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【読書感想文】見えないものを見ようとして覗きこんだ僕が思ったこと

サン=テグジュペリは、本当に大切なことは目には見えないんだよといって、BUMPは見えないものを見ようとして望遠鏡を覗きこんだ。

僕の見えにくい父親は、今日もいつもの場所に自分の湯飲みを置くだろう。

見えにくいことを補うように何かの法則に導かれ、空間を扱う「見えない・見えにくい方たち」の姿を見てきた僕にとって、この本を手に取り読み進めるには多大な先入観があったことをはじめに記しておかなくてはと思う。

簡単に言えば、多様な価値や病理、心理が「見えないヒト」の数だけあるなかで一般化なんかできやしないだろという気持ちだ。

しかし、思いは完全に裏切られた。読み進めながら発見と気づきにみちみちてくる。「身体論」として語られた本書の言説の数々が、ヨシタケさんのイラストとともにスッと自分の思考に入り込んでいく心地よさ。

まず、「見えないヒト」の世界をどう捉えるかというオリエンテーションの段階で筆者はこう言う。

【この新しい身体論は、「身体一般」の普遍性が覆い隠していた「違い」を取りだそうとするものです】と。

一般化や、個別的な各論的な何かではなくその中間にあるものへ探求と分析は、当事者の方との何気ない交流からだろう。

坂を上る傾斜の感覚と、その道の名前から空白を埋めるように「意味」を与えていく。そんな見えない世界を「好奇」心、いっぱいに分析していく。


さらに、本書は様々な「見えないヒト」たちの感覚を掘り下げていく。

見えている人は見えているがゆえに見えない部分「死角」が生まれるが、見えない人には全体で物事を把握するために死角がない。僕たちは、視覚情報に溢れその情報に意味付けをどのくらいできているのだろうか。

読めば読むほど私たちの実生活に忘れていた視点を与えてくれる。ともするとどちらかの側を浮き彫りにしかねないのに、当事者の方の言葉を交えてフラットに僕に迫った。

真面目に考えれば、それは今後の共生社会の実現に欠かせない何かだ。

どの世界も同じように尊いし、そこに優劣とか、上下の関係などない。地平線のように雄大で平らなもの。言葉で言い表すのは難しい。「多様性の本質的な等価」というのはどうか。うーん。ちょっと微妙かな。いろいろな言葉を当ててみたいと思える大きな真理な気がする。


【そもそも見えないのだから見ようとすると見えない場所が生まれるという逆説から自由なのだ】という一節には、俯瞰的なというかむしろ達観した精神性すら垣間見える。目から鱗滝さんだ。

もちろんそんな強さを皆がもっていたらという「身体論」から外れたところに僕のジレンマが度々顔を覗かせるのだけれど、それは置いておこう。うん。



ここで、やっぱり自分の知る「見えないヒト」の話もしなければならないと思う。一般化ではなく各論でもない。ただ、演繹的に「見えないヒト」の世界を捉えようとするなら、僕の見えないヒト達との体験も無視はできないと思う。

父は中途の視覚障害があって、パチンコをしていたらいつもと違う見え方に気がついたらしい。思い起こせば、父は「今日の天気は見えずらいなぁ」とか、「眩しくて下の方が見えない」とか、「この文字読んでくれ」などと、自分の見え方をよく発信していた。見えないことをどのように補うかよく考えていたし、週刊紙を拡大読書器で、必死に見ていたことを思い出す。袋とじだったかは覚えていない。

叔父は全盲で鍼灸師だった。遊びに行くといつも同じ様な白い服を着て煙草をふかしていた。一番は見えないのに海外旅行まで行ってしまう行動力に驚かされる。「一人でいくの?」と尋ねると「その場その場で、ガイド歩行してもらって行くんだ」と、なんともシンプルな返答がかえって来たのを覚えている。援助依頼を数珠のように繋いでいくらしい。

要は自己理解に他ならない。何を感じられて、何が自分に必要か。そこに過剰な情報は必要ない。過剰な支援も必要ない。僕たちが自分や世界を知るように、彼らは見えない・見えにくい世界を知って、見える世界を想像する。

でもなんだか、本書を読む前の先入観は自分が大切なことを忘れかけていたことだったのかもしれないと思ってくる。

見えない・見えにくい世界の住人だった父とのやりとりは人としてのやりとりで、本書が触れた福祉的なそれではなかった。無意識のうちに意味を汲み取ったり、汲み取ってもらったり。お互い様で。だから世界は地続きになったのだろう。


さて、だいぶ仰々しくなってしまったなぁと思う。考えることはエネルギーがいる。チョコレートでも食べよう。もぐもぐ。

自分の思考を整理できないなかで、やはり筆者の言葉が僕の価値観をくすぐる。

障害の個人モデルから社会モデルへと転換のなかで、【違いをなくそうとするのではなく、違いを生かしたり楽しんだりする知恵が大切である場合がある】とある。

多様性の可能性が無限にある世界を僕は期待したいし、その役割を果たしやすい立ち位置にいることを思う。それは自分の人としての使命なのかもしれない。なんだか自分が勇敢な戦士になった気分だ。聖なる剣はないけれど。

インクルージョンとダイバーシティという言葉が聞かれるようになって久しい。見えない世界を感じながら生きることは、確実に僕たちの裕かさを考えるきっかけになると再確認できた。

見えないものを見ようとして僕たちは何をみるのだろうか。また、何が見えてくるのだろうか。

明日からまた少しだけ世界が違って見える気がしてくる日曜日の夜だった。

end・・

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