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ジャパニーズ ギャルの大研究

はじめに

私が初めて「ギャル」という言葉に重く触れたのは、高校生の時だった。学校の図書室で上野千鶴子の『セクシィギャルの大研究』を読み、その時に1982年発行という表記を見て、随分と昔からギャルという言葉が使われていたことを知った。しかし『セクシィギャルの大研究』から40年近くが経ち、当時使われていた「ギャル」という言葉の指す意味は大きく変わり、膨大なコンテクストを背景にもつビッグワードとなった。特に2010年代に、ギャルは大きくその形を変えた。死を宣告されたこともあったし、様々な再定義が試みられたこともあった。例えば過去のWWDを漁ってみると、2014年Vol.1820号で、渋谷109のラブボートが閉店しリップサービスを手掛けるオルケスが民事再生法適用申請を受けたというニュースを受け『ギャルはどこへ!?』というタイトルでギャル絶滅特集が組まれていたりもする。

一方で、どこからどこまでがギャルなのか、誰がギャルで誰がギャルでないのか、というギャル定義への言及が散見されるようにもなった。変容し続けるこの「ギャル」という概念に対し、近年よく耳にするアンサーの傾向として“マインドへの帰結”がある。ギャルは見た目ではなくマインド、というある種の定義は、みちょぱの発言egg編集長の発言にも見ることができるが、果たして本当にそうなのだろうか。もしそうであるならば、一体そのマインドが指すものとは具体的に何なのだろうか。2020年のいま、「ギャル」の指す意味の解像度を上げる――それが本論の狙いである。

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※今最も勢いのあるモデルの2人。白ギャル代表・egg専属モデルの伊藤桃々(左)とegg専属モデルを経て2020年4月からnuts専属モデルになったぴと(右)。Instagramではともに伊藤桃々が37.2万人、ぴとが20.3万人のフォロワーを抱える。(2020年4月4日時点)

リスペクトの対象――ギャルの“ズレ”と“盛り”

不思議なことがある。人は見た目が派手な女性を形容する際に「あのギャルっぽい人」という表現を頻繁に使うが、一方で形容された本人にギャルか否かを問うと、大多数の人は「私はギャルではない」と言う。「他称ギャル」は多くいるものの、「自称ギャル」はほとんどいない。他人のことは軽く「ギャルだよね」と言えるのだが、自分のことになると「私、ギャル」と言えないこの不思議な現象は、いったい何が捻じれた結果起こっているのだろうか。  

そもそも、ギャル論というのはなぜだか取り扱い注意の案件である。リアルやネット問わず、「ギャルはまだ生きている」と言うと、「いや、ギャルはもう死んだよ」とか、「ギャルは形を変えて残り続けてる」とか、「文化としてのギャルは絶滅したんじゃないの」とか、それはそれは様々な意見が寄せられる。ギャルとは、なぜかくも人々の興味を呼び考察・分析の対象にされるのだろうか。皆、ギャルについては一家言あるらしい。ギャルについての書籍や論文も多く見受けられ、「egg」や「小悪魔ageha」や「Happpie nuts」らの伝説のギャル雑誌が復刊・休刊を繰り返す度に大きいニュースとなり、数々の「ギャルは死んだのか論争」を呼ぶ。

