挙げてくれそうな次のリーダーというか次の能登さんみたいな方はいそうでしょうか? 能登さん)そうですね。そこは、もしかしたらもうちょっと時間がかかるかもしれないですね。このポジションは一番忍耐力が必要だったりするんですよ。僕も本当に始めた頃は、素人からのスタートだったので、彼らと日々接して、本当に色んな失敗もしました。 人おこしを始めた直後に入居してきた子達には、本当に僕も迷惑をかけて、言っちゃいけないことを言ったりとか、本来だったら福祉の世界ではやってはいけないような対応とかもあったりしたかもしれないです。けれども、彼らとの日々の対話の中から少しずつ私もこうした方がいいんだということを学びながらやってきていますので。 だから、一朝一夕にこのポジションというのは、もしかしたら難しいかもしれないですが、やりながら学んでいくとかですね。もしかしたらここに住んだことで、そういうこともある程度素地はできているかもしれないので、可能性はすごくあると思います。 逆に言えば、別にここのOBじゃなくても全然いいと思うんですよ。志のある方で社会に貢献したいとか、若者の問題の課題意識を持っていて自分も役に立てるかなと思っている方などが全国にいっぱいいらっしゃると思います。そういう方がやりたいという時には、こちらがノウハウを提供して、資金をメガホンさんで。 山田)素晴らしいですね。いいですね。地域おこし協力隊は全国で1,700自治体もありますよね。いろんなところでやられていて、結構僕も地域おこし協力隊の方は知っているんですが、事業に困っている人たちが多いんですよ。 地域おこし協力隊の方や全国の組織体に呼びかけて。オーナー研修じゃないですけど、ここに一緒に暮らしながら、支援の場に携わりながら、そこにあるプログラムを経たらちゃんとそれぞれの地域で事業化していく『人おこしシェアハウスオーナースクール』みたいな感じでね。 それで、そうするとこの試み自体がより広がれば、困っている若者たちも助かるし、地域おこし協力隊の事業プランにもなっていく。どの地域でもぶっちゃけ、ちゃんと能登さんのノウハウというかご経験を伝承できれば、実現できますよね。 能登さん)そうですね。それが先程のご質問の未来の話の、僕のもうひとつのプランとして本当にそれを言おうと思っていたことなんです。モデルにはなれるなという気はしているんですよ。こういうシェアハウスという形もそうですし、そこからコミュニティになっていく。地域の理解も得ていくみたいな形を僕らは本当にいっぱい失敗しながら、いろんな危機を乗り越えながらやってきました。 それが一通りノウハウとして溜まっている気はするので、それをまた別の地域でも作っていく。まさにお役に立ちたいなとすごく思っていたところでした。 *** メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録、いいねボタンをどうぞよろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門の広告会社です。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「希死念慮を抱えていた若者達が田舎のシェアハウスで元気を取り戻していくその理由は?」能登大次さん (NPO法人山村エンタープライズ)

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          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「戦場カメラマンになりたかった男が今ソーラーシェアリングで世界を本気で変えたい理由とは?」東 光弘さん(市民エネルギーちば株式会社)パート②

