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円環

僕は一人で旅をするのが好きだ。ほんとうに好きだ。

僕は「旅」と「旅行」についてわりと明確に異なる定義を当てはめていて、それが世間一般とか辞書とかでは正しくなくても自分のなかでは"そういうこと"になっている。自分の趣味と謳うからにはそれについてきちんと考えて、自身の考える正解を出しておかなければならない。

旅。家を出てから目的地に向かって帰るまでのすべての行為が目的。値段と時間が許せば普通列車や船などでゆっくり行くとよい。テーマパークに行かない。ネガティブな動機。そしてひとりが望ましい。なぜか?なぜだろう。

旅行。目的地で何かをすることが目的。目的地までは早く着いたほうがよい。テーマパークに行く。ポジティブな動機。ひとりで行ってもいいけど、まぁ普通は友達たちと、恋人と。

とりあえず僕は自分の趣味として前者の"旅"を設定している。しかしこれがややこしい。昨年大学に入ってから自己紹介する機会が当然いくつかあり、そこでは当然自分の趣味を言うことになる。そこで僕は"旅行"と"写真"を挙げる。"旅"ではなく"旅行"。「自分の趣味は"旅"です」とクラスメイトの前で言ってしまってはダメだ、滑るから。そういう場では最大公約数的な言い方をするべきなのだ。今回の話をする上ではどうでもいいが。

そうそう、僕は写真も撮る。事実趣味を訊かれて"旅行"と"写真"と答えるのは鉄道の撮影を趣味とする者がその趣味を隠すための常套手段で、自分が現在趣味と掲げている旅行や写真の起源もそこにある。モテるかどうかは別として趣味に優劣はないが、その点でいうと鉄道撮影趣味というのは近年本当に酷い。酷い箇所というのはいくらでも見つかるが僕にとって重要なのは「外聞」だ。


僕の自意識はいつの間にかさまざまなコンプレックスを溜め込んで肥大化し、僕にとっては僕がそんなことを趣味としていた事実すら耐えがたい。あまり自分の過去を否定したくはないが僕がそれに中学から高校にかけての数年間を費やすことなく旅行・写真という2つにたどり着ければよかったと常々思うが、まぁそう上手くはいかない。そして僕がここまでその趣味を呼ぶ上で最もメジャーな呼び方を使っていない、分かりやすさを無視して代名詞ばかり使っている、ところから僕の"それ"に対する評価の低さは想像されたい。

しかしどうだろう、そこから発展した「旅行」や「写真」という趣味はとても人聞きがいい。これは僕にとってとても嬉しいことで、自己肯定感の向上に一役買っている。今どき趣味らしい趣味を持っている人間自体少なくなっているが、好きなことを聞かれて僕が「旅行と写真ですね。」と答えると相手の反応は驚くほど良い。相手が年上だろうが年下だろうが、同性だろうが異性だろうが、好意的な反応が返ってくることが保証されている。なんていい趣味なんだ!

旅は線で旅行は点、とはよく言ったもので、旅は始まる前の天気から帰ってきた1ヶ月後に写真を見返すまでがすべて積み重なってひとつの旅となり、経験値となる。それらをすべて一人で抱えるともなれば感傷的になるのも無理はないよな、と自分の感傷癖になった旅記を正当化しておく。そういうのが好きなんだよ。

そういう「何が起こっても旅の途中である」という思いが旅をしている間だけ、僕をとても前向きにさせてくれる。もうここまで来ると皆がなんとなく嫌っている、やたらと世界を一周しているベンチャー企業(?)の有象無象になりたくなかった有象無象のような人々の気持ちもわかるような気がする。旅はとても開放的だ。

なりたい自分というものが最近ようやく出来上がってきたように感じる。その像には写真を撮りながら各地を旅する現在も取り込まれている。だから僕は人と話すとき、よく「旅をしなければならない」という言い方をする。僕は僕の機嫌を取るために、しなければならない。そうやって僕が僕の自意識を制御できるようになれば良いなぁと、思う。旅は経験になり、経験は自信になる。

そのために、僕はこれから海外に行かなければならない。十字架の丘を、シャウエンを、ロカ岬を、イルクーツクを、ウユニ塩湖を、この眼で目撃しなければならない。旅のことになれば僕はとことんアクティブだ。いつか僕が海外に旅立って、全能感を手にする。想像しただけで視界が開けて気分が明るくなる。本当にどれだけ沈んでいても旅に出ればだいたいは解決する。それまで今は何をしなければならないのか、そういうことを考えていると道は自ずと見えてくる。見えてきている。すべては輪っかのように自分の中で繋がっている。

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