あくまで見た目のファッションやメイク、ヘアアスタイルに限って言うと、前述した通り、その歴史においてギャルは多くのジャンル派生を生み青文字原宿系も姫ロリータ系も日焼けサーファー系もLAセレブ系も取り込んで(時には自己否定をも繰り返しながら)領域を拡張させてきた。だからこそオリジナルのギャルからは遠いギャルファッションも生まれ、表層的には「ギャルっぽい」と言われる人は増え続けてきたものの、本人にとっては「私はギャルではない」という自意識が共存していたりもする。その背景として、ギャルという言葉が指すイメージと自分が一緒くたにされることに違和感を覚える“ギャルネガティブ派”が一定数いる一方で、興味深いことに、「私は真性のギャルではないのでおこがましい」という、“ギャルリスペクト派”もいるということを忘れてはならない。そこには、「ギャル」という言葉が指し示す概念として、一般的に「=チャラチャラしていてバカで下品」という極めて類型的なネガティブイメージがあるのと同時に、ギャルのコア圏に接近すればするほど「=情に厚く自分の正しいと感じたことを覚悟をもって貫き通す」「からこそのあのファッションが成立している」という、概念のズレが生じているのである。だからこそ、ギャルの本質を“分かっている”者たちの間にあるギャル・リスペクトの内実を明らかにし、その概念を一般層にまで滑らせていくことで、ギャル理解を促進させる足しにはなるかもしれない。が、理解された瞬間から、ギャルはまた大衆の手をすり抜けまた新たなギャル像をつくっていってしまうのだろう。理解の及ばない地点へと自らの立ち位置をズラし続けていく、その変容性こそが、ギャルをギャルたらしめている。

そう、ギャルとは、カウンターなのである。常に本流から外れ、極端に走る者としての。本流から自らをズラし、変化に応じてその在りようをいつもいささか過剰な方向性へ――彼女たちはそれを“盛(も)り”と呼ぶ――転がし続けていく存在としての。

記憶

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※出典:https://cities-nightview.org/blog53

2000年代半ば、ガングロギャルが姿を消し、渋谷109が新種の白ギャルに占拠されていた(らしい)頃、私は大阪で、関西ギャルの聖地である心斎橋OPAで急激に変容し続けるギャル文化を目の当たりにしていた。当時のフロアマップなど残ってもいないし、インターネットの海を探しても見つからないのだが、比較的下のフロアをLOWRYS FARMやJEANASIS、E hyphen world gallery、WORLD WIDE LOVE!等のカジュアルブランドが埋める中で、エスカレーターをひたすら上り続けた5階に、爆音のBGMとともにSLYが、moussyが、EGOISTが、煌々と存在していた。大阪においてはとにかくその3ブランドが、当時全盛だった白ギャル(≒お姉ギャル)を代表とする“かっこいいい”ギャルブランドとして確固たる地位を築いていたと言ってよいだろう。当時渋谷109でもEGOISTは月の坪効率1,212万円という記録を叩き出しており、ギネスブックの審査待ちだったとのこと(WWD Vol.990 より)。どうやら状況は東西でそう大差なかったようだ。

ただ、御三家ブランドを中心としたお姉ギャルファッション周辺の見取り図は、すでにその時点でやや複雑な様相を呈していた。脱小室プロデュース以降B-GIRLに振った安室奈美恵をはじめ、AI、BENNIE Kらが着用していたbabyShoopやLB-03等のB系ギャルはお姉ギャルと多少の接近を見せていた。一方で、LIZ LISA等の姫ギャルやCOCOLULU等のサーファーギャルはギャル内異ジャンルとして同族意識を認め合いつつも、それらファッションがクロスオーバーすることはほとんどなかった。興味深いのはCECIL McBEEで、人気を得ながらもセルアウト・ブランドとして多少の嘲笑を受けていたように記憶している。当時ギャル達からは、CECILを着ながらも「とは言えSLY、moussy、EGOISTがかっこいい」という矛盾を孕むスタンスが観察された。

心斎橋OPA5階の記憶は、爆音のBGMだけではない。その中で、黒×ゴールドの、客を威嚇するにはこの上なく強い世界観が作り込まれ、気合いの入った掛け声で接客するカリスマ店員がうろうろするムードは異様なものであり、やわな気持ちでフロアに踏み込んだ人は「ここはガチなやつだ」と後ずさりしてしまうような熱気を放っていた。その後ずさりは、単純に「こわい」ということだけでない、何か「私はこの人たちほど本気じゃない」「この人たちほど何かに賭けてない」という類いのものでもあり、それはスリムなmoussyのデニムを履きこなしていたとしても、ESPERANZAのそびえ立つヒールで高い音を立てて歩いていたとしても、VO5を駆使してヘアトップに信じられないくらいのボリュームをつくっていたとしても、ピエヌのアイラインで目元をぐるっと囲んでいたとしても、なかなか太刀打ちできるものではなかった。