          市民エネルギーちば株式会社/㈱TERRA/ 株式会社ソーラーシェアリング総合研究所 代表取締役 東光弘さん 撮影&聞き手:山田英治 (社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 山田)ソーラーシェアリングの伝道師、東光弘さんへのインタビューの第二弾です。東さんが元々(環境を守る観点から)有機野菜や有機農業に関わられたのは、東さんが以前お勤めされていた商社からでしたか?流通に関わる仕事だったとは思うのですが、店頭販売や卸しの中で気候変動のことを考えるようになったのか、それともソーラーシェアリングの出会いから始まったのか、どちらになりますでしょうか? 東さん)現在58歳ですが、実は17歳の時カメラマンになりたかったのです。 山田)カメラマンですか? 東さん)えぇ、報道カメラマンです。「ロバート・キャパ」、「ユージン・スミス」、「マーガレット・バーク=ホワイト」、「沢田教一」など、戦争をヒューマニズムで止めるカメラマンの写真に影響を受けました。 ですが、戦争は全て終わっていて「自分の時代は何なんだろう?」と思っていたところ、40年前にガイア仮説という、地球は生きているという仮説のラブロックの本が出て、「これは何と面白い考えなんだ」ということで、これから環境問題だなと思い、環境ジャーナリストになろうとしました。 新聞学科がある大学に行き、新聞記者になって、環境問題を一般に伝える仕事にしたかったのですが、その頃はまだ早すぎましたね。バブルの後半だったので、世の中全体が浮かれていましたから。 山田)当時、環境のことを話す人はいましたか? 東さん)誰もいませんでした。『東、頭が壊れたのか?』とよく言われました。でもドイツでは食べ物を通じて環境問題(に対する意識)を広めることがうまくいっていましたので、日本もきっと上手くいくと思っていました。 その後、オーガニックの業界に入り、食べ物の流通を通じて食べ物の流通を一つのメディアとして捉えました。 「なぜ無農薬の野菜を売るのですか?」、「無農薬とは何ですか?」(という問いかけがありましたが)、農薬を使わないと昆虫も死なないので、生物多様性に良い、人間も自然の一部だから人間の健康を守るということは地球を守るということだ、という考えでオーガニックのものを30数年前から売っていました。 当時は「大根からソーラーパネルまで」というコピーライトで、ジャガイモやオーガニックの野菜の隣にもパネルを置いて売っていました。年間10枚程度ですが。太陽光パネルはすごいもので、これを普及したいという思いがあったのですね。独立して自由に生きていくためのツールと思っていました。 食べ物も、「自然に良いもの」を作るというより、健康になりたいイズムではなく、自分らしく生きたいのなら、また人様にお野菜をお届けするのなら、農薬を使っていない野菜の方がお互いに楽だし自由だ、と考えたのです。エネルギーも石油を燃やしたり、原子力を使用したりするより、自然エネルギーの方が良いよね?というようなカルチャーから始まりました。 山田)40年前に気候変動という言葉は存在していましたか? 東さん)当時の環境問題は、ゴミやリサイクルや公害などが中心でしたね。温暖化についても35~36年前には既に議論されていましたし、海外でも同様の問題が存在していたため、地球の危機感を持つ人々も多かったようです。 山田)それまでの時代は『えっ!何を言っているのだ?』と疑問視する人々も多かったのでしょうか?バブル期や青春時代に、心が揺れ動いた経験はありましたか? 最近では、気候変動やSDGsといったテーマがますます取り上げられ、企業も変化を迫られる状況が続いていますが。 東さん)そこは全く揺らいでいません。エコロジーの世界というのは、みんなとても良い人で色々なことを教えてくれます。 例えば長芋や山芋の生え方がどうしたとか、山はこういうのが出てくれば水通しが悪いとか、(ソーラーシェアリングを普及する)活動を30数年やっていても、毎日色々なことを教わります。自然や環境を教わること、それが楽しいので、(活動が)進まないと焦る時もありましたが、それを上回る喜びの方が大きかったですね。 今は残念ながら環境がどんどん悪くなっているので、色々な意味で環境に興味持つ人が増えてもいます。起業家の人は皆さん気が付いているので、相当厳しい状況ではありますが、(ソーラーシェアリングが普及する)可能性は0でないと思っています。 【循環経済は、自分が幸せになりながら周りの人も幸せにするハッピーシェアリング】 山田)今の話の流れですが、東さんは今後の展望として、どのようなことをビジョンとして描かれているのでしょうか? 東さん)情報の共有は大事だよね、ということと、理屈だけでなく体感して、自然エネルギーなりオーガニックなり不耕起栽培なり、循環するシェア経済をやる社会はハッピーだ、ということを体感した方が良いと思います。 目的のために頑張れというのは限界がありますので、ある意味自分がハッピーになりながら、他の人達もハッピーになることを伝えていきたいです。 経済的にも感情的にも、人々の心の中にある哲学的な要素として、感動的な音楽やスポーツや映画と似た具合で共感されて『環境活動めっちゃ楽しいじゃん』と感じてもらえるように、人々に伝えていきたいです。 山田)ハッピーシェアリングとはそういうことなのですね。だから地域の方もウェルカムな姿勢になっていくのですかね? 東さん)地域活動というのは地元の草刈りに必ず参加するとか、理屈ではなくて挨拶や義理人情で仲良くなることが先なのですね。そうすれば『東は仲間だから手伝おうか』とウェルカムな姿勢になるのです。 【日本の農地の18%にソーラーシェアリングを作れば、国内の電気は足ります!地域の営みを支える巨木になりたい】 山田)地道なところから入り、地域で関係性を作ってソーラーシェアリングを始め、輪を広げていくのですね。今は何カ所あるのですか? 東さん)20〜30カ所くらいありますね。 山田)30カ所もあるのですか? 東さん)はい、30カ所あります。これ以上増やそうと思っていないですが。 実は、計算すると、日本の農地の18%にソーラーシェアリングを作ると、日本の電気は足りるという計算になっているのです。 山田)18%?日本の?耕作放棄地のではなくて現農地の18%でしょうか? 東さん)全部ですね。水力、小水力、風力、波力、省エネも進んでいます。家の屋根の上にもソーラーがありますから、農地の10%ぐらいでソーラーシェアリングができれば良いのです。いくらソーラーシェアリングが良いものであっても、全てソーラーシェアリングになったら、ちょっと違和感を感じるかもしれませんからね。あっちに10%、こっちに10%という具合で地域おこしに使われていったら良いかなと思っています。 山田)良いですね。都会の人達で地方移住をされる方も多いですけど、そういった方が担い手にもなりながら、地元の農家さんと共同で導入しようとなると良いのですかね? 東さん)循環の一つのエンジンのような感じですね。大きな巨木には深い根があって、水を吸い上げて葉っぱから蒸散されて水が循環する。雨が降れば一度葉で受け止めて、ゆっくりと地面に水を供給してくれる。光を浴びて光合成をしたら、10のうち6は自分の体を大きくするのに使い、残りの4は根から光合成した炭素となり、微生物の餌になる。微生物は周りの微量のミネラルを木に与えてくれます。このような1本の巨木があることで、ものすごい大きな循環システムが生まれるのです。 ソーラーシェアリングも経済面で、そのような巨木になってほしいですね。地域を育むようなソーラーシェアリングの木のようなものがあれば、売り上げが収入になり、地元の公民館に寄附が行き、子供たちの学童の予算になり、ゴミが捨てられている等の地域課題を解決し、都会から移住したいという人たちの仕事にもなります。木のような存在であるソーラーシェアリングがあることで、地域内の社会循環・経済循環が生まれると思っています。 山田)素晴らしいですね。私は本日東京から来たのですが、知っている人は知っているのですが、まだまだソーラーシェアリングの考え方を含め、来てみないと分からない雰囲気や、ハッピーシェアをしているという状況 の見える化ができていないような気がします。 もし、現状が太陽光パネルの違う方法と思われているだけだとすれば、社会の広告社として、ハッピーシェアリングの見える化や、実際の笑顔を可視化できるようなキャンペーンができると思いました。キャンペーンと仕組み化ですね。 東さん)2月にはここでできた大麦で、ソーラービールというのを出します。「サザビーリーグ」というアパレルとカフェをしているアパレルブランドにお金を出資していただき(店舗に)電気を届けていますが、そちらでソーラービールを売ってもらいます。サザビーリーグの若い人たちがここに援農に来てくれる時に、今度はお客さんも一緒に来てくれます。 ここで市民農園ができるなどのキャンペーンも大事ですし、物理的に繋がっていくことも大事です。継続できて同時にやっていけると良いですね。しかも47都道府県で自分がアクセスしやすいところでやれる仕組みを。 山田)良いですね。私も是非ソーラーシェアリングに1口乗りたいと思っているのですが、今はパネルを1つ買うことも法律でできないのですよね? 東さん)例えば、これから新電力に電気を売っていく時に、それを契約してもらうとか、実際にイベントに来ていただいたり、援農をしたり、コミュニケーションで参加してもらうだけでも良いと思いますよ。 山田)契約したら農業をやれるというサービスはあるのですか? 東さん)今は無いのですが、個別対応でできます。