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なぜ子離れはこんなにも難しいのか


先日、わたしの目標とする「子離れ」について書いた。

「子離れ」

いうはやすし、おこなうはかたしである。

だからこそ、肝に銘じようと上記noteを書いた。自分への戒めとして。

しかし、なぜ子離れはそんなにもむずかしいのか。

「親子の愛」についての話をするつもりはない。それはだれかに任せたい。

子離れの難しさは母親の性格とか、資質で片付けられない問題があると思うのだ。そのことを少し書いてみたい。

子離れがむずかしいのは、子育てがズバリ「滅私奉公」だからだ。

子が生まれたらまったなし。つねに「子」を第一に、自分を二の次にしなければならない。生まれてから2年くらいのあいだは、食事とかトイレとか睡眠といった生理的欲求さえ思うように満たすことができない

とにかく、自分を自分たらしめるもの(=アイデンティティ)は、怒涛の子育て期にはほぼ消滅する。たとえば、仕事が大好きな人でも、仕事に自分のキャパを全振りするのは不可能だ。わたしの場合、それは「翻訳」だった。1歳10カ月ちがいの幼児ふたりを育てていると、翻訳などしている精神的余裕も時間的余裕も肉体的余裕もまずない。いわんや娯楽や趣味をや。

でも、子どもを作ったのも、産んだのも自分なので、アイデンティティなどいったん忘れたふりをするしかない(完全に捨てなかったのは幸いだった)。

そうやって滅私奉公、すなわち子や家族以外の自分の大切なものを放棄して長いあいだを過ごす。無償の愛とか、母親のつとめとか、献身を当然視され続け、それと地続きにやがてやってくるものが反抗期、そして「子離れ」なのだ

社会、世間、子自身が母親に求めるものは、子を産んでから20年足らずのうちに極右から極左ぐらいベクトルとして真逆のものになる。最初は滅私の献身、最後は完全なる不干渉(無関心ではない)と。これに適応するのはそりゃあ簡単であるはずがない。

だから母親たちは、いま育児で疲れ切っていようとも母や妻であること以前の自分にとって大切なことをどうか完全になくしてしまわないようにしてほしい。子離れ後に「虚ろ」にならないためには、それしかないと思っている。





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