2000年代半ばである。カルチャーに目を向けると、ポストロックが出尽くし焼け野原となったところにFranz FerdinandやArctic Monkeysが出現し、エモも盛り上がりを見せ始めていた時期で、Daddy Yankeeがレゲトン旋風を起こし、Sean paulやLil Jonがダンスホールレゲエだクランクだとやっていた時代である。小難しいことはなしに、とにかくエモとダンスが必要とされ始めていた。映画は巨額の制作費をかけた大作――ハリーポッターやパイレーツ・オブ・カリビアン、ロード・オブ・ザ・リング――がヒットし、アンダーグラウンドでは青山真治「ユリイカ」デヴィッド・リンチ「マルホランド・ドライブ」以降のシーンでいくつもの才能が開花しつつも、どこか好事家だけに閉じられた世界になりつつあった。細分化され地下に埋まった芳醇な世界と、ポピュリズムに傾き始めつつあった地上の世界。心斎橋OPAの5階は、そんなムードの中で、地上でもあり地下でもあり、そのどちらでもなくどちらでもあり、気合いと覚悟でそれらを串刺ししていた。

ある時、長らく店舗の入れ替えが起こっていなかった心斎橋OPA5階に、当時『vivi』や『S cawaii!』で扱われ109でも人気のMAISON GILFYが出店した。OZOCもMaterial GirlもSHAKE SHAKEもKAPALUAも一通り有名なギャルブランドは大阪でも全て店舗をかまえていた中で、MAISON GILFYは“最後の刺客”として109からやってきて、そこでついにあらゆるブランドが「出揃った」という感覚があった。地方都市で「出揃った」というのはつまりキャズムを超えたということで、次なる新しいトレンドの誕生を意味している。その通り、時を同じくして、ギャル文化と水商売文化が接近し始め、『小悪魔ageha』からage嬢という亜流ギャルが生まれはじめてもいた。縁遠いはずのmoussyとJESUS DIAMANTEがここで出会うこととなり、ももえり、さくりな、武藤静香らが注目を浴び、ギャルも広範囲に散り散りになっていった。心斎橋OPAだけでは、広がり続けるギャルの定義を抱えきれなくなってしまったのである。2000年代終盤のことだ。

その後、2010年代に松本恵奈がEMODAで新たなギャル像を打ち立て、MURUAらとともにMARK STYLERムーブメントが起こることなど、その時はまだ知る由もなかった。

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 ※2010年代に入り新たなギャル像を担っていったEMODAとMURUAのMARK STYLER勢。同時期に、別軸で原宿青文字系と渋谷ギャルのクロスオーバーも起こる中、MARK STYLER勢はmoussy等のBAROQUE JAPAN勢がつくった00年代本流ギャルの流れをベースにさらなる洗練の方向へと昇華させていった。今振り返れば、年齢層上めのポストギャルを中心に起こった2010年代後半のハイブランドMIXコーデトレンドの下地を整えたとも言えるかもしれない。(写真はMURUA×EMODA 2017AWコレクションより)  出典:https://www.mark-styler.co.jp/news/2017-autumn-winter%E3%80%80“me”-collectionにて-muruaとemodaの最新コレクションを発.html

ギャルの“ガチ”と“ベタ”

90年代のギャルはエクストリーム化していき、ガングロギャルを経て、最終的にヤマンバやマンバを生んだ。当時様々な解釈がなされたものの、あれから20年以上が経ち、ジェンダー文脈での再評価が進んでいる。例えばそれは、異性モテに対してのカウンターとして、ジェンダーの揺らぎとして、今の時代の価値観をはるかに先取りしていた革命的なカルチャーだったと言ってよいだろう。当時の社会は、ジェンダーの錯乱に対する示唆を冷静に感じ取るほどの感性を持ち合わせていなかったし、だからこそ彼女らに奇異な視線を向けるしかなかった。案の定、その後2000年代に入りメインストリームは『cancam』の時代に突入し、コンサバへの揺り戻しが起こる。辛めギャルはその中で、モテ系やお姉系に多少取り込まれながらもぎりぎりのところで踏ん張っていたし、心斎橋OPAの5階には彼女らの信念に賭けるガチな空気が充満していた。

