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静かな世界で平和に暮らしたい

 僕はもっと静かな世界で平和に暮らしたいと思う。もっと毎日を大切に生きたいと思う。変化の激しいこの世の中で生き続けることはなかなか難しい。その変化を受け止めて、時にはするりとそれをかわしてうまく生きていくことも必要になる。でも僕はそれがあまり上手くできない。僕はもっとまっすぐに生きていたいと思う。もっと単純で純粋でいたいと思う。なのに、世界は今の僕にそうさせてはくれない。いや、本当はこの世界が悪いわけではない。悪いのは僕の世界に対する向き合い方なのだと思う。僕の世界にとって変化というのは必要条件ではなく、十分条件だ。でもね、それだけじゃないのも確か。僕は変化を望まない一方で、新たな刺激を日々求めている。平凡なんてつまらない。もっと多くの変化と感動を渇望している。でも、できるだけリスクは負いたくない。なんて僕はずるい人間なんだろう。
 僕はたまにこんなことを考えることがある。この世界の人々にもっと他人を思いやる心があって、他人に対する想像力をもっと働かせれば、世界から争いという争いがなくなって差別もなくなって、もっと多くの人が幸せに暮らせると思う。でもね、それが正しいかって言われたらわからない。これはあくまで僕の希望であって、世界の希望ではない。自分の思想を正しいと信じて、自分の意思をまるで世界の意思のように振る舞うのはひどく危険なことだ。僕たちに必要なのは対話なんだと思う。他人に対して思いやりを持ったり、他人に対する想像力を働かせることにはある程度の限界があるように思う。自分のことも理解できないのに増してや他人のことも理解できるなんてことはありえない。もし理解しあえているという感覚があったとしても、それは自分の世界にいる相手を理解しただけである。あくまで、それは虚像に過ぎない。実体ではない。じゃあ僕はどうすればいい。僕はどこを目指していけばいい。どこに向かえばいい。
 人間と言うのは、人生というのをなにかと例えたがる。それは山あり谷ありの人生であったり、行く当てのない冒険であったり、自分の職業を例えに出す人もいるだろう。僕はそのなかでも人生を道に例えたいと思う。僕の経験上、自分の人生を道に例える人は多いように思う。ありきたりが嫌いな僕にとって、ありきたりなレールに乗るのはあまり気が進まないが、僕はこの例え方がしっくりくる。19年という年月は人生を語るうえであまりに短いようにも感じるが、それはあまり関係ない。だって、この道がいつ途切れるかなんてわからないから。それは地震や津波と言った自然災害かもしれない。それは他の道のせいかもしれない。それは道を作る許可が下りないからかもしれない。あらゆることが僕の道をふさごうとする。道があれば、右にも左にも曲がることができるし、上がり下がりもできる。ただ人生を道に例える上で1つだけ不満がある。もしも人生を道に例えるならば、なぜ標識がないのかと思うわけだ。自分の向かいたい場所の方向とそこまでの距離を明確に示した標識なんかは僕の道には存在しないように思う。もしかしたら僕が見落としているだけなのかもしれない。もっとゆっくり歩けば見つかるのかもしれない。とにもかくにも、僕はこれから先も今日という日を噛み締めて毎日を過ごして生きたいと思うわけだ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。 皆様から頂いたサポートは今後の自己研鑽のために使わせて頂きます。 僕の書いた文章で何か少しでも感じていただけたら、僕にとってこれほどうれしいことはありません。