TERRAは株式を上場まで持っていきたいと思っています。会社は上場すると、株主から『環境よりもお金を優先して配当を上げてください』と言われると元も子も無くなってしまうのですが、もし全ての株主がエコロジストだったら『もっと環境を頑張ってよ』となって、自分達らしくスケールを大きくしていけますからね。株式に出資者になってもらう参加の仕方もありがたいなと思っています。 山田)やりたいなあ。 東さん)是非皆さん1口ずつ、全員株主がエコロジストだったら、年一回の株主総会も大変楽しいと思いますね。 【ソーラーシェアリングの学びの輪も広がっている】 山田)今度は全国の話なのですが、ソーラーシェアリング推進連盟でソーラーシェアリング普及活動を各地でされていますが、どのような内容なのでしょうか? 東さん)具体的には2024年2月17日に千葉商科大学で第1回目のソーラーシェアリング全国大会があります。そこに色々な方に登壇いただきお話をしていただくのですが、2つの大きなお部屋を借りて、1つは大人達が順番に話し、もう1つは学生さんにプロデュースしてもらいます。未来の社会のあり方、ソーラーシェアリングを使ったあり方でプログラムを組んでもらい、交流・教育の観点からソーラーシェアリングアカデミーという企画をやります。 山田)アカデミーというのは勉強会ですか? 東さん)はい、インターンシップや建設、農業、環境社会学について学ぶアカデミーがリアルやオンラインで行われています。生物の多様性や環境問題など、幅広いテーマが扱われており、村おこしやクラウドファンディングなども取り上げられているところです。 山田)社会の広告社のクラウドファンディングの仕組みでは、ソーラーシェアリングの啓発をやる際に「動画や広告がいくらだからクラウドファンディングで(資金を集める)」という仕組みなのですが、何かできることはありそうですかね? 東さん)3年前に簡単なプロモーションをやったのですが、そういう意味で動画を作ってもらえたらとても嬉しいですね。 山田)色々なシェアが循環して可視化されていくという感じですよね。いま海外にもソーラーシェアリングは広がっているのでしょうか? 【元々は戦場カメラマンを目指していたが、今はソーラーシェアリングで紛争をなくしたい】 東さん)ベトナムのテストプラントを仲間の会社と進めているほか、インドアフリカのミーティングが始まっています。個人的に砂漠の緑化をやりたいです。 山田)そうなのですか。 東さん)緑を増やしたいのですよね。出てきた炭素を固定化するには、植物の力の助けを借りるのが一番良いですから。 山田)東さんの夢は、砂漠を緑化して農業をやるということですか?それは最高ですね。そして途上国の地域の雇用になる、食料の増産になるという。 東さん)元々戦場カメラマンを目指していましたが、今ではソーラーシェアリングを1つのメディアとして捉え、戦争と反対のことをやろうとしています。エネルギーを生み出しエネルギーで水を得る。水で砂漠を緑化して、食べ物と雇用を生み出す。そうすれば紛争が少しでも減る可能性が増えます。 山田さん)巡り巡ってシェアの思いが繋がるのですね。 東さん)クラウドファンディングで海外の砂漠の緑化実験を来年からやっていくので、そうなってくれたら嬉しいですね。 山田)それ良いですね。面白いですね。それやりたいです。 東さん)セネガルやインドで、新規就農した若い有機農家さんを応援するための設備を作るとか。そういった試みもありますね。 山田)それもいいですね。 東さん)ですから国内のソーラーシェアリング、これからの担い手のためのクラウドファンディング。使ったきりで終わりのファンドではなくて、その後その人も15年したら利益が出て、それを返して次の糧へ、循環していくようなお金の流れが良いと思いますね。 原点を辿ると、私はちょうど高度経済成長期の昭和40年生まれで、世の中は毎年どんどん発展が見えたのですね。部屋にテレビがなかったのが、白黒テレビが来て、カラーテレビになって、中学生ぐらいになったらファミコンが出てきた世の中でした。経済的には良い時代だったのですが、リアリティーという点で、これでいいのかな?と20歳前後に思いました。 戦争というのは最もリアルな状態です。当時の写真はすごく力があったから、写真の力で戦争は悲劇なんだということが伝わり、ベトナム戦争とか、多少なりとも戦争が終わるのが早くなりましたね。良いことだなと思いました。それで社会のためなることがやりたいと、本能的に思いました。 【温暖化を誰かのせいにしない。解決すればいい。話題のテクノロジーは全て味方になる】 山田)小学校や中学校はどんな子だったのですか? 東さん)サッカーが好きで、中学生はフォーク全盛でバンドをやって、サッカーと音楽という感じでした。そして生徒会長を常にやっていましたね。 山田)やっぱりリーダー格だったのですね。 東さん)イジメがあると嫌なので。 山田)正義の人だったのですね。なるほど。共感いたします。 東さん)世の中を良くするのは気持ち良いといいますか、楽しいのですよね。 山田)楽しいですよね。やっている最中に楽しいとは言いづらいですが。 東さん)文句を言うのが嫌でした。農薬を使ったご飯で成長させてもらったのですが、それに文句は言いたくないです。ありがとうと言いたい。けれど人に売る時には、より健康なフィジカルなものの方が良いよねと言います。温暖化を誰かのせいにしたくない。大人なのだから解決すれば良いのです。 「こういう社会モデル、ビジネスモデルがあれば、次の世代も儲かるし楽しいし一緒にやらない?」と言えるものを作っていく方が気分が良いです。 山田)いま、若者が2極化していて、海外ではソーシャルグッドなことをやっていても、日本人は意外とZ世代がソーシャルグッドではないようで、私の周りでは増えている気はしますが、統計上まだまだ少ないらしいのです。 東さん)まずは彼らが成功していくことが大事です。彼らの止むに止まれぬ所で立ち上がった人達のセンスと、諦めてしまう度数では、今はまだ日本の場合は諦めてしまう方が大きいのです。だって大人たちが色々ガッカリなことが多いじゃないですか。政治も商売も。こんな大人になりたいと思わせるという意味では、ビジネスを成功させるのが大事なのです。 今は夜明け前ですが、このような感じで、来年相当大きな会社とのプロジェクトが続々と発表されれば、変わっていきますね。 特に2025年と2028年は大きく飛躍すると思っています。ペロブスカイト太陽光電池が社会実装することや、蓄電池が変わる、自動運転が出てくる、AIが出てくるとか、世の中で話題になっているテクノロジーが全て、私たちの仕事にはプラスだと思っていますね。 山田)ペロブスカイト! 東さん)ペラペラの紙と言いますか、ラップみたいなものや、あらゆるものが発電可能になります。ソーラーシェアリングにはもってこいです。今特許を取ってサンプルを作っているのですが、私らのソーラーシェアリングではペロブスカイトを使うとコストが下がって、風にも強い仕組みができるのです。砂漠でも良い。乞うご期待です。 山田)楽しみですね。 東さん)大事なのは、色々なことが変化し、変化することは当然ということですね。サーフィンのように波に乗った方が良いのでは?と思いますね。先入観にとらわれずに。 Googleアースで土地を見て、元々の水脈はこうなっていたからこういう農業が良いと考えたり、顕微鏡で土の中の微生物を見たりする。距離的に俯瞰して見るし、時間的にも俯瞰して見るし、レイヤーも俯瞰して、自分の脳が紋切り型にならないように、あるがままに現実を見て対応していくのです。そうすれば、常にチャンスがあり、良くしていける自信があるのです。 山田)あとは担い手ですかね。 東さん)世の中を良くしたい。自分らしく楽しく生きていきたいと思うパッションの方が大事だと思っています。こういうテクノロジー方法があるんだったら、それをやってみたいとなれば良いのです。最後に思いありきです。 山田)なるほど、自分らしく生きたいと思うためには、そういった実例がここにあるというのが伝わらないと気付かないですものね。 東さん)これから海外の人も来る。あとは、芸能人や全くカテゴリーが関係無い人達が関心を持って、こうした環境活動を一緒にやっていくのです。全く別のフェーズでやっていきたいと思います。 *** 東さんの動画 パート1はこちら!→ https://www.youtube.com/watch?v=mgkM6oazDks&t=59s&ab_channel=%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%9B%E3%83%B3ch%E3%80%9C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E5%B1%8B%E3%81%8C%E5%8F%96%E6%9D%90%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E4%BC%81%E7%94%BB%E3%81%99%E3%82%8B メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録よろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門の広告会社です。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「戦場カメラマンになりたかった男が今ソーラーシェアリングで世界を本気で変えたい理由とは?」東 光弘さん(市民エネルギーちば株式会社)パート②

