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【連載小説】なんの変哲もない短編小説を書いてみた1-4

前回のお話https://note.com/sev0504t/n/n498c72ad0ebc

 新聞の折り込みチラシには「新生活」の文字。朝の日差しは眩しすぎて、サングラスをしようかと本気で思った。

「春はもうすぐだね」

「大地さん、春は好きですか?」
 珈琲をいれながらゆいさんは視線を僕に向けた。

「春は変化の季節だからね。僕は正直悲しい思い出も多いよ」

「嫌いですか?」

「好きでも嫌いでもないけれど、なんだろうね。変化を求めるくせに、ほんとは変わりたくないって思ってるのかな。環境も、人との関係も。ゆいさんはどう?春は好きですか?」

「私は好きです。大地さんと初めて会ったのも、この季節ですから」

「ああ、そうだった。大事な僕らのファーストコンタクトだ。ごめんよゆいさん、好きでも嫌いでもない季節だなんて言って」

「気にしないでください。大地さんの気持ちも分かります。同じでいることって安心しますよね」

 朝の日差しは眩しい。それだけで何かしでかしてしまうきっかけになりそうだとすら思う。ゆいさんが優しければ優しいほど、僕の衝動性を司る何が刺激される。純粋な悲しさ、形を変えた自己嫌悪、なんだろう。
 形容できないことがもどかしい。この世で一番重いものは愛しているのに愛せない自身の身体そのものだろう。

「大地さんどうしたんですか?」

「いや」

「泣いてるんですか」

「‥‥‥いや」

「ごめんなさい、こんな時どうしたらいいか、わからなくて」

「いつもいっしょに居てくれて」

「はい」

「ありがとう、ゆいさん」


 3年前のあの日、季節は春だった。
 僕はいつもと違う通勤方法を選んだ。自転車で感じる町の肌はゴツゴツしたライン。遅れてはならないと一時間半も早い出発は、時間を余すのに十分だった。

 立ち寄った町屋風のカフェにゆいさんは働いていた。割烹着のような独特のデザインの淡い紅色の服。今と同じで綺麗な長い髪を後ろで束ねた姿が妙に可愛らしく見えたことを思い出す。

 初めてゆいさんに注文した珈琲。味は仄かに酸味と甘味があって、今まで飲んだことない不思議な風味に朝の定まらない思考が整ったような感覚が残った。

 僕はその日から月曜日と木曜日に必ずそのカフェに通った。お店の名前をなかなか覚えられなかったのは、ゆいさんの店と心のなかで呼んでいたからだ。カフェの名前はリコリス。無骨なマスターの顔に似合わない名前に、今でも店の名前を口に出したことはない。

 その年の秋にゆいさんをドライブに誘った。メタセコイヤの並木道を通りすぎたドライブウェイの先に、彼岸花が視野を埋め尽くしそうなほど咲いていたのを思い出す。

 小さな道の駅では、まだめずらしく硬貨や紙幣を使えるお店が残っていた。ソフトクリームを売るのは第八世代の女性のヒューミニック。人間に限りなく近く造られた彼女はゆいさんに向かって「あなたはどっち?」と尋ねた。

 ゆいさんはその問いの意味が分からなかったのか沈黙していた。

 ゆいさんを口説き落とす前に、マスターを口説かなければならなかった。大事な看板娘に交際を申し出ること。交際すること。いっしょに暮らすこと。マスターがゆいさんの親代わりだったからだ。「ゆいに何かあったら承知しねーぞ」そう交わした約束は破られっぱなしだ。でも、僕は精一杯の愛情で彼女と接している。それは三年たっても変わらない。

 ゆいさんを傷つけてしまった夜は彼女を抱きしめて「マスターのお店に戻るかい?」と聞く。ゆいさんは、「戻りなさいと言われれば戻ります。でも、大地さんといたいです」と、いつもと同じ言葉が、僕の身体越しに振動とともに伝わるのだ。

 陽の光にやっと慣れてきていた。

 今日もゆいさんは珈琲をいれてくれる。なんの変哲もない日常の景色に変わった。

「ゆいさん、久しぶりにマスターに会いに行くかい?」

「え、マスターにですか?」

「大丈夫だよ、マスターも久しぶりにゆいさんに会いたいんじゃないかな」

「大地さんが言うなら‥‥」

「もしかしてマスターの家においてかれると思ってる?」

「少しだけ思いました」
 ゆいさんは食器をしまう手を止めた。

「マスターに心配されるとあれだから、手と足の包帯とって服でうまく隠してね」

つづく

 
 

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