【ショートストーリー】5 声なき街
「また例の伝染病で死者がでたらしいよ」
アレクサンドラは新聞を片手に母のアニーにそれとなしに呟いた。
「お前も気を付けるんだよ」
「まぁ、大丈夫だろ」
実はアレクサンドラにはちょっとした倦怠感があった。しかし、このくらいで仕事を休むわけにもいかないので、いつも通り出社したのだった。
会社でも例の伝染病で話題はもちきりだった。
「○○病院で出たってよ。いよいよ他人事じゃなくなってきたな」
同僚のドミトリーがにやけながらアレクサンドラに話しかけた。
「ああ、いよいよかもな。政府連中も隔離政策に力をいれるんだろ?世も末だな」
「なんだかボスも体調が悪かったら遠慮なく帰ってくれって言ったって、むしろ帰りにくいわな」
「ほんとだよドミトリー、ボスも『疑われる者』が出たらこの事務所も一時的に閉鎖しなきゃならないことを気にしてるしな」
「難しいな、健康か金か、なあ兄弟」
会社での陽気な会話ができるまではよかった。
この日、感染症予防のためにマスクをつけることと発熱時の外出禁止が法律で義務付けられた。
次の日の朝
「アレクサンドラ、体調はどうだい」
アニーに声を掛けられアレクサンドラははっとした。関節の痛みと倦怠感、発熱こそないが、これは経験したことのある風邪だろうと直感的に感じた。
「ああ、母さん、ちょっと疲れがあるが大丈夫だよ」
アニーが作ってくれたカボチャのポタージュをゆっくりすすって、新聞を見る。
マスクの義務化法案の記事の下に小さく、伝染病のために閉鎖された病院や会社の名があった。
「おはようドミトリー、調子はどうだい」
「やぁアレク、面倒なことをきいたぞ」
「なんだい、あわてて」
「当局の指示で、勤務中の検温やマスク着用までチェックされるらしいぞ」
「それは面倒だな、まぁ熱があっても帰れってだけだろう」
「そんなんですみゃあいいけどな」
デスクワークをしていると、公安警察が数名オフィスに入ってきた。額に検温器を照射しマスクや環境面をチェックする。
「おい、待てよ。おれは風邪なんてひいてない」
聞き慣れた声がアレクサンドラの耳を穿つ。
デスクから立って声の方を見ると、強引に警察に連行されるドミトリーの後ろ姿が見えた。
アレクサンドラも警察から検温を受けたが何事もなくその時は過ぎていった。
『疑われる者』は、ドミトリーだけだったようだが、彼には全くそんな予兆を感じなかった。
ただ、新たなフェーズに入っているのは明らかだった。発熱だけでも取り調べを受け、拘束される。
もはや伝染病は関係なくなってきていた。発熱や風邪の症状のすべてが忌むべきものであった。その真偽は二の次だった。『疑われる者』は誰にでもなり得ることを皆肌で感じていた。
帰るとアニーは近所のなかで風邪の症状があると疑われる人が、取り調べを受けていると教えてくれた。何らかのリークがあったんだろう。近所の八百屋から聞いたとアニーは言った。
空は夏なのにずっと灰色だった。
やっとアレクサンドラの体調がもどったのはドミトリーが当局に拘束されて一週間後だった。
ドミトリーは今日から出社したが一言もしゃべることはなかった。当局からの指導もあるんだろうとアレクサンドラは悟った。
ドミトリーと廊下ですれ違った。その時、こっそりメモをズボンのポケットに忍ばされた。
それにはこう書かれてある。
『兄弟、一週間地獄だった。明らかに恣意的な選別がある。気をつけろ』
気がつけば職場で話す人は誰もいなくなった。メール、筆談のみだ。
この日、政府からはこの伝染病は我々のコントロール化にあるという宣言がなされたが、誰一人その真贋を確かめるすべを持たなかった。
街から声が消えた。
「アレクサンドラ、体調はどうだい、先週の風邪は治ったかい」
アニーは今日もカボチャのポタージュを朝食に用意した。
「ありがとう母さん、元気だよ」
「カボチャは風邪に良いって聞いてね」
「本当に熱がでなくてよかった。もう町を歩くのも怖いんだ」
「みんな声を出さないから言わないだけで、異常だよ。異常で異様で疑心暗鬼さ」
「ああ、そうだね。ところで最近誰かと話とかしたかい」
「カボチャを買った八百屋だけよ。」
次の日の朝
アレクサンドラの家の前には数人の公安警察の姿があった。
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こんな世の中だから、何が大切で何をなすべきか考えないといけない。
他罰的な風潮はないか?
権利や尊厳は脅かされていないか?
自分にできることは考えることをやめないこと。
人間の知恵が試されている。
医療従事者、行政、教育、福祉、関わるすべての方々へ敬意と感謝を申し上げます。
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