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          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「ソーラーシェアリングで世界を変えたい!日本発の環境技術が農業と地域を支えるインフラになる!? 」東光弘さん(市民エネルギーちば株式会社)書き起こし Part①

          市民エネルギーちば株式会社/㈱TERRA/ 株式会社ソーラーシェアリング総合研究所 代表取締役 東光弘さん 撮影&聞き手:山田英治 (社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 山田)ソーラーシェアリングとはどういうものか、具体的に教えて頂けますか? 東さん)農地の下側で畑、上側で太陽光発電を行うことです。2013年3月31日に農水省からの通達で、農地上で太陽光発電をやってはいけないことになったのですが、下側で畑をやっているのであれば、上側で太陽光発電をしても良いと認可されたのが私たちの事業のきっかけです。 具体的にご説明しますと、幅35㎝長さ2mという細長い短冊のような太陽光パネルを、パネル1に対し空間2という割合で、隙間だらけで設置します。そしてその下側ではトラクターやコンバインを入れて農業をし、その上側では太陽光発電を行うという仕組みになっています。 山田)つまり農業とエネルギーの一挙両得のような仕組みでしょうか? 東さん)はい、まさにそういうことです。自分がこの仕事を始めたきっかけは、2011年の東日本大震災の時に(福島第一原子力発電所で)放射能の事故があったからです。 私の取引先の農家さんは、それまで有機農産物の流通を20年以上やってきていたのですが、(放射能関連で)随分廃業してしまった農家さんもいたので、これからの農業というものを考えていったとき、食べ物のことだけではなく、エネルギーのことも考えていかないといけないと思いました。 これについて何か良い方法がないかと考えていたところ、長島彬先生という方から、ソーラーシェアリングというものを教えていただきました。 最初は私も有機農産物の流通をやっていたので、『畑の上で太陽光なんてけしからん、ふざけるな』と思い、文句を言いに行こうと思ったのですが、想像以上にソーラーシェアリングの下の野菜たちが元気で、『僕たち元気だよ』と語っているようでしたので、これはちょっと研究してみたいなと思い、1年間で50種類以上の野菜を育ててみました。 私は北から南まで20年間いろんな畑を仕事で回っていたので、畑の野菜の顔を見る自信があったのですが、野菜がどれも元気に育ったので、これはみんなに伝えた方が良い技術だと思い、約10年前に会社を作りました。 最初は、太陽光パネルが環境を破壊するとか、森を切り開いているといった文句のような声を聞きました。『農地の上で、とはどういうこと?』という感じです。 私の考えとして、地球の森とか緑というのは地球から見ると皮膚みたいなものだと思っています。緑の皮膚をひっぺがして、いくら炭素が減るからといって太陽光パネルを広げていくというのは、生理的、ビジュアル的にも良くないし、とても違和感を感じます。そういうことはせず、木漏れ日のようなソーラーシェアリングであれば良いなと思いました。 山田)想像以上に解放感といいますか、自然に溶け込んでいる感じがしますよね。人工物ですが風通しも良いし、手を上げても手は届かないですし。 【この事業に対して、女性やアーティストたちが生理的に感じる意見を大切にしています】 東さん)実はそこも狙いで、年間に数千人もの方に見学に来て頂いています。特にそこで、女性の方やアーティストの方の意見をできるだけ聞くようにしています。彼らや彼女たちが生理的に嫌だと感じてしまうということは、私のやり方が何か間違っているのではないかと思うからです。今のところ『これなら明るくて良いね』と仰ってくださっていますが、そういう声を大事にしたいと思っています。 山田)それは面白いですね。理屈ではなく生理的に嫌だというのは本当に嫌なのではないか、という人間の本質ですね。私の場合は、過去に東京電力の広告を作っていて、『原発OK』、『原発はエコである』としてCMを打っていた当時は、原発の反対運動をしている人たちのことを何か変だなと思ってしまっていました。 東京電力は、エコでCO2を減らせると言っていたわけですが、結果的には福島のようなことになってしまったので、生理的に含めて何か変だなという違和感は、大事にした方が良いと私も気が付きました。先ほど東さんが仰っていたことは、まさしくそういったことになるのでしょうか? 東さん)そうですね。もともと太陽光発電は、1960年代後半のヒッピー文化のような、自分が使う小さな電気は自分で発電したいというカルチャーから生まれてきていて、それが自然エネルギーの良さだと思っています。 それがFIT、つまり固定価格買い取り制度になってからというもの、猫も杓子も太陽光発電で小金が儲かるという感じで、太陽光発電をする人たちがワッと集まってきたのです。 地域住民からしてみると、空き地とか山に太陽光パネルを付けるけれど、お金は全部都会にいく。そして自分のところはただ景観が悪くなる。これでは太陽光発電が嫌いになってしまいますよね。 本来、自然エネルギーは自分らしく生きるという精神が形になったものなのですから、本来良いものなのです。そうした点からも復活させたいと思っています。 山田)ソーラーシェアリングにはそういった良さがあるということに、東さんは『これだ』とピンと来られたのですね。 【ソーラーシェアリングで耕作放棄地を再生。荒地がきれいになり、農業が復活してお金も動く】 東さん)元々のソーラーシェアリングという語源は、太陽光の光を農業とエネルギーで二毛作、つまりシェアをしようというところから来ています。 私達の会社の場合、売り上げの10%ぐらいは農業や村おこしに寄付させてもらっています。ですから、シェアリングのシェアを「分かち合い」として解釈しています。自然生態系もシェアするし お金もシェアするし、関係性もシェアする、そういう理念を考えています。 山田)実際に会社を作られてから、今は理想に近づきつつある感じでしょうか? 東さん)どんどん近付いていっていると思っています。この80ヘクタールの土地は、40年前に国の政策で山を切り崩して田んぼ農地を作ったところなのですが、何十万年もかけて作られた黒い表土が剥がされてしまっているので、有機質も少ないし微生物も少ない。砂漠といいますか、荒れ果てた土地だったのですが、雑草が生えて再生のサイクルに入ってきているのです。 ソーラーシェアリングも、荒れ果てたものを再生していくイメージなのです。ソーラーシェアリングができると、それまで耕作放棄地だったところが綺麗になって、農業が復活してお金も動くということになります。 今までイネ科の雑草しか育たなかった荒れ地が新しい土になって、カモミールなど比較的弱い植物も生えてくる。つまり生物や植物の多様性が増えていくようなイメージを持っていまして、ソーラーシェアリングをすることでこの地域がまた耕されていくのです。そういうイメージを大事にしてやっています。 山田)本日、ソーラーシェアリングを見させていただきましたが、行く先々で鳥やモグラが歓迎してくれるような感じですね。基本的に有機で農薬を使わないというお考えでしょうか? 東さん)そうです。この地域は現在80ヘクタールあり、その内20ヘクタールを私たちが借りたり買ったりしていますが、すべてJAS有機という無農薬でやっています。農薬を使わないと虫や微生物が増え、小さな鳥やイタチ、キジが増え、そこに猛禽類、ワシ、タカ、トンビの類が来るのです。 カラスが減ってスズメが増えたりすることも、すごく嬉しいことですので、最終的に80ヘクタール全部をオーガニックにして、快適な場所にしたいです。 山田)元々は耕作放棄地だったところを、どんどんソーラーシェアリングの農地に変えるということをこの地域でされていると思うのですが、こういった活動は全国に広がりつつあるでしょうか? 東さん)はい。私たちがトップリーダーのようなところがありますが、沖縄から北海道まで自分の会社も含め沢山プロデュースさせてもらっていて、10年かけたプロセスを 1年から2年でできるようにしています。志がある農家さんや発電事業者さんと繋がりがさらに増えてきています。 山田)東さんは千葉県の匝瑳市(そうさし)ですよね。ここをベースに同じ考え方を広めていく活動も同時にされているという感じでしょうか? 東さん)そうですね。株式会社TERRAで海外を含め規模を拡大しています。匝瑳市のエリア内をできるだけより深く、エコロジカルにサスティナブルに開発する会社が市民エネルギーちば株式会社です。一方、どのような作物が元気に育つか、また、新しいペロブスカイト太陽電池(※)について、海外の大学と連携した基礎研究を行うのが総合研究所です。これらの3つの役割が全部合わさるとうまく進むような形になっています。 (※)ペロブスカイト太陽電池:世界で注目されている次世代の新規太陽電池材料。従来の太陽電池と同程度の変換効率でありながら、既存のものより低価格、軽量で、これまで設置できなかった場所にも設置することが可能となる。 【実は電気は、果物や野菜とおなじ農産物です】 山田)耕作放棄地があるということは、農家さんが減っているわけですね。今後も加速度的にいなくなっていきますし、そうすると耕作放棄地も増え、農業従事者もいなくなるわけですが、そういった時にソーラーシェアリングの仕組みを使うと、その売電収入も得られることで、農業が続けられやすくなるという観点もあるのでしょうか? 東さん)おっしゃる通りです。それが一番大きな目的です。ソーラーシェアリングの主従関係は、太陽光と農業で言うと農業の方が主で、自然エネルギーつまり太陽光の方が従であると思います。他のソーラーシェアリング業者さんの多くは太陽光がメインで、農業はおまけになっていますが、それは本質から離れてしまっていますね。ソーラーシェアリングは農業経営を支えるための一つのエンジンになればいいなと思っています。 山田)なるほど。農業振興の要素がものすごく強いと言うことですね? 東さん)ソーラーシェアリングは農業だと言って良いと思っています。