別になんでもない
8月のある日だった。
僕は……
瀬戸内の田舎町を走るバスにひとりで揺られている。最後部の高い座席から、真横に穏やかな入江がみえる。
海沿いの道をゆっくり進むバスは、アナウンスも何もないままいくつかのバス停を通過していく。穏やかな旅路だ。
ずいぶん狭いところを走るなあ。
バス停をまたひとつ通過する。
「浦崎中学校前」。
一拍置いて、糸で頭が後ろへ引き寄せられるのを感じた。
抗いがたい睡魔に打ち負かされるように、僕は身体の支配権を失った。
低い窓から入江を眺めるために屈めていた背はシートに触れ、僕の意識は簡単に飛んだ。
*
そこはいつもの喫茶店だった。
駅ビルのデパートの奥にある画材店、のさらに奥にある、秘密基地のような、忘れ去られたような場所。
目の前のテーブルには深い青のティーカップ。
内側は白く、金色の持ち手はとても優美で僕は一枚写真を撮る。
ミルクティーだ。
……ああ、ミルクティーを頼んだのだった。
横にはドイツ語の教材が置かれ、僕は中間試験の勉強をしなければならなかった。
関係代名詞。接続法のⅠ式は試験に出る。Ⅱ式は出ない。
なんでミルクティーを頼んだんだっけ?
僕は紅茶もコーヒーもアイス派なんだけど。
*
「ああ知ってますよ、ミルクティーがおいしいです」
美術科を志望する彼女は言った。
この前画材店に行った時に喫茶店を見つけて、画材店によく行くであろう彼女に教えてあげようと思ったのだ。
と思いきやこの回答だったので、僕はいささか拍子抜けしたのを覚えている。
もちろん知っていておかしくはないのだが。
塾講師のアルバイトはとても楽な仕事だった。英語を教えるのは悪くない気分だし、生徒と話すのも楽しみのひとつだった。
高校でも美術科に属するという彼女は、芸術に疎い僕にとって別世界の人物だった。
しかし今となっては名前すら思い出せない。
*
ああそうか、彼女に感想を伝えないと。
ミルクティーを啜りながら適当な問題を解く。
プリントの山と、藍色に沈みきった窓外を交互に眺める。
また一枚写真を撮った。
店内を見渡すと、すでに客は僕だけだった。
これのどこが他の第二外国語に比べて簡単だと言うんだという思いを教授に向けつつ、集中力に欠ける僕は勉強を早々に切り上げ駅ビルの外に出た。
なぜ京王線の駅ビルから京王線に乗るために一度外を経由しなければならないのだろう。風が身体を打つ。
もう冬だな、と思った。
この時期の東京は暦に反して大袈裟に寒い。駅ビルを出たところのの交差点ではバスが行き交う。
いつもの光景だ。
写真を撮ろうかな。僕が立ち止まると同時によく見る色・よく見る形のバスが止まり、ドアが開く。
交差点の歩道にバスが寄せて止まり、まさかドアを開けることなどあり得ない。
「松永行きです、乗りますか?」
運転手がスピーカー越しに言う。僕を見て、しゃべっているのがわかる。
僕は何も言わずに乗り込んだ。
*
バスの車内を見渡すと、最後部の高い座席に彼女がひとり乗っていた。
彼女は僕を認めるとどうぞ、と隣の席を促す。
「偶然だね、学校?」
「そうですね、制作をしてて」
「いいねそういうの」
「ああそう。例の喫茶店でミルクティーを頼んでみたんだよ、美味しかった」
「いいですよね、よかったです」
紙切れみたいな会話だなと自分でも思いつつ、僕はようやく話題をみつける。
「というか、帰りこのバスで合ってるの?」
「先生こそ合ってるんですか?」
「まあ俺はいいんだよ、暇だしさ」
「どこで降りるんです?」
「ああ、もうすぐ着くはずなんだよね……」
バスは海辺の道を、低い堤防を撫でるように進む。
ずいぶん狭いところを走るなあ。
降車ボタンを押す。
機械音声の反応に続けて彼女が言う。
「ここ?」
「多分」
「他になにか私に聞くことは?」
「……なんて?」
バスが止まる。
「浦崎中学校前」。
僕は彼女の返答を待たずにバスを降りた。暑い。
瀬戸内海の穏やかな海の前では、8月の日差しも柔らかく身体に溶ける。
僕は迷わずに、バスが行った方向へ歩き始める。
すぐに意識が途切れた。
*
喫茶店。
狭い店内だ。空気が淀んでいる。
横のカウンターには、店内のどこにも、人間が見当たらない。
テーブルは薄汚いインベーダーゲームの筐体で、天板となるガラスはすでに黄土色を帯びている。
こちら側の操作桿は抜けかけ、ボタンたちがあった場所からは埃にまみれた基盤がこちらを覗いている。
僕がなにを頼んだのか思い出せない。
ソーサーには腐敗したレモンが一切れ置かれ、ティーカップにはストレートティー。
共に出された氷水には小さな羽虫が浮いている。
僕が頼んだ?これを?
そうじゃない。僕は彼女の言っていたミルクティーを頼んだはずだ。店員に言おうにもその店員が居ない。
強い逆光とカーテンに鎖され、外の様子は伺えない。
口の中が渇いていく。
間違えた。
僕は間違えてしまった。
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