選書フェア
数年前に紀伊國屋書店新宿本店で選書フェアをさせてもらったときのコメントです
たしか、引用したい本、というお題だったので、引用したいパートを載せたペーパーを配ってもらいました
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八月十七日(月)。
日記は強い。日記は創作よりも勁い。そして日記は、事実よりもつよい。
岡井隆『わが告白』
私はエドモンド・ケンパーとの三度目の面接を終えようとしていた。
ロバート・K・レスラー『FBI心理分析官』
……ほかでもない、ユダはね、プラテーロ、今日は県会議員だか、女の先生だか、裁判所の役人だか、税務署員だか、町長だか、助産婦だかに、きっとされているのさ。
J・R・ヒメネス『プラテーロとわたし』
韻律はリズムから生れ、リズムに帰ってゆく。最初のうちは両者の境界は曖昧であるが、後になると、韻律は定型に結晶する。それは光輝の瞬間であるが、同時に麻痺の瞬間でもある。
オクタビオ・パス『弓と竪琴』
本能が
記憶の落していった鍵を拾う
エミリー・ディキンソン『自然と愛と孤独と』
列車はゆっくり動き出した、蝶々が窓から出たり入ったりするほどゆっくりと。
トルーマン・カポーティ『ローカル・カラー/観察記録 犬は吠えるⅠ』
盲目になれ すでに今日――
永遠も目たちで一杯だ―
パウル・ツェラン『パウル・ツェラン全詩集Ⅱ』
スクリーンの新たなセンセーション、そして、世界一の美女と評判の女は高熱にとりつかれベッドでうなっていた。
マヌエル・プイグ『天使の恥部』
ひとつの国を深く知りたいと思ったら、その国の二流作家たちを精読するがいい。
シオラン『生誕の厄災』
つめたき乳そそぎし苺鳥肌のふつふつと肛門快感期經つ
塚本邦雄『緑色研究』
こんなことを言ったら身も蓋もないが、要するに、男も女も、どんな趣味の人々も、誰もが症状のやりとりをしているのである。
菊池成孔『ユングのサウンドトラック』
菜の花の黄溢れたりゆふぐれの素焼きの壺に処女のからだに
水原紫苑『びあんか・うたうら』
陶器製のあをい、
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
大手拓次『大手拓次詩集』
わたしは保証を要請しているのではなく、ただ、通りすがりに送る挨拶のようにして、このわたしを魅了し、同感させたもの、しばしの間理解する(理解される?)よろこびを与えてくれたもののことを、喚起しようとしているのである。
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』
「俺のこと去勢していいよ」
木原音瀬『COLD HEART in NY』
亜弓さんてやさしいのね
美内すずえ『ガラスの仮面』「冬の星座」
レベル1でも充分発狂しそうだ、とミチルは思った。
中山可穂『愛の国』
そして、その逆向きの運動が決して完全に裏切られるということがないのは、すでに、命名し語りうるものの地平を開くことによって、そこにおのれの場所があることを承認していたからであり、またどんな話し手も、前もってみずから話し相手――それが自分自身の相手にすぎないとしても――となることによってしか何かを話すことができず、話し手は一つの動作で、自分自身への関係の回路と他人たちの関係の回路を閉じ合わせ、その同じ動作で、おのれを話されている者(délocutaire)、つまり話題にされているとしても確立するからである。
メルロ・ポンティ『見えるものと見えないもの』
詩人になれなかったすべての魂の同胞のために
そうだ、ベーグルを食べれば詩人になれると思っていた語り部のことだ
中尾太一『ア・ノート・オブ・フェイス』
水道が妻と麦とにわかれけり
摂津幸彦『摂津幸彦選集』