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美、弱さ(二〇一七年秋に書いた散文)


 かつてシルヴィア・プラスは、
 「眩暈がするような蒸し暑い夏――あれは、スパイ容疑で逮捕されていたローゼンバーグ夫妻が電気椅子にかけられた夏だった。私は、一体ニューヨークで何をしているのか、自分でもわからなかった。処刑が実際どんなものなのかは知らないが、電気椅子にかけられることを想像しただけで気分が悪くなった。それなのに、新聞ではその記事ばかりが大きく取り上げられていて、ほかにめぼしい記事もなく、街角や、ピーナッツの匂いのする黴臭い地下鉄の出入り口のキオスクなど、いたるところでこの死刑の文字が待ち構えていた。私にはまったく関係のないことだったのに、生きたまま体中の神経を焼かれるのはどんな感じだろうと、想像しないではいられなかった。
 この世で起こりうる一番ひどいことに違いない。」
 と、書いた。


 夏は雨が降らないので血を降らす。
 政府の取り決めどおりの天気予報は、夏においては「予報」ではなく「決定事項」。
 大人はもちろん、なるべく、そんな日は外出を避けようとするけれど、しごとにむかわねばならず、100%の日でも、わかりやすく有給を使用したりするひとももちろんいるけれども、むかわねばならず、なるべく、繊維等の服を避け、たいていがブラックのビニールなどの上から、むしむしするというのに、レインコートを着ていく。
 電車の床に血だまりができる。


 ここは春の国。
 春の国は愛の国。
 そんなふうに勘違いしたひとたちがよくやってくる国。
 からだじゅうの皮膚という皮膚をこすりあわせ、粘膜という粘膜が濡れてたがいをあわせる国だと。
 うつくしい勘違いは人を狂わせる。
 うつくしい勘違いをした狂人たちがどんどん姿を消していく。


 冬の在り処の扉をだれもが探している。
 ノックすることができないという噂の冬の扉を。


 夏から冬に手紙が届いた。
 あまりにきれいなSOSだったので、冬の心はすこし揺らいだ。


 春の国に死者がでた。
 春の国では行方不明者は頻繁に発生し、その狂乱した行方不明者たちのことはだれもその行方を気にすることはないのだけれど、死者となると話はまったく別なのだった。
 いったい、死者が出現したのはどれくらいぶりのことだろう?
 あまりに久しぶりのことだったので、春の国のひとびとは、いったい、喜怒哀楽どの感情をもってこの事態を受け入れるべきなのかさえわからなかった。
 だから、あるものは歓喜のあまりいつもより濃い交わりを行い、あるものはパートナーを殴りつけ、あるものはわけもわからず3ℓの涙をこぼし、あるものは一日中笑いころげつづけた。
 つまりそれはフェスティバルになったのだ。


 これはみなが勘違いしがちなのだが、春の国と夏は決して隣接していない。


 春の国の死者は冬にひきとられるものだと大半のものが思っていた。
 けれど死者はそのまま、春の国に存在しつづけていた。
 おおいなる死者。
 ひとびとはおそるおそる花を摘んで、死者のまわりに花を添えていくようになった。
 摘まれた花は、咲いている花より濃く香る。
 虹のようなさまざまな花の香りの渦にまきこまれて、何人かのものがうつくしく嘔吐した。
 死者だけが超然としている。
 もしこの国に「美しい」という言葉が存在すれば、きっとその死者はその形容でその身を埋めつくされただろう。


 指だけがあるいてきて冬の扉にふれた。
 ノックすることはできないから、その指は文字を描いた。
 けれどその文字はどこにも存在しない文字だったから冬の扉につたわることはなかった。
 ただくすぐりのもどかしさだけがそこにとどまって残った。


 雨が上がるように血が上がった夏の国で、人々はレインコートを交換しあった。
 この交換にあぶれた者は罰則で、政府の取り締まり対象となる。
 なので、みな必死だ。
 人気者は交換して交換して交換して交換して交換してもはやだれものものともしれないレインコートを家に持ち帰り、軽く水で血を洗いながしたあと、ていねいに透明のビニール袋にしまいその口を結ぶ。
 そうではない者もいる。
 どうしても交換できなかったレインコートをこそこそと持ちかえり、しっかりと血を洗いおとしたレインコートをビニール袋にしまいこみ、袋の口をむすんだあと、肺のなかから思いきり息を吐き出す。おおきな息をつく。


 もしそんな言葉があったら「秋」と呼ばれていたはずのそれは、地獄の言葉と天国の言葉がこの世に降ってきたときに、それぞれの使者であるところの天使と悪魔が喧嘩をはじめ、じゃんけんで勝った天使がそれのくちびるを縫いとじてしまったので、それは口を開くことができない。


 秋と冬はときおり隣り合わせに横たわっているが、それは多くの場合、たまたまだ。


 かくも無力な四季のなかで太陽と月はそれぞれにそれぞれを憂えているが、そもそものところ太陽と月じたいがおたがいに会ったことがない。
 そして、そもそも夏の王者であったところの太陽は夏の国の政府から敬遠されはじめてからすっかりへそを曲げている。
 月は春を贔屓にしたがっていたが、あまりのにおいに酔ってしまい、近づくことができず、冬の扉をいまだみつけることもできず、「秋」と呼ばれるはずだったそれの存在を知らない。だから「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」なんて台詞は存在しないのだ。


 夏の国の惨劇は漏れだして、他のほうまで血が流れだしてきていた。
 政府の管理が限界まできていたのだ。
 春の国までやってきたその血液を、春の国の人々はものめずらしげに受容した。
 インクのように、文字を書いてみたり。
 たがいの頬や唇や乳首や性器に塗りつけて遊んだり。
 集めて、酒のように啜ってみたり。
 おかげで死者のほうまで血が届くことはなかった。
 それは春の国の辺境に住むものたちの特権的な遊戯となった。


 指という指がはたらいて、冬の扉に血液が付着するのをとどめようとした。
 けれどはたらきも空しく、すこしずつ冬の扉は夏の国からの血に染まっていった。
 指という指は冬の扉に「逃げてください」「逃げてください」と伝えようとした。
 扉には閉まることと開くことしかできない。


 夏の国の血の雨は、とてもおおきな力強い手が、どうじに、たくさん、いろんな場所で、人間を雑巾しぼりして血液をたれながすことによってうまれている。
 そのとてもおおきな力強い手が搾りおわった残りを捨てる場所が、「秋」と名指されるはずの場所で、政府はひとつの国を不当に私物化していることを必死に隠蔽しようとしていたのだった。


 だから、春が愛の国だというのは真実でありたいと信じたいためのひとつの嘘であり、ひとりの死者のための砂糖菓子なのだった。


 かつてシルヴィア・プラスは、
「できないことのリストはどんどん長くなった。」
 と書いた。


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