大野松雄さんを偲びつつ僕は何をしよう
19日に『鉄腕アトム』の効果音などで知られる音響デザイナーの大野松雄さんが亡くなられました。
大野さんは、黎明期の民放ラジオとテレビを支えた音響デザイナーで、現在比較的観やすいテレビアニメでは『ルパン三世』第一シリーズにもクレジットされています。
大野さんはこの世に存在する効果音のみならず、この世ならざる音、具体的には電子音による音響設計では右に出る者がいない存在でした。
その卓越した仕事ぶりを振り返ると、今なら「音響クリエイター」の方がしっくり来そつです。
まだシンセサイザーが開発される前、欧米やソ連では様々な電子楽器が作られていました。
楽器とは言え、その多くは原理も構成もバラバラで、大学の研究室に設置された装置であり、手軽に音を鳴らすことは困難な時代。
専門奏者がいて商業利用しやすかったのは、テルミンやオンドマルトノ程度でした。
そんな時代に、大野さんは日本の民間放送局でオシレーターの発信音と、オープンリールテープだけで独自の音世界を構築していたのです。
大野さんはNHKの効果団を経てフリーで活躍されましたが、昭和30年代に前半には、現在私が務めるCBCラジオ(中部日本放送)で、多くの文芸ドラマやバラエティ番組に参加されていました。
そのひとつに、深夜のトーク番組内の「電子音ジョッキー」というコーナーがありました。
大野さんに伺ったところ、電子音で奏でた当時の流行歌をバックに、女性タレントが詩を読んだりリスナーに語りかける内容でした。
昭和30年代の深夜番組は、中高生や学生向けではなく、夜間に働く人たちをターゲットにしており、当時の言葉を使うなら、ソフトなお色気番組というものでした。
大野さんが担当されたのは、この電子音による流行歌でした。
しかし旋律を奏でるためのインターフェイスは鍵盤ではなかったのです。
手軽に運べるシンセサイザー「ミニモーグ」が誕生したのは、これより10年以上後の話です。
大野さんによれば、スタジオの基準信号(サイン波)をレコーダーの回転スピードを変えて録音した6ミリテープを約3オクターブ分(およそ40本)用意。
それを音符の長さに切って繋ぎメロディを作っていたそうです。
さらにこの工程において、音程が同じで波形の異なるテープ同士を斜めにカットして繋ぎあわせ、時間とともに波形を変化させるなど、音色面を変化させるテクニックも生まれたそうです。
大野さんが僕の職場と関わりがあったことを知ったのは、田中雄二さんが書かれた『電子音楽 in JAPAN』という書籍におけるインタビューでした。
そこで2012年、大野さんにスポットを当てたドキュメンタリー番組を企画しました。
かなり具体的に、ギャラクシー賞を狙ってみたいと思ったのです。
構想では、大野さんのインタビューに始まり、当時の担当番組に出演いただいた「YMO4人目のメンバー」松武秀樹さん、ゲーム機によるDTM、そして「初音ミク」に至るまで、ポピュラー音楽の文脈で日本の電子音楽史をなぞるものでした。
田中雄二さんとは別の仕事でご縁があったので、大野さんに繋いでいただきました。
「そちらに行きます」とわざわざ名古屋にお越しいただき、昼食も含めて3時間近く貴重なお話を伺えました。
取材後に旧スタジオへ案内した際、オープンレコーダーを見つけた大野さんから「6ミリテープはありませんか?」と尋ねられました。
テープを渡すと、レコーダー内蔵の基準信号1kHzを1分ほど録音し、突然パフォーマンスを披露してくださったのです。
慌ててiPhoneで撮影し、その後許可をいただいて公開したのがこの映像です。
このテープ操作では再生しながら録音することで、フィードバックにより音が回り込んでエコーのような効果を生んでいます。
テープレコーダーだけでここまで不思議なサウンドが出せることに、ただただ驚きました。
機材を知り尽くしているからこそのテクニックです。
この時のインタビューは、年末枠で15分の予告編として放送しました。
が、悲しいことに、年が明けると予算(主に出張費用)が通らず、初音ミクまでたどり着くことは叶わなかったのです。
大野さんには電話で詫びたんですが「古いスタジオに入れて楽しかったですよ。懐かしかった。また呼んでください」とおっしゃっていただき、頭を下げるしかありませんでした。
アナログな手法で「この世ならざる音」を追求された大野さんに、多大なる感謝と、心からのお悔やみを申し上げます。
そして僕はデジタルを使いつつも「実はこの世ならざる音」を常にラジオから発信しつづけたいと思っています。