2010年代に突入し、気がついたら社会ではジェンダーに関する問題提起が盛んにおこなわれるようになり、異性モテの価値観は後方に追いやられ同性モテが随分と叫ばれるようになった。いや、そもそもジェンダー文脈に限らず、ギャルの先進性というのは様々な範囲で見て取ることができるのではないだろうか。読者モデルブームに火をつけたのはギャル文化だったし、その読者モデルは、今のように女性起業家が増えるずっと前から次々と起業してアパレルブランドを立ち上げていた。モデル/代表取締役社長/DJ/インフルエンサー…と、様々なジャンルを横断し活動するギャル達は、いわゆるいくつもの肩書を持つ“スラッシャー”のハシリであったとも言える。自分のやりたいことを好きなように、ガチにやり通すからこそ、彼女達は先にいけるのかもしれない。

自己紹介サイト「前略プロフィール」からブログに至るまで、ギャルはインターネットを駆使しての自己発信も独自的かつ先駆的だったと言えよう。その後数多のインフルエンサーが自らをSNSで発信し「いかに自分が見られているか」を戦略的に設計するという“メタの時代”になった際も、空気を操りながらのほのめかし/漂わせ系自己演出が増える一方で、ギャルは「こんなに盛れている私を見て」という直球ストレートで“ベタ”な自己アピールを貫いてきた。ある意味時代錯誤だったかもしれないその態度は、しかし時代が進みメタがスタンダードになったところで、ベタ性の持つ気取らなさが新たな価値として受け取られ始めている印象もある。

ズレと盛り、ガチとベタ。この4つこそがギャルの必要条件であり、脈々と継承されるバサラ的な日本文化を現代にアップデートさせ生きる女性たちの特性である。そして彼女たちは素直に生きることを通して無意識的に新しいライフスタイルを生み出しているからこそ、多くのリスペクトを受ける。2020年にもなり、赤文字系も青文字系も接近し、一見してギャルか否かを判別することは難しくなった。しかし、ズレと盛り、ガチとベタを持ち合わせている真のギャルは実は今もあらゆるところに生息しており、そういった見つけにくい真のギャルこそ、コミュニティ内ではリスペクトの対象となっている。


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  ※上から2008年1月号、2007年11月号の「ViVi」。2010年代にお茶の間を席巻するハーフタレントに先駆けて、ギャルコミュニティでは早くから長谷川潤や藤井リナといったハーフ系モデルが人気を博していた。  出典:https://www.vivi.tv/post21664/

終わりに

前述の伊藤桃々、ぴと等のegg/nutsモデル系、植野有紗や佐々木彩乃といったネオギャル系、とくみの、前原千絵等のアパレル系、他にも、華、みちょぱ、ゆきぽよ、れいぽよ、等のぐるっとまとめての令和ギャル達は、皆がそれぞれ今の時代を自由に生きている。ただ、今のリベラルな空気をつくったのは、2000年代の、コンサバや異性モテといった時代の逆風にも負けず何かに賭けるように生きていた心斎橋OPA5階のギャルたちのおかげだと、私は記憶をたどりながら今改めて思っている。あれから20年近くが経ち、moussyはもう別のブランドになってしまった。その座にはいまGYDAが君臨している。しかし、GYDAのデニムを履いて街を闊歩するギャルたちを見るたびに、私はmoussyのデニムが吊るされたあの心斎橋OPAの5階を思い出し、胸が熱くなるのだ。

ギャルは、死なない。恐らくどんな逆境でも。



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