ですから、この畑の上でできた電気は農作物だって言っています。昔、江戸時代の人が農閑期に炭を焼いて、町で売って現金に変えたというのは、結局農的な営みの中でその農的資源を活用してエネルギーを作って売っていたのですから、ある種の農産物ですよね。それの現代版だと思います。 ここにいると沢山の方が、変わったことをやっているなと見学に来てくださって、色々なものを食べられたり、お土産を買っていってくださったりします。そのほかにも、ワークショップに参加するなどの関係そのものも一つの農作物として捉えています。 今までの農業は、農産物生産業を略して農業といっている言葉です。つまり1反分1000平米でジャガイモを作り、何キログラム獲れていくらで売ったか、それが農業だったと思うのですが、私はこれから農村経営業を略して農業と言ったらどうですか、と提案しています。つまり、電気も関係性も色々な農的な営みの中で得られるものは、すべて総合的に農産物として捉えると。すると新しい農業の可能性があるのではないかなと思っています。 専業農業の田んぼなら田んぼだけではないということです。百姓という言葉の語源のように、いろんな仕事、生業があるということ。それをもう一回作ろうという取り組みです。 農業従事者が今年は百十数万人で、去年が123万人、一昨年が130万人。2005年は260万人でした。つまり、10数年で半分に減ってしまっていて、さらに今後の7年間では50万から60万人にまで減るようです。だからこれからは、一般の人もどんどんこういった地域に来て、小さくて良いから農作業をやると良いですよね。それも立派な農業だと思います。 ただ、それだけの面積も足りないでしょうから、ある程度ドローンやAI、自動運転も使わなければいけないでしょうね。いわゆる専業農家に生まれたから農業をやるのではなく、「自由に生きていくための権利」としての農業になれば、農業の魅力というのがもっと広がると思っていますね。 それを具体的に持続可能に動かしていくためのツールとして、このソーラーシェアリングが良いのではないかと思っています。 山田)私も農業を家庭菜園的なものとしてやっていて、田んぼをやったりするのですが、都会に暮らす人達は結構農業に飢えている雰囲気があります。何かチャンスがあれば農業をやってみたいという人が、少なくとも私の周りでは多いと思いますので、『こんな方法があるよ』と知らせたいですね。日陰だから1日の農作業の疲れも少ないし、働く側にもメリットがあるということも伝えたいです。 東さん)ずっと畑を回っていて、ある日気づいたのですが、自然界に完全な野原は無いのです。鳥の糞から潅木が生えて、7年ぐらいすると林に戻ってしまうのです。畑というのは本来不自然なもので、その場所を一部活用させてもらっているだけです。木陰があるというのはむしろ自然に近いです。森の中にも草が生えていますから。 【ソーラーシェアリングで自然を守る農業をすると、農家の収入も増える構造】 山田)なるほど。この動画を、もし農業をやりたい方が観たとして、ソーラーシェアリングを取り入れれば、農業収入プラスオンになって稼げるような生業になるのでしょうか? 東さん)これは成り立ち得るとは言えますが、スパッと答えられることではありません。でもトータルでは成立する自信があります。私自身、ソーラーシェアリングがもう少し世の中に普及したら、ソーラーシェアリングを設置する建設の仕事はやめて、最後の人生の仕事として農業をやりたいです。 農業にソーラーシェアリングを取り入れて活用するというスタンスです。農作物を1キロいくらで売るという世界観では、これからの農業は不可能だと強く思います。もっと多様な価値を提供することが必要です。 たとえば、カーボンクレジットという炭素量を減らす価値です。2023年3月から『J-クレジット(※)』という制度が始まりました。田んぼの中干し期間を2週間から3週間に延長するとメタン発生量が38%減るので、それを価値として売買する仕組みです。これが1町歩あたり4万円の値段になっています。多くの専業農家さんは10町歩ぐらいやられています。すると40万円収入が増えるのですね。新しい価値で農業収入になるという一例です。 ソーラーシェアリングで作った電気を売ることができ、それが農業収入に加算される。つまり農業を支えるのにすごくプラスになるということです。 ※J -クレジット:省エネルギー設備の導入や再生可能エネルギーの利用によるCO2等の排出削減量や、適切な森林管理によるCO2等の吸収量を「クレジット」として国が認証する制度。 山田)なるほど。様々な稼ぎ方が増えていて、時代的にも気候が変動しているなかで、J-クレジットという制度が始まるということでしょうか? 東さん)20町歩のうち2町歩、つまり10%ぐらいの畑は耕さない農業(不耕起栽培)をしています。そうすると炭素の貯留量がどんどん大きくなりますから、色々な農業事務所で実験をして、数字で誰が見ても確からしいと証明できれば、クレジット化されていき、農家さんの収入が増えます。 地球の場合、畑を耕さなければ土の中の微生物やミミズなどが全部蓄積されていくので環境には絶対良いです。地球にとって自然を守るような農業が広まると、農家さんも収入が増えるという構造です。そのようなトレンドを、この活動を通じて作って広げていきたいと思っています。 山田)世界を含めて流れは来ていますよね。 東さん)日本は2050年にはカーボンニュートラル(温室効果ガス実質ゼロ)を目指していますが、全然間に合わないです。間に合わないという状態で、国も企業も本気でやり始めています。 RE100(企業が自社のエネルギー消費を100%再生可能エネルギーに切り替えることを目指す取り組み)の話もあり、アメリカではトップ50社のうち46社がRE100に加盟して、どんどん達成しています。日本のRE100は現在72社。その72社の電気だけでは、先ほど言ったFIT(固定価格買取制度)の電気も足りません。山を壊すタイプの発電所は、もう190の自治体から制限条例や禁止条例が出ているため作れません。 環境に調和したような自然エネルギーを導入しなければならないのです。時代としては、とても残念ですが地球温暖化がどんどん悪い方向に進んでいるので、自然エネルギーに対する投資は高まっていきます。そして、ソーラーシェアリングがどんどん採用されていくわけです。 すごく大きな会社や自治体もソーラーシェアリングに非常に大きな関心を持っていて、表には出せませんが多くのプロジェクトが進んでいます。売り上げ10兆円の大手エネルギー会社ENEOSと、資本金6000億円のSBI証券という日本で一番大きい証券会社のエネルギー部門が、地方の資本金90万円で始めた会社と合弁で作ったのがこの設備なのです。そういう時代なのだということですね。 【地域、時代、国、世界のことを考える人がやるべきインフラビジネス】 山田)東さんの方で、企業さんにも注目されて万々歳というところもあると思うのですが、課題があるとすればどういうところにありますか? 東さん)圧倒的な課題は、それぞれの地域で、地域を生かす農業をどのように継続的に掘り起こせるかという1点です。農家さん側の担い手がいるのか、ということです。新しい農業をそれぞれの地域ごとに発見しなければいけないのです。 現在、鳥取で進めているソーラーシェアリングのプロジェクトは砂丘で水はけのいい芝生を作るというものです。(このプロジェクトでは)国立競技場も含め、ほとんどのスタジアムの芝を作っています。芝生はもともと作っていたので、それを活用したソーラーシェアリングとなっています。 沖縄ではコーヒー園をやっている方が、現地の所得が低いため、それを引き上げるソーラーシェアリングのプロジェクトとコラボしています。それぞれの地域の物語、気候状態とベストマッチしたソーラーシェアリングを発掘し作っていきます。 ですから、この手法を取り入れたいという農家さんやファンを増やすことがまず大事ですね。太陽光に対してネガティブな気持ちを持っている人も多い中で、自然エネルギーというのは心が大事な要素となります。 インフラビジネスということは権利を与えられるということですから、私利私欲に走っているような人がやってはダメなのです。その地域のこと、時代のこと、国のこと、世界のことを考える人がやらなければ。インフラという社会公共性があるものを預かっているのですから、理念が一番大事だと思います。 働いた分は人並みにお給料を、子供に給食代や学費が払えるぐらいにもらえて、再投資していけるぐらいの利益が出た方が良いですが、がめつく利益を追求してしまうと、空気感で国民市民の皆さんに伝わってしまいます。このインフラビジネスをする際には、未来の子供たちのための平和実現といったような、何か理念がないといけません。単に自然エネルギーというだけはダメです。農と地域と未来を支えるエンジンとしてのソーラーシェアリングを広めていきたいです。 ***** 東さんの動画 パート2はこちら!→ https://www.youtube.com/watch?v=bDDYp1dgkgk&t=159s&ab_channel=%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%83%9B%E3%83%B3ch%E3%80%9C%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%BA%83%E5%91%8A%E5%B1%8B%E3%81%8C%E5%8F%96%E6%9D%90%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E4%BC%81%E7%94%BB%E3%81%99%E3%82%8B メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録よろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門の広告会社です。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「ソーラーシェアリングで世界を変えたい!日本発の環境技術が農業と地域を支えるインフラになる!? 」東光弘さん(市民エネルギーちば株式会社)書き起こし Part①

