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エンジェルフィッシュを見た


 友達と遊んでいるときにエンジェルフィッシュの話になった。エンジェルフィッシュと手を繋ぐ話、一緒に海底を散歩する話。

 僕は話の中で、エンジェルフィッシュを見た。

 小学生のとき、家で熱帯魚を飼っていた。ネオンテトラとエンジェルフィッシュ。いっぱいいたから名前とかはつけてなかったけど、いつも自分の側には熱帯魚がいた。朝にご飯を食べるときも、学校をズル休みした昼も、夜に勉強したときも、エンジェルフィッシュ達はそこにいた。

 水槽の中で、みんな綺麗に泳いでいた。

 父がアクアリウム好きだったのもあって、水槽はいつも綺麗だった。揺れる水草、重なった石、ブルーの明かりに照らされる大きな水槽。一つの世界がそこにあった。

 鍵っ子だった僕は、家に帰るのが誰よりも早かった。誰もいないリビングの一角で、綺麗な世界を横目に勉強をするのが好きだった。ネオンテトラの赤と青、エンジェルフィッシュの白と黒を眺めながら自分の将来なんて難しいことは何も考えず、ぼーっと宿題を終わらせるのが日課だった。

 友達と遊びながら帰ったある日、いつもより遅くなっちゃったから、辺りは暗くなっていた。それでもいつも通り親は帰っていなかった。怒られなくてよかったとか誰か居て欲しかったなとか思ったりしたけど、熱帯魚がいるから寂しくはなかった。その日も僕は勉強をしようとして、リビングの灯りを点けた。

 あ、死んでる

 一匹のエンジェルフィッシュが水槽から飛び出て死んでいた。からっからに干からびて死んでいた。

 僕はその日も宿題をした。いつも通り、水槽を横目に。死体はそのままなので全然集中できなかったけど。僕はどうすればいいんだろう、父さんが帰ってきたら何て言おう、もうちょっと早く帰ってきてたら死ななかったかな、なんでエンジェルフィッシュは飛び出したんだろう、なんてことを考えていた。父さんが帰ってきた。

 お父さん、エンジェルフィッシュが死んだよ

 父さんはそうか、と言って下に落ちていたエンジェルフィッシュを拾い上げた。そっか拾い上げればよかったのかって思考に脳の要領を奪われていたから父さんがそれからエンジェルフィッシュをどうしたのかとかは知らない。けど、拾い上げればよかったんだ。いつも側にいたのに何も悲しくなかった。

 その時の父さんの顔とか全然覚えてない、でもその時のエンジェルフィッシュの目だけ覚えている。

 僕の中で、そのエンジェルフィッシュは名前すらない、ただのエンジェルフィッシュでしかなかったけど、たしかに僕のエンジェルフィッシュだった。涙は出なかった。変な罪悪感だけがあった。

 その日は普通に、晩御飯を食べて、テレビを見て、父さんと母さんと話をしてから、眠った。

 次の日にはエンジェルフィッシュが死んだことも、変な罪悪感を覚えたことも、どっかに忘れて朝ご飯を食べた。


 話の中ではあるけれど、エンジェルフィッシュと手を繋いだとき、海底を散歩したとき、僕の中のエンジェルフィッシュはたしかに彼だった。名前もない、からっからになってしまった、美しかったエンジェルフィッシュ。


 僕は彼が綺麗だったときの姿を見た。


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