教科書に載る文章は、もともとよくわからないものもあるけど、ほとんどは編集時の改変によって意味不明になっているのではないか。

と、思うことがよくある。

私は教材研究をするとき、まずは本文を読みながら、考えを書き出すことから始める。教科書の一文一文に対して、コメントを付けていく。

いぜん次の記事を書いた。

ここで素材研究と書いた部分である。

教科書会社の作ってくれている本文データを適当に加工して、表にする。2列の表である。左の列には本文のテキストを、ひとつのセルに1〜3文程度ずつ書く。右の列には、左の列のテキストを読んで考えたことを書き込む。

松浦寿輝「映像文化の変貌」という〈教科書教材文〉の冒頭

ほとんどの〈教科書教材文〉が、私にはよくわからない。意味不明なことが多い。何を言ってるのかぜんぜん理解できない。

これには3つの可能性がある。

  1. 私の読み方が下手すぎる。

  2. 筆者の書き方が下手すぎる。

  3. 編集でわけわからんくなってる。

もちろん、私はまず「1」を疑う。自分をコントロールするのが一番早く、また、有意義だと考えるからだ。だからワケがわからない部分は、とにかく何度も読み直し、コメントをひたすら書く。いろんな可能性を検討する。

これでわかることもある。

しかし、それでもよくわからないことがある。このとき、私はすぐに「2」を疑いたい気持ちをグッと堪える。まずは、メディアとしての教科書を疑うべきだ。

教科書は、編集されたアンソロジーである。だから、もとの文章が完全な形で掲載されているとは限らない。

例えば、松浦寿輝氏の「映像文化の変貌」である。教科書は東京書籍『現代の国語』だ。

教科書の文章はよくわからない。説明不足な感がある。論証も十分ではなく、ところどころ飛躍があるように感じる。コメントを書けば書くほど、違和感を感じる。

例えば、〈エッフェル塔が空虚だ〉と説明される。同時に〈イメージは空虚だ〉と説明される。現実のオブジェ(もの)と違って、「空虚」だとされる。では、現実のエッフェル塔は空虚なのか? だとしたら、なぜそう言えるのか? かなり読者の側で補足して読まなければ、筆者の言う「エッフェル塔」、「イメージ」、「現実のオブジェ」の関係性が見えない(がんばって好意的に読めば、見えなくはない。しかしそれでいいのか?)。

こういうときは、出典をあたる。『文化としての20世紀』(東京大学出版会、1997年)である。検索すると、公開講座をもとにした本のようだ。著者も多い。

この時点で、この本の文章がそっくりそのまま載せられているわけではないことがわかる。公開講座の内容が、たかだか教科書数ページに収まるはずがない。だから、教科書掲載時に、かなり編集が加えられているはずである。

ここまで確認して、指導書を見る。やはり編集されている。しかもかなり削ったり、表記を変えたりしている。指導書には、「教育上の配慮」とか、「指導上の配慮」によるものだとある(p.180)。

しかし、この「配慮」が適切かは判断できない。もとの文章を確認せねば、判断できない。

学校の図書室には蔵書がない。近くの図書館にもない。やや大きめの図書館には行く暇がない。

だから、買う。届いた本を確認すると、なぜ現実のオブジェとしてのエッフェル塔が「空虚」であると言えるのかが、かなり具体的に説明されている。この部分がすべてカットされている。これではわからないはずである。

エッフェル塔についての記述は、いわゆる「具体例」であるのかもしれない。「筆者が主張したいのは、もっと抽象的な何かである。だから、エッフェル塔についての具体的な記述は、最低限でよい。」このように考えられるのだろうか。

私はそんなことはあり得ないと思う。指導書でも次のように説明されている。「この文章の内容は、その二年前に刊行された『エッフェル塔試論』の内容を、大幅に踏まえている。同書は、「イメージ」としてのエッフェル塔を歴史的に検証した、筆者によれば、その「多義的な記号を...徹底的に読み尽くそうとした試み」である」(同所)。まさにこの文章は、「エッフェル塔」について書かれた文章なのである。

抽象的な主張の羅列を読むだけでは、よく読めるようにはならない。具体例は飛ばしていいとか、引用は読まなくてもいいとかいう指導があるらしい。悪質だ。少なくとも、情報を取得するためではなく、文章を読んで理解する練習には役に立たない。役に立たないどころか、有害である。

抽象的な主張の羅列を読まされる読者は、それがほんとうかを自分の頭で考えることができない。できないというより、許されていない。咀嚼して、ゆっくり自分に取り込むことができない。ただただ飲み込まされてしまう。鵜呑みにするしかないのである。筆者の「AはBである」という論証なき主張を、「そう考えるしかないのだ」とか「そう考えるべきなのだ」とか思わなければならなくなる。有害である。

「教育上の配慮」、「指導上の配慮」とは、誰に対する、どんな「配慮」なのか。この説明もまた、指導書はしてくれない。そのような文章を読んで、間に受けるのは、「教育上」よくない。「指導上」適切ではない。

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