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          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「資本主義やグローバリゼーションは、非営利団体NPOとは対立するものではないのですか?どう付き合えば良いですか?」工藤啓さん(認定NPO法人 育て上げネット理事長) Part②

          【資本主義やグローバリゼーションは、非営利団体NPOとは対立するものではないのですか?どう付き合えば良いですか?】 認定特定非営利活動法人 育て上げネット理事長 工藤啓さん 聞き手:山田英治 (社会の広告社) 〜この記事は上記動画の書き起こしです〜 山田)工藤さんは(国の)審議会に呼ばれたり、様々な活動をされたりしていらっしゃいますが、民間企業ともそういった関係を築いていらっしゃるのでしょうか? 工藤さん)これもやはり運が良くて、2005年ぐらいから海外を中心に社会貢献やCSR(企業の社会的責任)という言葉が聞かれるようになりました。日本と少し違い、若者中心にやろうとする企業が今もたくさんあります。 各国の担当者の方が何かしらのテーマと若者達を見つけてNPO(非営利組織)を探すことが多いのですが、若者支援をやっているNPO自体が限られているもので、そこで我々に声を掛けていただくことが多いです。担当の方が他の企業に紹介してくださるとか、今までそういったご縁がありました。 山田)(育て上げネットさんは組む企業に)グローバル企業が多い印象があります。 工藤さん)そうですね。社会貢献やNPOと協働という話はグローバル企業が多いです。逆に若者への機会提供や採用という面では中小企業が多いです。 山田)若者が社会参加する出口として、国や自治体を含めた公的なところから、中小や大手までお付き合いがあるということですね。NPOと資本主義における超グローバリゼーションみたいなものは、対立する、といいますか、激烈な競争社会の原理が生き辛さを生むのではないかと思います。そのあたりは工藤さんの中でどういった折り合いをつけているのでしょうか? 工藤さん)実際に一緒に事業を組んだり対話をしたりすれば、同じ方向を目指せるとは思うのですが、やはり難しい時も当然ありますね。(若者支援のNPOを経営していた)両親は、それは良くないという信条を持っていて『もったいない』とか『どこそこの企業からこんな話があったけれど、やはりそれは受けない』というような話をしていました。 私は『何でだろう?』と思いました。皆さん良いパートナーですし、NPOが持っていない、お金だけではないものをたくさん持っていますから。 時代は変わりましたが、NPOは法人格としては信頼されていません。一方で皆さんが知っている企業と一緒にやることは、このNPOは大丈夫そうかな、という印象を持ってもらうこともできますし、たくさんの優秀なビジネスパーソンの人達がボランティアとかプロボノ(専門的なスキルの無償提供ボランティア)という形で助けてくださいますから。これらもお金では買えないものです。 NPOというものは市民力を高めていくことも大事で、例えば多くの人々に若者の置かれている状況を知ってもらいたいと思ったとします。SNSも使いますが、何万人といる企業の内部ネットでは『若者支援のNPOと一緒にこんな事業をやりました』ということを回すだけで、社員の方たちの中で若者の問題を社会問題として意識を持たれる方がたくさん増えます。そんなパワーはなかなかNPO単独では出せないので、(大企業さんとのコラボは)助かっていると思います。 【気軽に居場所などの支援につながれる若者が増えた一方で、格差社会が進展し、経済的余裕がなく、かつ虐待を受けているような家族関係に困難のある若者たちが増えてきた】 山田)いま工藤さんは設立して何年ですか? 工藤さん)ちょうど20年です。 山田)20年間、若者をサポートされて、新たな若者も増えていると思いますが、今の(若者たちの)状況はいかがですか?工藤さんが支援されている若者の特徴、変化や、普遍的な部分など。 工藤さん)いくつかあげるとすれば、NPOとか支援団体ということに対して心理的な抵抗感がものすごく低くなっているということですね。 今の若者は自分で調べてアクセスして来られるので、ご両親を経由してから本人と会うということもなくはないのですが、ネットでパッと調べて軽やかに来られて支援を受けられる方が多い印象です。 当初は『支援を受けるということは若者にとって重たいことだろうな』と思っていたのですが、あまりそのような感じはなく、自分の居場所に遊びに来られるようになっているのが、一つの変化かなと思います。 始めた当時は9対1か8対2で男性が多かったのですが、今は女性の方が多くなってきています。これが大きな変化の2つ目です。 3つ目はその子達を支える家族基盤です。経済的な余裕がない、お金がないというご家庭の若者。心身の虐待を受けていたり、ご両親が家族として機能できないような家庭にいたりする若者が増えたと思います。 山田)若者自身、自らSOSを発することも増えましたが、それを支えるご家族自体が大変な状況で、日本の貧困化も拍車をかけているのでしょうか? 工藤さん)事業としてプログラムに価格はつけていますが、本人はもとより、それを支払うことのできるご家族が少なくなってきています。そうなると誰かにお金を払って支援を受けるという費用負担型では成立しないというのは以前よりもずっと深刻化しているような気がします。 山田)行政や企業からの援助でその家族を支えていくようなものは可能ですか? 工藤さん)行政の場合は委託事業なので採択されても、若者一人を団体が受け入れたらいくら、という形で支援することはほぼできないんです。 【個人からの寄付や企業による問題解決が若者支援を支える形になってきた】 工藤さん)他の大きな変化でいうと、個々人が若者支援に寄付をするようになってきているという点です。20年前と比べてすごく変わりました。 山田)それはどうしてなのですか? 工藤さん)以前は自己責任論と家族責任論が主体でした。誰かが支えるのでなく、自分で何とかする。その先を公共がやるという風潮がありました。 公共もご家族もご本人も難しい状況になる中で、若者達が置かれた状況は決して自己責任でなく、社会の構造的な問題が生み出した部分であるということ。公共は万能でなく、すぐに動けないこと。その隙間を埋めるためNPO活動に寄付をしよう、という個人の方や企業の方が増えたのだと思います。 山田)認識が広がったということですね。ひきこもりもそうですが、本人がさぼったり甘えたりしているだけではない、周りがそのつらさの原因である、ということを企業側も少し分かってきたのですかね。 工藤さん)2003年の創業期に、問題についてご本人やご家族が小さな世界の中で語っていたものが、みんなが知る社会問題となった、というのは第一歩です。 その次に解決方法があるのですが、『必ずしも公共や企業だけができることではないので、みんなでやっていこう』とか、寄付もそうですが、世代が代わって寄付を出すということが特別高尚なものではなく『お互い様』になって来ていると思います。インターネットの存在もすごく大きいです。 山田)今、非営利活動法人(NPO)は世の中にたくさんある一方で、株式会社として起業される方も増えています。そういった傾向はどのように思われていますか? 工藤さん)すごく良いと思います。NPOであるがゆえにできないこともたくさんあります。資金調達もそうです。 一般的に、社会の信頼は株式会社の方がNPOよりあります。正直、法人格はどちらでも良いと思っているのですが、それぞれの法人格に、できることとできないこと、得意なことと得意でないことがあるので、社会問題の領域に株式会社という法人格で問題解決したり、価値を創造したりするステークホルダーが増えたのは、ものすごいことだと思います。 一方で『NPOは今後どうしていくの?』という点は、今後考えなければいけないことです。 【生きづらさを抱えた若者たちに対して「みんなで作ったお金を君のために使うよ」と言える仕組みづくりをしたい】 山田)NPOとしてどんな支援がまだ足りていないのか、それとも足りているのか、それを含めてどんなことをやりたいと思っていますか? 工藤さん)20年経って私がだいぶいい年齢になってきたというのもありますが、コロナ以降、比較的特定のNPOが大きくなって資金調達をした後にやれることを増やしていくということが、良くも悪くもできています。 逆に、従来どおり必要な人に色々とお願いしているけれど、なかなかうまくいかない、規模を大きくしたいけれど、しづらいところが出てきています。 ひとつのNPOで頑張るのではなく、全国にも仲間がいますので、資金調達だけではなく、協力してくださる企業、新しくチャレンジして良かったことを業界で分かち合うことに、残りの人生の一部を充てたいと考えています。 それぞれのNPO一人一人がやると非効率で、みんなでやった方が良いものは結構あると思います。それはインターネットが変えてきたものです。自分より年下の世代もいっぱい出てきているので、僕が父親の世代から受け取ったいろいろな恩や繋がりを彼らに還元したいです。 還元のあり方も、特定団体の経営基盤の向上であるとか、影響力の拡大といったものではなく、みんなでインパクト自体を大きくしていき、リソースをみんなで共有し合えるような還元でありたいと思っています。 山田)我々のサイト、メガホンの話ですが、まさに個々の団体の広告サポートというよりも、業界全体でソーシャルインパクトを出したいと思っていて、若者支援のプラットフォームとしてどんなものがキャンペーンできますか? 工藤さん)2つ以上の団体で自団体ではなく、その問題、もしくは当事者の方が前に出るような形で、問題を改めて社会化していくところに、応援という意味での資金を募ることができたら良いと思います。 その子を支えていくためのお金、例えば交通費であるとか、どこかへ行く時の旅費というのは、自己負担の原則みたいなのがあったと思います。ただ、それも負担できなくなってしまっている以上、やはり行政も出し得ない個人に対する資金のサポートを、複数の団体で寄付をいただいて、複数の団体にいるその個人に対して支援をしたいと思います。 そのためにはみんなでやらなければいけません。あの団体がお金をくれるとかではなく、『みんなで作ったお金を君のために使うよ』と言ってあげたいなと。言わなければならないなと思っています。 山田)YouTubeで見られる『令和の虎』というコンテンツ、つまり、その人の夢サポートスキームのような、何か『こういうことをやりたいからこのぐらい必要だよ』と可視化し、それに対して寄付する仕組みや基盤ということですかね。 工藤さん)最近ですと、フリマアプリで、社会参画が難しくても、自分で洋服を作ったり絵を描いたりしている若い子達を応援しています。 寄付自体をいただくこともそうですが、その子達の作品を買うということは、その子達にとって現金が入る、もしくは応援、自分の作品を認めてくれる人が増えるということです。この「繋ぎ」が本当にやらなければいけないことなのです。団体の経営を団体が頑張らなければいけない面はあります。 個々人の若者の頑張りを多くの人が応援できるようなものを繋げるような事業をやってみたいです。各団体に、作品がきれいに撮れるようなカメラとかライトなどの設備があると、作ったものがすごく良く見えると思います。 その設備も各団体が頑張るのか、 みんなで頑張ってひとつひとつの施設にちゃんと設備がある状態にするのかだと、僕は後者に挑戦したいです。 山田)ライブコマースですよね。 工藤さん)映像制作の場合も、その団体にたまたま映像編集のできる職員さんがいて、そこでたまたま支援者として若い子に教えていた、という構造から、みんなでネットを繋いでやる、という構造にしたいです。 みんなでやるからこそ本当のプロの人を呼んで、オンライン上できちんと学んで、それをみんなで作った作品としてみんなで世に出す。それが理想的です。みんなでやるということはプロの力をより借りやすくなるわけです。 むしろ積極的にプロの力を借りに行って、ある施設にたまたまいる職員のスキルに左右されないような環境を整備したいですね。 山田)良いですね。 ***** 工藤啓さんパート1の記事はこちら→https://note.com/shakainoad/n/n8409c3c5b60c メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録よろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門の広告会社です。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「資本主義やグローバリゼーションは、非営利団体NPOとは対立するものではないのですか?どう付き合えば良いですか?」工藤啓さん(認定NPO法人 育て上げネット理事長) Part②

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          社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「物心ついた時には非行少年や不登校生、障がいのある若者たち30人と暮らしていた」工藤啓さん(認定NPO法人 育て上げネット理事長) 書き起こし Part①

