見出し画像

なるほどわからん

東十条に巡礼したあとに、これから福島に行くというエキベンを見送りに東京駅まで電車に乗った。

電車の中吊りに「欲しい欲しい欲しい」と書かれていて、「なんだねそれは」と思ったのだが、なぜ欲しいのか特に説明されておらず、なるほどわからんと思ったのである。

酒を一度やめてみてから、再び飲むようになってみると、どうも酒に弱くなったような気がする。

緩急が大きすぎると言うか、明晰と酩酊のコントラストが強いと言うか、とにかく、人間は知能指数を上げ下げすることにもっと注意を払うべきと思ったりするのである。

昨日は巡礼中にスマホで書いたエントリにおっさんどもがたかってきて、細かいディティールに対する突っ込みも来るだろうなと予想はしていたが、そんなものは読む側のリテラシイの問題であって、1990年だろうと2010年だろうと後世の人から見たら大差ない。IBMの誕生を1890年とするか1911年とするかでそんなに大きな違いがあるか。1911年は法人を登記した年ではあるが、ホレリスのタビュレーティングマシンは1890年のアメリカ国勢調査のために使われた。まあ実際は1888年に発明されたようだ。

要するに、年代のディティールなどほとんどどうでもいいのである。これは酔っ払いの戯言であって細かなことを気にする人はジジイしかおらず、ジジイには未来などない。オレが言いたかったのは、時代の寵児だった電信技師が仕事を失っていったのと同じことがプログラマアにも起きるということだ。電信技師にとって1836年のオルターの電信機の発明は重要かもしれないが、いまを生きる人にとってはどうでもいいということである。それが1836年だろうが1636年だろうがなんの意味があろうか。

だって20世紀というのは、すでに20年も昔のことなのだ。1995年は、もう四半世紀も前だ。そんな時代の記憶は、もはやほとんど意味がないのである。

にもかかわらず四半世紀も昔と同じような浅い認識がプログラマアやエンジニアに蔓延っていることをむしろなんとなく心配しているのだ。

おれがハタチだったころ、もう四半世紀も昔だが、頭の固い先輩方に当時の最新プロセッサで行列演算を整数化する意味がなぜないのかを説明したのと同じようなことを今は同じくらいの若いやつに説明しているのである。人生とはなんと虚しいものだろうか。

人間とは想像よりも遥かに頭が悪い生き物なのだ。悲しいほどに昆虫的な思考しかできないものなのである。つまり、「AならばB」という経験もしくは知識が、少なくとも数年は通用すると思い込んでいるのだ。それが通用するのは、すくなくとも数百年は時代を経たものだけである。たとえば数学とか。

ここ最近、ほんの数十年で出てきた概念は、十分な検証などされておらず、それが有効なのかも無効なのかもわからない。コンピュータのアーキテクチャなどはその最たるもので、たかが一世紀くらいの歴史しかない。

アーキテクチャは、およそそれがどんなものであろうと、ある種の哲学の表明である。故に正しいのか間違っているのかはだれにもわからない。

たとえばLISPかFORTRANか、は、一種の哲学の表明であり、せめぎあう2つの潮流である。銀河大百科事典を編纂するファウンデーションの如き構造だと言える。

ただ、われわれは少なくともこの一世紀のあいだ、知性というものを根本的に勘違いしていた可能性が日々強まってきている。ひょっとすると5万年間くらい勘違いしていた可能性もある。

そうすると些細なことはほんとうにどうでもよく感じる。

CPUアーキテクチャがなんだというのだ。それはもう、なんでもないのだ。

1950年代にミンスキーらが敢えて「人工知能研究者」と呼び直した人物たちは、もともとはゲヱムやアセンブラアやコンパイラアの開発者だった。

なぜ敢えてその「呼び替え」が必要だったかと言えば、哲学として追求するものが、商売か知性かという区切りとしてあったのではないかと僕は考えている。

つまり、コンピュータアというものは、便利すぎたのだ。便利すぎるがゆえに容易に商売の道具になり、商売の前にはしばしば哲学はないがしろにされる。僕が知る限り最も醜いと思っているドグマは「指先から情報」であるのだが、そのドグマを掲げていた会社は今も世界で最も金を稼ぐ会社の一つである。これが奇しくも商売と哲学が、実際には全く相容れない存在であることの証明だろう。

でも「指先から情報」って、なんだよ、という話である。何も言ってないに等しい。そんなもの、「毛先から情報」だって嘘にはならない。「爪先から情報」でも一緒だろう。

爾来、僕は基本的には自分が生きている間のことにはあまり興味がないのだ。

大事なのは未来を見通すことだ。未来を見通すために、なにが必要なのかを常に考えることである。

我々が知性についてずっと勘違いしてきたと仮定すると、知性というのは人類が陥ったメタボリックシンドロームのようなものである。

要するに、知性というのは、もっとシンプルでよいのである。

先日、とある場所で凄く小さな講演会をしたのだが、そのなかで、ニューラルネットワークはアルゴリズムを超越し、ほとんど無用のものとするばかりか半導体まで無意味なものにするだろうという話をした。ニューラルネットワークがアルゴリズムを超越しつつあるのはもはや明らかであり、ニューラルネットワークそのものは動作に必ずしも電力すら必要としない。実際に回析格子で作られたニューラルネットワークでImageNetの1000クラス分類ができることまで実験で確かめられているのだから、これからは半導体とかコンピュータアとかに頼らなくて良くなるしたぶん人類は宇宙の果てにまで活動範囲を広げることができるだろうと説明した。

のだが、聞きに来た人達がほとんど理解を示してくれなかった。

僕としては、ひとつのものが2つあれば、それは2つである、という程度の説明をしたつもりだし、エビデンスも示したが、どうも人の持つ想像力というのは絶望的なまでに乏しいようである。人は目の前に真の解答を示されても、それが解答であると認識できないということを改めて理解させられた。それは残念ながら僕自身にも言えることで、僕とて目の前に示された解答が見事であればあるほど、それを理解するのに何十年もかかったりするのである。

人間の寿命は有限なので、理解したときには手遅れだったりするのだが、ニューラルネットワークの寿命は無限だから、これはもう確実にアッサリと人間を超えるのである。ただ、別の疑問もある。これほどまでに簡単なものが、なぜ今まで発見されてこなかったのか。ひょっとするとそこにこそ宇宙の真理が隠されているのかもしれない。それ以上考えるのは怖いのでこのへんでやめておくが、それくらい、もはやアーキテクチュアについて考えることは意味がないのだ。

悲しい。僕はアーキテクチュアがなにより好きなのに。

センキュー!
21
ハッカー / サークル「shi3zのメディアラボ」→ https://note.com/sh3syuran/circle

こちらでもピックアップされています

shi3z note
shi3z note
  • 176本