見出し画像

『電磁マシマシ』回顧録❶

2012年4月から2015年3月までの3年間、僕は『電磁マシマシ』という番組のプロデューサーをしておりました。

ナムコ出身のゲーム音楽作家で、音楽アプリの企画開発を手がける佐野電磁さんをパーソナリティに据えた、土曜夜の生ワイド番組でした。

佐野さんがコネクションを最大限活用して様々なゲストをお招きし、時間がある限り、好きなように喋ったり、電子楽器を鳴らしたり、ラジオなのにスモークを焚いてレーザーショーを実況したり、公開レコーディングしたり、リスナーからブロガーを集めて取材させたりと、まあとにかくやりたい放題でした。

佐野さんの盟友でもある伊藤賢治さん、ツイッター部長として人気だった末広栄二さんら準レギュラー陣の他、畑亜貴さんやサエキけんぞうさん、向谷実さんといった音楽界の大御所勢、セガのHiro師匠、細江慎治さん、タイトーのZUNTATA、ノイジークロークの皆さんなどゲーム音楽界のカリスマ勢、そして松武秀樹さん、氏家克典さんなどのシンセ巨匠勢、KORGやヤマハやパイオニアなど開発陣の皆さん、AIRA開発中の斎藤久師さんらのメーカー関係者勢、そして長谷川明子さんや上坂すみれさんらの声優勢、恵比寿マスカッツらセクシー勢、とにかく他の地上波ではお目にかかれない豪華ゲストが毎回のように登場していたのです。

そして特筆すべきは、まだ声優キャリアがスタートしたばかりで初回からスタジオに足を運んでくれた諏訪彩花さん、その後NHKのニュース番組にまで出演することになる山下まみさん、アシスタントとして最後の1クールだけの出演で強烈なインパクトを残した結さん、オーディションから選ばれた個性ありまくりのマシマシ娘の皆さん、なけなしの予算をやりくりして東京まで連れてきたレポートドライバー「ゆかどち」など、女性運が非常に高かった番組でした。
部室か理工学系の実験室か、というむさくるしいスタジオに花を添えてくれたというか、オアシスになったというか、まあリスナー、ビューアー、スタッフみんなバンザイというところだったのでしょう。

ラジオ人気がかなり低迷していた時期にもかかわらず、月刊誌に連載(DTMマガジン)まで持たせていただけたり、ラジオ専門誌が取材に来られたりと関係者各位がいろいろバックアップしてくれたことも忘れられません。
まあ詳しくはこちらを参照のこと。

まだradikoエリアフリー化の前の放送だったこともあり、どうせならみんなに見せちゃえと、当時隆盛を極めたUSTREAM同時配信も番組の大きな特徴でした。
原盤権の事情で楽曲が流せないことを想定していたんですが、実はゲーム音楽家自身が最新ゲームの紹介を兼ねて出演ということもあり、メーカー各位の協力でほぼ全ての楽曲を同時配信できました。

通常であれば、宣伝的な要素が大きいと局の人間としては「お金頂戴」と言わなければならないところですが、それと引き換えにオンエア楽曲についてがんじがらめになるリスクもありました。

これをデメリットだと感じていた僕は、出演者さんから宣伝の可否を聞かれ「どうぞどうぞ。で、曲はUSTで流してもOK?…ありがとうございます、どうぞどうぞ」と受け流しておりました。局の人間としては失格でしょうが、出演者も気持ちよく話せ、UST視聴者も安心して観られることができたのは、今でも奇跡だと思います。

そんな毎日が閉店大バーゲンの活況ゆえ、レギュラー放送終了後もリスナーの「もっとやれ」の声が止まらず、2回ほど復活放送をしましたが、2016年11月のオンエア以来、3年ほど開店休業状態です。

界隈の問題で、ツイッターアカウントは昨年閉鎖せざるを得なかったのですが、Facebookページはそのまま静態保存しています。
タイムラインに流されて消えるツイッターより、当初から資料として残そうと熱心に書いていました。