          工藤啓さん(認定特定非営利活動法人 育て上げネット理事長) 聞き手:山田英治(社会の広告社) 〜この記事は上記動画を書き起こしです〜 工藤さん)認定特定非営利活動法人、育て上げネット理事長の工藤です。私達は若い人達の就労支援や子供たちの学習支援、生活全般の支援を主に活動しています。 山田)育て上げネットを作ったきっかけを教えてください。 工藤さん)元々、両親が民間版の児童養護施設を運営しており、物心ついた時から不登校や非行、障害で悩む人々と共に生活していました。朝ごはんは30名ぐらいで食べ、夏休みのキャンプは100名ほどで行くような生活です。自立して生活できるようになると出て行ってしまうので、入れ替わりのある血の繋がらない家族のようでした。 地元の学校に行けなくなったり、家から出られなくなったりする若者達は、地元にいると苦しくなるため、東京など地元ではない場所に出ることが多いです。そういうことに理解のある家庭の若者であるほど恰好が付くため、特に東京に出やすいようです。 北海道から沖縄まで全国の5歳から10歳も上の人達と男女関係なく暮らしていました。彼らも不登校や障害を理由に、ひどい目に遭う地域に住まれていたのだと思います。 私は産まれた時からその環境だったので、小学生になるまでは他の子と違うことに気が付きませんでした。友達の家に行った時に、家族しかいないことに違和感を覚え、そのとき初めて自分の家が特別な家族形態だったのだと感じました。 山田)そういった状況に気がついた時に、何も疑問も起きず、反抗期というか、お父さんやお母さんに自分のことも見て欲しい、というような苛立ちはなかったですか? 工藤さん)私の両親は、自分の子どももそうですが、一緒にいる人達はある種のお客さんでもありましたので、両方ともかなり気を遣って見ていました。小学校3年生か4年生の時に、「お父さんお母さんのお仕事」という宿題が出されたのですが、自分の家の職業が分からず、先生に何と答えていいか分からないと助けを求めましたが、先生はそれを助けられず、結果としてその先生は飛ばされました。 山田)(笑) 工藤さん)これは何の仕事をしているかが分からない、名前がない、自分の家はそういうことなんだなと思った時、最初はややショックだった記憶があります。 初めて家業に自分が組み込まれたと思ったのは中学校2年生の時です。共同生活は早ければ中学校から始まるのですが、初めて自分の同級生が来たとき、学校の先生や部活の先生、両親から「こいつよろしくね」と言われたので意識しました。 一緒に暮らしている人間を支える側として周囲の期待があったので、初めて嫌な感情を持ちました。部活など、自分のコミュニティーで『どうして彼は一緒に住んでいるの?』といった話に何度も答えないといけないので、すごくストレスでした。 40年以上昔の話ですが、障害を持っている人も多くいたので、現在のように福祉の環境も無かったためか、家に投石されたり、『お化け屋敷』や『変な集団』などの心無い言葉を言われたりしました。それらが耳に入ると、両親の家、自分が住んでいる環境は一体何なのだろうと、言語化できないモヤモヤ感がありました。 山田)そのように工藤さんが成長された中、すんなりとNPOをお父さんと同じようにやろうと思われたのですか? 工藤さん)小学校6年生の時の文集ではプロサッカー選手になりたい、中学校の時は総理大臣になりたい、高校卒業時はジャーナリスト、新聞記者になりたいと書いていて、若者支援やNPOという選択肢は全くなく、具体的な筋道があったわけではありません。 山田)ちなみに、どうして総理大臣になりたかったのですか? 工藤さん)当時「SimCity」という街づくりのゲームに熱中していて、道路を線路にしたり、建物を建てたり壊したりを、自分の意志でできて面白かったのが1つの理由です。 もう1つの理由は、両親の「自分の税金がどれくらいかを知るために、日本は全員確定申告した方が良い」という話にすごく共感して、総理大臣になればそのようなルールが作れるのではないかと、本当にただそのように考えたからです。 今思うと、中学生ぐらいのとき、何かルールを変えるとか、ルールを作るっていうことが何となく好きになっていたのではないかなと思います。 30人でいろんな人と暮らすとなると、それなりに暮らすためには常にルールを変えていく必要があります。たとえば母親の場合は、「下に落ちているものは捨てる」というルールを作って、本当に落ちているものは捨てていました。 でも誰の落とし物か分からなくなったり、踏みつぶしたり、盗った盗らないというような小さな問題がいっぱい起きてしまうので、広めのルールは結構ありました。 障害を持っている人や何かが苦手な人とキャンプに行く時も、相応のルールが必要で、たとえば遊びで高いところに登ったら鬼からタッチされないようにするとか、このようなルールを変えたりすることが自然と身についていたのだと思います。 山田)でもその先はジャーナリスト志望になったのですよね。社会問題に向き合いたい、社会問題の啓発をして、世の中をより良くしたいといった意識があって、それで『ジャーナリストになりたい』ということになったのですか? 工藤さん)そこまで深く考えていないと思いますが、インターネットの無い時代でしたので、新聞とテレビが家に取材に来ると、翌日の黒電話の鳴り方がすごかったのですよ。 全国からの『うちの子供が』とか、『うちにいる娘が』というような電話ですね。皆さんどこに相談して良いか分からないし、調べようもない中、〇〇新聞に出たとなれば、次の日のあり方がまったく異常に感じました。特に子供にとって。 メディアって凄いなという話でもありますし、テレビや新聞の影響力が時代的に強かったのを自宅で体感していたので、記事を書くとか放送を流すって本当にすごいと思いました。それで高校の時には新聞記者とか面白いかもしれないと思いました。 山田)なるほど。ではその流れで、大学もメディア系に行かれたのですか? 工藤さん)成城大学のマスコミュニケーション学科に合格し、そこで2年間専攻していました。 【海外でソーシャルインベストメント(社会的投資)の考えにふれ、日本でも実践したいと思った】 山田)そこにはまだ若者という文字、若者支援という文字はないわけですよね?いつどのタイミングでやっぱり若者支援を、となったのでしょうか? 工藤さん)高校から大学に行く時に、サッカーを続けるかどうかをまず迷ったんです。高校もそれなりにサッカーを頑張ったつもりだったのですが、大学に入って部活をやろうかなと思った時に、そこでプロにはなれないともう分かるわけですね。 365日部活みたいな生活でしたので、プロサッカー選手になれないとなったら違うところを見ようということで、まずアルバイトをすごくたくさん楽しくしていました。そうするとお金が入ってくるので、海外に行ったことがなかったので、ふらっと1か月くらい海外に行って、その国の現地の人と一緒にサッカーをしていました。 何カ国かでそれをやっていたら、たまたまアメリカのシアトルで、台湾人と仲良くなって泊めてもらいました。英語はできなかったので漢字で色んなことを喋りました。当時流行っていたモーニング娘とか。その時に「どうして台湾ではなくアメリカで勉強しているの?」と尋ねたら、予想と違う回答で衝撃を受けました。 お金持ちになりたいとか、英語を喋れるようになりたいとか言うと思ったのですが、彼らは「いつ中国を含めた台湾という小さな国が有事になるか分からないから、アメリカに来て勉強や仕事をして市民権を得て、有事の際は家族を逃がす」と真面目に話していて、そんなことを同世代が考えているのかと驚きました。 そんな彼らと一緒にいたいと思ったので、翌日彼らの学校に連れて行ってもらい、入学の仕方を教わって、日本に帰国したあと両親に『日本の大学を辞めてアメリカへ行きたい』と言いました。両親に『なんでだ?』と聞かれたので、その台湾人と一緒にいたいということを伝えたら承諾してくれました。 当時、TOEFLで500点を超えたら語学学校を飛ばして入学できると言われていたので、試しに1回目を受けたら503点でした。その後は1年間ずっと500点を超えなかったのですが、許しをもらえて、アメリカに行って良いと言われました。 台湾人の彼らがビジネス学部だったという理由で、同じくビジネス学科の経営学科を選んだのですが、そこから周りにいる人達がメディアの話をする人からビジネスの話をする仲間に変わりました。これはかなり大きな影響があったと思います。 山田)そうすると通常ベンチャー企業ですね。ビジネスを立ち上げたいと思いますよね。 工藤さん)1年生や2年生だと就職活動の話をほとんどの人がしませんでした。夢物語でまず、こういうのを作る。それをお前は日本で売って、お前はお前の国で売って、という話をお酒を飲みながら盛り上がったくらいです。それでも業を起こすという話からしかスタートしない世界でしたし、そういう友人達でした。 日本の友人は就職活動で『やっぱり就職っていつかするのかな』とか『就活苦しい』と言っている時代に、アメリカの友人達はみんな起業と言っていました。 そのうちに若者支援という文脈がふと出てきました。日本はこれから若者支援だという話に偶然なり、ヨーロッパに行ったら自分の家業と似た世界があったのです。それで、帰りの飛行機で『起業しよう。だめだったら勉強すれば良い。』と思い、アメリカの大学生活が続く予定でしたが、帰国後に起業し、20数年経ちました。 留学当時、色々な起業の話をする時に『ある国では今これが流行っているけど自分の国ではどうか』という考えもあったのですが、ヨーロッパの友人から『日本も中高年のリストラ問題があるらしいじゃないか。ということは若者達が就職しづらい環境で就職しづらい若者が社会に出ればマーケットができる。今じゃないか?』と言われてヨーロッパに行ったのですが、それがなければここにいないと思います。 『日本でも若者支援のマーケットはできる。お前は日本人で、そんな世界の実家で生きてきたのだから、やる以外の選択肢はない。』という助言は自分では考えつかなかったです。いつもの飲み会の話で適当に投げた助言だとは思いますが。 山田)就職氷河期世代がもう世の中にいて、日本ではそういうことが社会問題になっているというのをヨーロッパの彼が知っていて、それがソーシャルビジネスの良いマーケットだと指摘したのですね。 工藤さん)でもその時はソーシャルとは言っていなかったんですよね、ビジネス学部だったので。ヨーロッパに行った時にその社会的投資という言葉に出会ったのを覚えています。investment(インベストメント)、投資は勉強したんですよ。ソーシャルの意味が分からず、それで『ソーシャルはどういう意味なんですか』と聞いたら、『社会が良くなったり問題を解決したりすることがリターンだよ』と言われました。 帰国後にしばらくして「ソーシャル」という言葉がすごく当たり前に使われるようになったので、あの時にソーシャルという言葉に出会ったのはラッキーでした。 山田)ソーシャルインベストメント(Social Investment)、日本語にすると社会的投資ですね。今でいうとSDGsを含め、インパクト投資とかですね。そういう意味では一般化してきていますけど、当時はそういう発想は『社会に投資するの?』という感じに捉えられましたよね。その他にも『リターンが何なの?』という具合で。 (工藤さん)その時はやはり分からなかったのですが、両親に『どうしてこういう仕事しているの?』と尋ねたら、『やはり本来一人一人の人生を豊かにできる存在が家に一緒に暮らしていれば、実際に働いたり生活者になったりしていく中で納税者にもなるし、その本来の力を社会に出すことを手助けしたいんだ』ということを言われました。 もしお金に直せば計算できるようなインパクトにはなるでしょうし、お金に直さなくても、そのように両親が言っていたことは、「ソーシャルインベストメント」という言葉をヨーロッパで聞いた時と近い感じで頭の中で結びついたと思います。 山田)家業でされていた若者支援とはまた違う若者支援だと思うのですが、工藤さんは当時どのように両親がやってきた支援と違うことができると思ったのですか? 工藤さん)一つは実家で暮らしている時、すごくたくさんの人たちが集まったりしてはいたのですが、ビジネスパーソンの人、例えば企業の社長さん、大企業とかの行政の方とかが恐らくほとんど来ていませんでした。そこで、いろんな人達が若者を応援しようという時にも行政や企業と繋がりのある「業界若者支援」を作ろうと思いました。 お金というものから逃げずに、もらうべき時はちゃんと『ください』と言わなければいけないですが、『払えない』という人に『じゃあ無理ですね』とも言いたくないので、その点、業界の中では他とは違うポジションをやれると思いました。 【社会的な事業で、「お金から逃げない」とはどういうことか考えた】 山田)そこで勝負しようということだったのですね。育て上げネットが2004年ですかね? 工藤さん)運が良くて、2004年の5月ぐらいに「ニート(若年無業者)」という言葉ができたんですね。それをすごくメディアも取り上げて、取材先探しが始まりました。 元々不登校とひきこもりという言葉の世界に支えられた若者支援だったので、目新しさの欲しいメディアの方々からすれば、立ち上げ間もない私たちの姿はまさに、学生ではないが自宅から通っているし「ニート」に映ったのだと思います。 それで、ものすごい取材があったのと、政府もそういう若い人達を支援していこうという動きを2003年頃からしていたこと、NPO(非営利活動法人)が活躍すべきであるという時代の流れ、若く起業した「若者」が互いに掛け合って、本来ありえない早さで政府の審議会や委員会が進みました。委員会にも呼んで頂きました。 いろいろな委員会の座長の先生からも可愛がって頂いて、自分たちの世界をそこで話しただけで、国の政策にその一文が入ったりしていました。 今は当たり前ですが、困っている若者本人が支援の場に来られない時は家族がアクセスするので、その家族を支援するというのも若者支援では当然なのですが、国の政策ではそうはなっていませんでした。 その話を国の委員会でしたところ、家族への支援が若者支援政策の中でできるようになったりしました。経済と向き合っていくぞと思っていたのですが、公共機関、行政、自治体ともきちんと話をしていけば、もっと広い世界、社会にも関わりや貢献ができそうだなと、26歳ぐらいの時に見えてきました。 官僚、霞が関という言葉で表現される人達と話に行って、本当にいろいろなことを考えられていると思った一方、行政の中だけではできないこともあって、民間NPOとして貢献できるところはあるな、というのは強く感じました。 2006年、2007年ぐらいにぶわっと生まれた、僕ら世代より少し下の「社会起業家」の人達が、社会をどうしていくかということと経済面を組み合わせた事業のあり方というのを注目していく中で、いろいろな情報が海外からも入ってきていたので、社会的な事業とお金から逃げないとはどういうものか、こうやってやるのか、こういう考えがあるのか、と当事者として考えられたことは非常にラッキーでした。 「社会起業家」というラベルが貼られただけで、誰も「社会起業家」になろうとは思っていなかったはずです。そんな言葉もなかったですし。良くも悪くも、ラベルが貼られたことで社会と事業の両方を組み合わせないと、という話ができました。 事業はどのように組めば良いのだろう、行政とはどう付き合って、企業とはどう付き合って、地域の人達とはどう付き合って、一緒にやっていくのが良いのかなという時に、いろんなセクターの人達と比較的仲良く話せたのは、家業が若者支援のNPOで、いろんな人達と一緒に生きてきたからだろうなと思いました。 両親から『この仕事をするうえで、お前の不得意と得意がある。まずお前はリーダーシップを持っているタイプではない。小学校も中学校も高校もサッカー部が副キャプテンで、力強く引っ張っていくタイプではない代わりに、いろんな人とコミュニケーションをとる能力がある』とよく言われていました。 『若者支援の業界で足りないもののうち一つが、行政ときちんと話をできること。一般的な企業とタイアップして仕事を作ることは多分お前に向いていると思う。逆に地域に入り込んで地道にやるとか、目の前のことを何時間もかけて話し合うのは支援のプロに任せた方が良い。お前は経営に向いているが支援には向いていないので、経営であれば若者支援を起業する芽があるかもしれない』とも言われました。 それには何となく自覚もあって、亡くなってはいますが、父親の「(向いているのは)支援者でない」という言葉は大きかったです。自分には支援できないかもと不安でしたので。 ―工藤啓さん パート2に続きます。―  メガホンchでは、様々な社会問題に向き合うソーシャルアクティビストの生き様にフォーカスしたドキュメンタリーをアップしています。もしご興味ありましたらチャンネル登録よろしくお願いいたします。 ★クリエイティブサポート付きクラウドファンディングサービスMegaphone(メガホン) HP https://megaphone.co.jp/ 私たちは社会テーマ専門の広告会社です。 株式会社 社会の広告社 https://shakainoad.com/

