見出し画像

VRが特別ではなくなったおはなし

かつて特別な存在であった”VR”は、特別ではなくなった。
このままでは語弊があるので言い直そう。

わたしにとって、かつて特別な存在であった”VR”は、特別ではなくなった。

かつての「特別」

子供の頃、親にねだって、新作ゲームソフトを買ってもらったことがある。それはとても特別で、非日常なことだった。
遊び飽きた、あるいは難しすぎた、肌に合わなかった、そんな理由で興味を失った古いソフトから、新しいソフトに乗り換えたとき、そこには紛れもなく新しく眩しい世界が広がっていた。

あれから20余年、新作ゲームソフトが欲しいと思えば、親にねだらずとも自分で買うことができる(妻にねだることはあるが)。セールで安くなっているゲームを買い過ぎて、プレイもせずに積んでしまってさえいる。あの頃を思えば、なんと贅沢なことか。
わたしにとって、「ゲームソフトを買うこと」は、それほど特別なことではなくなってしまった。わたしの、日常になった。

子供の頃、わたしの要望で、若しくは親の気まぐれで、映画を観に連れて行ってもらったことがある。「映画を観に行く日」、映画館へ足を運び、ポップコーンとコーラを買って、あの大きなスクリーンの前に座り、館内が暗くなると、ワクワクが溢れ出した。映画の予告編が始まり、包み込まれるような音響を感じると、ワクワクは最高潮である。例の映画泥棒のショートムービーも、これから始まる映画への期待を煽るのに一役買っていた。

あれから20余年、映画を観ることは……アレ、依然非日常のままである。これは単にわたしがあまり映画を観に行くことが稀だからであろうか……。「映画を観に行く日」のワクワクは健在である。……あ、じゃあこの話はいいや。

非日常と日常

わたしにとっての「ゲームソフトを買う」という、特別で非日常なできごとは、いつしか特別ではなくなった。

日常になったためだ。

もちろん、非凡な傑作をプレイすること、心動かされることは依然非日常であり、そんな作品に出会うために日々ゲームに勤しんでいると言ってもよいが、とにかくゲームソフトを買うこと自体は日常となった。

特別でなくなる、ということは、非日常が日常になるということだ。

非日常との出逢い

表題のVRに話を戻そう。

VR自体の解説等はここでは割愛する。ここでいうVRは、「VR体験」とか、「VR機器」とか、「VRゲーム」のような意味合いで解釈してほしい。

かつてわたしにとって、VRとは特別な存在だった。始めて体験したのは初回のBitSummitで、ハードはOculus Rift DK1だった。ゾンビのお客さんを乗せてタクシーを運転するゲームだった。そのときの衝撃は凄まじいものであった。
わたしは運転免許を持っておらず、自動車の運転はレースゲームや都市系のオープンワールドゲームの中でしかしたことがない。そのゲームでさえ運転が下手で、わたしの手に掛かった車は大抵すぐにスクラップと化す。
そんなわたしが、お客(ゾンビだが)を乗せて、タクシーを走らせ、無事(でもなかったが)ミッションを完遂したのだ!あのとき、確かにわたしは、自動車を運転していた。免許ないのに。

わたしは一瞬でVRの虜になった。

あれから8年程が経ち、わたしはいま「VR法人HIKKY」なる組織にエンジニアとして在籍している。VRSNSの「VRChat」、およびVRChat内で開催されたイベント「バーチャルマーケット」の縁だ。
遠隔地からのリモート職務ゆえ、ミーティングは音声通話、若しくはVR空間での対面ミーティングが日常である。
先述のVRSNS、VRChatもいまや日常である。もともとの性質でもあるが、このご時世であまり外出ができないなか、VRChatであれば、気軽にさまざまな世界へ、友人たちと遊びに出かけられる。
その他のVRゲーム、ソロプレイのゲームもする。ホラー 、RPG、シューティングなど、従来のディスプレイ表示型のゲームと区別することなく、日常的に遊んでいる。

わたしにとって、かつて特別な存在であった”VR”は、特別ではなくなった。
なぜなら、”VR”は、わたしの生活の中でごく自然な存在となり、ありふれた日常になったからである。

それは温かな日常

かつて特別な存在であった”VR”は、特別ではなくなった。
非日常であった体験は、いまや生活の一部となり、ありふれた日常となった。
かつて「ゲームソフトを買うこと」のように特別だった体験は、日常となり、特別ではなくなってしまった。

しかし、これはきっと、悪いことではないのだろう。
VRというものが真に市民権を得るためには、VRは日常にならねばならない。
あの頃の胸の高鳴りを思い出すと、寂しい気持ちもなくはないが、きっとそういうものだ。激しく胸焦がす恋は、やがて安らかな愛になり、温かな日常をもたらすように。

「バーチャルで生きていく」を体現する者が増えていくことで、やがてVRは地球の日常になっていくのだろう。

かくして、わたしのVRは、日常となったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?