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「善い人」になりたい私は「良い人」をやめることにした

以前、葬儀屋で電話営業の仕事をしていたとき、自分の話が止まらないご婦人に電話したことがあります。

とにかくご婦人が思う、世間の誤りと正解を、「この人いつ息継ぎするんだろ」と思わせるくらいノンストップで話し続け、私は話し終わるタイミングを計りながら「はい」「そうですか」「なるほど」と相槌を打ちつつ聞きました。

結局ご婦人は商品を買うことなく、自分が話したいことを気が済むまで話してスッキリした様子で「あなたは客の話を最後まで聞く人だから、きっと成功する」とお褒めの言葉を残して電話を切ったのですが、それまでの1時間の様子を見ていた主任が、契約更新の面接の際「〇〇さんはお人よしだから」と言ったときに、はじめて私は「お人よし」なのだと知りました。

ちなみに「お人よし」とは、こういう人のことだそうです。

https://oggi.jp/6373479

葬儀屋で働く前は、一ヶ月半ほど明太子になる前の、タラコの選別のパートをしていたのですが(平熱35℃台だったのが34℃台に落ち込み、体調を崩したので辞めた)、その時一緒に働き始めて、半月で辞めた元同僚と近所のファミレスでお茶を「楽しむ」つもりが、彼女の、主に家庭内でのドス黒い愚痴が堰を切ったようにあふれ出て、結果4時間、私は彼女の愚痴にひたひたに浸ることになり、店を出てから家路への足取りはひどく重かったのを、今でも覚えています。

自分が他人の感情や雰囲気も過剰に受け取りやすい、HSPだと認識するずっと前のことです。


もちろん、私は好きで「お人よし」をやってるわけではありません。

私は幼い頃からそんな類の「エネルギー泥棒」の相手をしてきたので、手慣れてるのは認めます。

私は結構、いいように言えば「何でも聞いてくれる人」、心療内科の先生の表現を借りて言えば「(ネガティブな感情の)ゴミ箱」というカテゴリーに置かれているようです。

そうなのではないか? と思い始めたきっかけは、最近人生の選択を「私が喜ぶもの」を基準にしよう、と心に決めて、これまでを振り返るワークを幾度も行って気づいた、私がよく聞くフレーズです。

それは、
「〇〇(私)だからいいと思って」
「〇〇だから大丈夫と思って」


例えば、自衛官時代の同僚と、久しぶりに家族で集まったときの話です。

私以外には皆小さい子供がいて、夏だったので庭で花火をすることにしました。

同僚たちは普段母親業で、日々子どもたちの世話で大変だろうから、と、私が率先して子どもたちに花火を配ったり、火をつけてあげたり、と世話をしたのですが、子どもたちが私を、名字の呼び捨てで呼ぶんです。

「いや、私お母さんの友達だよ? 『さん』付けでしょうが?」

と言ってもヘラヘラ笑って「〇〇」「〇〇」と呼び捨て。

私は、目上の人に名称で敬意を示さないのが解せなくて(元とはいえ自衛官なんだからそういうの徹底してるんですけど)、同僚に注意しました。

すると、同僚は子ども同様ヘラヘラ笑って、

「だって〇〇だからいいと思って」

他の同僚に対しては、ちゃんと敬意示してるのに。


それ以来、実は最近まで「だって〇〇だからいいと思って」という台詞が頭の奥で魚の骨みたいに引っかかって、ずっとモヤモヤしてました。

その台詞が返ってきたときに、いい気持ちがしないのはなぜだろう? とずっと考えてました。

それで今までを振り返ったとき、「〇〇だからいいと思って」を深堀りすると、それは「〇〇(が優しくて心が広い善い人)だからいいと思って」と受け止めていたけど、ホントのホントのホントの本音は「〇〇(だったら何やってもどう扱っても私に反撃しない都合のいい人)だから(多少いい加減に扱っても)いいと思って」というニュアンスだったんだ、と気づき、過去の自分の認識を悔いたと同時に、手遅れになる前に気づいてよかった、と感謝しました。


「いいひと」という音の響きは同じでも、私は人のために自分の価値を貶めて憂さ晴らしのサンドバッグや感情のゴミ箱にもなる「(都合の)良い人」ではなく、自分も相手も価値を高め合うことのできる「善(い)人」になりたい。


思わぬ事態で人との交流が制限された昨年は、ひとり時間をたっぷり持つことができたので(ひとりでいることでエネルギーチャージできるHSPとしては非常にありがたかった)、春からは都合のいい「お人よし」をやめて、人付き合いの整理整頓をしていきます。

私の人生なのに、私が喜べない人と共に歩む人生なんて、生きてる意味ないもの。

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