          社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「物心ついた時には非行少年や不登校生、障がいのある若者たち30人と暮らしていた」工藤啓さん(認定NPO法人 育て上げネット理事長) 書き起こし Part①

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          社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「認定NPO法人 育て上げネット理事長 工藤啓さん」 書き起こし Part①

          この記事はインタビュー動画の書き起こし記事です。元の動画は こちらからご覧いただけます。 物心ついた時には非行少年や不登校生、障がいのある若者たち30人と暮らしていた。 認定非営利活動法人 育て上げネット 理事長 工藤啓さん 聞き手 山田英治(社会の広告社) 工藤さん)認定非営利活動法人、育て上げネット理事長の工藤です。私達は若い人達の就労支援や子供たちの学習支援、生活全般の支援を主に活動しています。 山田)育て上げネットを作ったきっかけを教えてください。 工藤

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          社会の広告屋のメガホンch〜ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー「ただ排泄しているだけの肉塊だと思っていた/20年間のひきこもり生活」林恭子さん(ひきこもりUX会議)書き起こし

          ◆この記事は、こちらの動画の書き起こし記事となります。 誰もが生きやすい社会のために いろんな生きづらさがつながれる場をつくりたいひきこもりUX会議 代表理事 林恭子さん 聞き手:山田英治(社会の広告社) 林さん) 林恭子と申します。不登校やひきこもりについて当事者たちの声を多くの方に届けることや、支援のあり方をもう少し当事者のニーズに合ったものにしてほしいなと思って今の活動をしていて私は今幾つかの団体に所属して活動はしているのですけれども一番大きくやっているのがひきこ

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          生きづらさを抱えて孤立している、ひきこもり当事者への伝え方を、ひきこもり当事者のみなさんに聞いてみた!

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