またいま特番復活をしていない理由は、僕が編成部に異動した(制作部に託している番組に割って入ることが立場的に難しい)ということも大きいのですが、一方で「またやれる機会が来たらやろう」という気分でいることも大きいです。

ちなみに番組ディレクターは、今も東京スタジオで声優番組を担当しており、たまに「最近こんなシンセ買ったよ」なんてメールのやりとりもしてますので、あとは機が熟せば、というところでしょうか。

番組終了後も「番組のリスナーだった」という方にお会いすることがありますが、決まって聞かれるのが「どうしてあんな番組を企画したんですか?」。
実はこの質問には胸を張って答えられません。
だって何にも考えてなかったんですから。

話を2012年の正月休み明けに戻します。

会社の上司から呼び出された僕は、突然「SNSを活用した番組を作れ」という、かなりザックリしたリクエストを受けました。
まだ制作部に異動して1年ちょっとという時期で、初めて自分でイチから企画する番組になったわけです。

普通ならスタッフないしはブレーンを編成し、人選やら何やら決めていくのですが、周囲でSNSに強いスタッフが見当たらず、ひとりで抱え込むこととなります。

そもそも僕には名古屋で放送することに一抹の不安もありました。
「名古屋で作るSNSで人気の番組」という成功イメージがまるで湧かなかったのです。

そこで、専ら録音にしか使っていなかった東京支社スタジオで生放送が可能かを技術スタッフと検証し、CMチャンスを時間確定にすればなんとか行けそうだとわかりました。
あらかじめプログラムした時間で、東京支社音声とCMバンクの音声と名古屋のニューススタジオを自動的に切り替えることにしたのです。

こうなると、もう東京にいる人を探そうとなるわけですが、今度はパーソナリティの人選で躓きます。

実は周囲から東京にいる「SNSに詳しい人」を3名ほど推薦され、言われるがままになんとなくアクセスもしてみました。

しかし、そもそも「SNSに詳しい人」がラジオで人を魅了するトークができるのか、そもそもSNSで人が集まるほど面白くなるのか、まったく未来予想図が描けなかったのです。

それなら、有名無名問わず、僕がとことん面白いと思った人を起用して、自分と似たような属性の人が全国から集まれば、名古屋ローカルで「SNSに詳しい人」がやるよりは人気が出るだろうと考えました。
当時、手帳に「脱ローカル」とか「精神的ローカル=ニッチ」というようなことをメモしていました。

そんな時、佐野電磁さんがオールナイトニッポンZEROのオーディションに応募した動画を見つけたのです。

当時佐野電磁さんは、KORG DS-10、KORG M01といった、ある年代のあるクラスタに絶大な人気を誇るニンテンドーDS用ソフトを企画開発されていました。
その広報活動として全身緑のダブルスーツを身にまとい、昭和感濃厚なセールストークをUSTREAMなどで披露していました。

時には熱く、時には酒の勢いで飛び出す数々のフレーズに爆笑していた僕は、仮にプロモーションやジョークの一環としてであったにせよ、最先端をひた走るゲーム業界の佐野さんがラジオパーソナリティのオーディションに応募した、という事実に狂喜しました。

そして、運良く友だちとして承認されていたFacebookからメッセージを送ったのです。

「実は4月から番組を企画しており、現在(本当に)パーソナリティを募集しています。(略)現時点で上記のほか低予算ということ以外、何も決まっていません…」

これに対し、佐野さんにはすぐに返信いただき、ようやくパーソナリティが決まったのでした。

実は、この後佐野さんのオフィスへ出向いて渡した企画書は「SNSに詳しい人」向けと同じものでした。
そこには「今週のネット事件簿」やら「キーワードランキング」やら、いま考えても鳥肌が立つような恥ずかしい企画が並んでいました。

「これ、形だけなんで、忘れて構いませんから」

佐野さんは「コーナーはなくてもなんとかなりますよ、2時間半なら」とあっさり言われました。
2月下旬の時点で番組の方向性は決まってないようで実は決まっていたのです。
(つづく、予定)


ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。