見出し画像

父さんのこと

先日、父の十三回忌でした。

法事だから家族で集まって会食して、という予定でしたが、コロナ発症者が県で3ケタを叩き出したのと、姪が翌週中学受験ということで、用心に越したことはない、と、当日は家族みんなで父の墓前に集まり、手を合わせるだけで済ませました。

お墓には前日降った雪が積もっていました。

父が息を引き取ったときも、雪が降っていました。

父は、幼い頃から義足生活でした。

義足というと、パラリンピック選手が装着しているようなものをイメージするかもしれませんが、父の義足は革製の足全体が編み上げブーツのようになっている、とても重たいものでした。
(調べたら「在来式下腿義足」というものだそうです)

弟や従兄弟はそんな父の義足を「スゲーかっこいい!」と言って、よく履いて遊んでましたね。父が困ってました。

私が小学生の頃は、そんな重たい足でも走り回ってバトミントンの相手をしてくれたり、弟は友人数人と山や海などに連れてってもらっていました。

思い返せばあんな足でよく動けたな、と感心します。

その足で、電気工事の仕事で、電柱やビルに上って私たちを養ってくれました。

いくつもの会社から、正社員なのに給料月7万円しかもらえなかったり、突然理由なく解雇されたり、他にも色々理不尽な扱いを受けたりして、夫婦で相当苦労していたことは、父が亡くなってから知りました。

私が知っている父は、明るくていつも冗談ばかり言う楽しい人です。

けど本当の父は「欲がない人」です。

「欲がない」というと、良い印象に思うでしょうが、そうではなく、「家族愛や友愛を知らず、夢や希望を持ったってしょうがないという常識を持ったために絶望し、欲を持つ特権を放棄して、人生を諦めた」のが父でした。

母親との関係や、ひどいいじめなど、私の経験と似た体験を父もしていたからなのか、父は私の「この世で唯一の」よき理解者で、父だけが、私の話をバカにせずに聞いてくれて、否定や批判をしませんでした。

私は父とふたり、公園などでお菓子やアイスを食べながら語り合う時間がとても楽しみでした。

「夢を持て」とか「希望を捨てるな」とか、そんな前向きなことは言いませんでしたが(経験してないんだからそこはしょうがない)父と一緒だと安心して「私」でいられたし、周囲の機嫌を気にせずに、好きに笑って、好きに喜べたので、それだけでとても幸せでした。

だから、父が56歳で末期の肺がんと宣告されたとき、私は気が狂いそうになりました。

実際、私は鬱になり、首をつって死のうとしました。
死ねなかったので、今もこうして生きています。

生きたくはなかったけど、できれば父についていきたかったけど、悲しみと怒りで押しつぶされる心をどうにかしたほうがいいのかな、と、その後からカウンセリングに通いました。
それくらい、父の喪失は私にとって大きすぎるダメージでした。

このことを、家族は知りませんし、知ろうともしません。

父が亡くなる前日。

つきっきりで疲弊している母に代わって、私は父の「寝ずの番」をしました。

(ウトウトした時にこっそり撮った父の手)

呼吸がうまくできなくて、眠れずにいる父と、穏やかに一晩中語らいました。

ひとつひとつ思い出を語って、静かに笑って、満ち足りた空気の中で朝を迎えました。

結局、最期は父のそばに寄り添って手を握ると、父の死を体感することになるのが怖かったので、病室の隅でボロボロ涙を流しながら見送りました。

前夜にふたりの時間を持つことができて、よかったです。

「仕事でもなんでも、丁寧に行いなさい」

ずっと大切にしている、不器用に生きた父からの教えです。

よろしければサポートお願いします。サポートでいただいたお金はひと息つくときのお茶代として、あなたを思い浮かべながら感謝していただきます。