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山中鹿之幸盛

私は戦後の教育を受け育ちました。当時の小学校では担任教師の家庭訪問というのがありました。私が小学校1年生のときの話です。クラス担任の女の先生の家庭訪問がありました。たまたま、そのとき私は家で絵本を見ていました。その絵本は隣家のおばさんがくれたもので、少し傷んではいましたが、大きな絵もあり、かなりの量の文章がひらがなで書いてあったと記憶しています。私はこの本の絵のうちで、山中鹿之助が三日月に祈る絵と中江藤樹と母の冬の井戸端の絵が好きでした。あるいは、その逸話が好きだったのかもしれません。この絵本にはそのほかの絵や話もあったに違いないのですが、それはらは全く覚えていません。山中鹿之助と中江藤樹の絵と逸話だけが記憶に残っています。
隣家のおばさんから頂いたこの 絵本は、戦前の修身の副読本のようなもので新しい戦後の時代には向かないものであったのでしょう。担任の先生は、このような本を子供に見せるのは良くないというようなことを言ったように思います。そして、その日以降この本がどこかに仕舞われ、私は見ることはありませんでした。しかし、山中鹿之助と中江藤樹のこの2つの絵とともに、それらの逸話は私の記憶に残り、私の精神形成に影響を与えたことは確かです。

松本清張は1950年代半ばに、少年少女向けの歴史ものシリーズを発表し、その一つとして山中鹿之助も書いているのを知り読んでみました。これは、1957年4月から小学館の「中学生の友3年」に始まり、後継誌「高校進学」の1958年3月までの1年間連載されたものです。私は、その数年後の学年ですので,雑誌の連載時にはこれを読んでいません。

山中鹿之助は、1545年出雲国富田に生まれました。父は中老であったが若く病死し、そのとき鹿之助は3歳でした。母は富田の城下を引き払い、山奥の田舎に移り、百姓をして自給自足で鹿之助を育てました。畑の一部に麻を植え、糸を紡ぎ、布を織り、着物を縫って鹿之助に着せたと言います。
鹿之助16歳の時に、亀井秀綱から帰参の打診を受け、尼子晴久の月山城にデビューします。

歴史の空白は松本清張らしい史料と推理で埋めて、筋の通った楽しめる読み物です。山中鹿之助は、戦に何度敗れてもまた立ち上がり、どんな苦難が押し寄せようと立ち向かっていく人でした。自分から「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と月に祈るのですから当然です。松本清張はそのような生き方を冒険活劇のように描き出しています。

戦争中の1941年9月に児童向けに出版された文昭社編の「山中鹿之助」には、以下引用のような記載があるそうです。
『大人も子供も国民全体が、山中鹿之助のような忠烈な魂と、堅忍持久の精神とをもって、それぞれ自分の本分を守り、お国につくす大決心をしっかり固める。忠義のために、一生を男らしく戦い抜いた山中鹿之助こそは国民精神総動員の今日、われわれ日本国民にとって、まことによいかがみ。』

松本清張は、この本で、魅力ある人物何人かにハイライトを当てます。毛利元就の奸計に嵌った尼子晴久により、新宮谷の尼子国久一族はことごとく討ち死にする。国久に仕えた知和正人は主君と運命を共にするが、娘「小菊」を母「野菊」と脱出させる。国久の子「孫四郎」の乳母でもある「野菊」は「孫四郎」を抱いて備後に逃げることができた。
野菊は「肉親が相争う醜さを怖れて、 幼い者に親兄弟の敵を討てなどとは決して言わずに」自分の娘「小菊」と「孫四郎」を立派に育てる。
松本清張は、男勝りの「小菊」を戦後の女性の夜明け、鹿之助の不屈の姿を戦後の日本の復興の姿にダブらせて描いたという。

孫四郎が13歳の時に月山城は落ち尼子は滅亡するが、孫四郎は「尼子勝久」と名乗り京都に現れる。
山中鹿之助は、父譲りの三日月の前立てと鹿の角の脇立ての兜を被り、一騎打ちに抜群の強さを発揮した武将だったが、時に利あらず、尼子氏の月山富田城が、毛利の大軍による兵糧攻めの末落城したのは、鹿之助22歳のときだ。鹿之助は各地を放浪する苦難の日々だったが、尼子氏再興をあきらめなかった。京に上った鹿之助は、滅亡した尼子氏の遺児である「尼子勝久」を見つけ出し、他の尼子氏の家臣の残党と供に尼子氏再興の動きを始めた。 海賊将軍奈佐日本之助の力を借り、隠岐へ渡り、領主佐々木為清の兵を併せて出雲に侵入、毛利方の城十五カ所を手中にしたこともあった。織田信長の兵を借り戦い、秀吉軍は播磨の上月城を攻略すると、鹿之介と尼子勝久は上月城を任された。しかし、激動の戦国の時代、毛利の大軍に囲まれ上月城は孤立、主君尼子勝久が切腹するにおよび、ついに鹿之助の夢は潰えました。

松本清張の山中鹿之助はここで終わりですが、
山中鹿之助幸盛亡き後、長男幸元は、伊丹在鴻池村の大叔父山中信直に養われます。15歳で元服し、両刀を捨て商人になり、名も新六と改めます。
伊丹地方は酒造業が盛んです。新六も酒造業を始め清酒で成功します。彼は鴻池家の始祖の鴻池新六でありました。
この本に登場する土地の多くは旅行したことがあり、それもなじみ深く感じられる理由の一つです。

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