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お別れを言いたかったのに記憶の扉がひらいて無理そう



内容にいっさい触れたくないという方、観てからまたここに戻ってきてくれたら嬉しい。複雑な考察や読み解きなどありません。ただ私のエヴァの思い出、それから所感をつらつら書いているだけです。





あーあ、終わっちゃったなあ、という感じ。あれだけ観たかった物語の果てのはずなのに、夢を叶えた達成感と夢を叶えてしまった喪失感があった。

世代的に思春期でエヴァにブチ当たったわけではない。初恋がレイやアスカというわけでもない。でも、ある意味で物心ついた頃からそばにあり続けた作品なので、鑑賞中はそれらの記憶がバンバン巡ってきて、ひとつ思い出すたびに他の思い出と紐付いてしまって、観終えたあとも胸の中にあるささやかな炎は消えず、思い出を整理するために書いてます。

そもそも、私自身あまりネタバレを気にしないタイプなので、もうすこし落ち着いてから鑑賞すればいいやって思っていたはずなんだけど、TwitterのTLに流れてくる“なるだけ配慮した”ツイートたちを眺めていたら、急に、小さい頃、6つ歳の離れた双子の兄たちがカルビーとコラボしたエヴァのポテチのカードを集めていて、私もそれが欲しくて親にねだったことを思い出し、どうにも頭から離れなくなったので観にいくことにした。


私が生まれ育った香川は、地方にしては珍しくテレビ東京系列が映るところだったから、兄たちはエヴァをリアルタイムで観ていた。夕方に放送していたはずだ。今にして思えば小学校の高学年にはあまりにむつかしいと思われる内容だったけれど(きっとその年頃の子たちと同じように)兄たちは熱中し、カードダスやプラモデルを買ってもらっていた。ポテチのカードもその延長線上にあったんだと思う。

私は兄たちの物はなんでも真似したり欲しがったりするタイプだったので、自分だけのプラスチック製のカードケースを与えられ、同じようにポテチを買ってもらい、裏面に貼り付けられたカードを1枚ずつ丁寧にバインダーにしまった。家が焼けてしまったので、どんなものだったか、もうたしかめるすべはない。


『Air/まごころを、君に』も公開当時に観にいった。私は小学校にもあがっていなかった。まだ中学生になっていない兄たちをふたりきりで赴かせるわけにもいかず、かといって私を家に置いておくこともできないせいだったのか、兄の真似をしたい私がごねたのかはわからないが、両親に連れられ私もたしかに劇場へいった。

その頃の私はというと、エヴァの内容どころか、紫色のロボットとOPの『残酷な天使のテーゼ』を歌うことがすべてだったから、映画の内容などわかるはずもなく、暗くて、怖くて、よくわからなくて、早く帰りたかった。イケイケなOPも流れないし。途中で挟まれる休憩の際、両親が「なんなんやあれ」と漏らしていた気がする。劇場には臨時のカードダスが設置されていて、私は例のごとくねだり、たしかカヲル君があたった。兄にうらやましがられたと思う。それもちゃんとバインダーにしまったはずだ。


それからも、兄たちが録画していた歯抜けのVHSを観返したり、町立の文化ホールのライブラリーでLDを借りて館内で視聴することで、小学生だった私のそばにあり続けた。何度観てもよくわからなかったから何度も観た。兄が漫画を買っていたけれど部屋に勝手に入るわけにはいかず、行きつけの病院の本棚に並んでいるのを見つけてめちゃくちゃ嬉しかった。アスカが表紙の4巻はなぜか何度も読んだのをおぼえている。

あと64のソフトでエヴァのアクションゲームがあり、アーケードモードはアニメ版に忠実だった。難易度がイージーなら戦略自衛隊を倒して量産機が頭上を旋回しているところまで、ノーマルなら量産機を倒すところまで、そしてたしかハードは、初号機がボコボコにされる前に弐号機を助けるオリジナルストーリーだったはず。いまにして思えばゲキアツな展開のはずなんだけど、当時は(なんで急にシューティングになるねん……)と不満だった気がする。あと、ミサトさんが「光の翼」っていうボイスが入ってるんだけど、そんなセリフはアニメにないよ!と困惑した記憶。


そのように、歳の離れた兄のものを摂取・熟成してきたので、中学生になったあたりで「新世紀エヴァンゲリオンっていう昔のアニメがすごくてさ」と噂になったときも(今更かよ私はとっくに知ってたよ……)とませた感じになったものの、兄以外とエヴァの話ができるのが嬉しかったし、何度も観返したりメモを取っていたり考察本を熟読していたので、クラスメイトの質問にはすらすら答えることができた。いま考えたらマジでヤバいオタクだ。書いてて冷や汗かいてきた。

高校生になった頃にリビルドが作られるということで、序・破はバンドメンバーである友人と観にいった。スパロボαのように「熱血・覚醒・魂」の精神コマンドを使っている新劇のシンジに興奮し、続編のQで「マゴロク・E・ソード」が使われたら泣いちゃうかもしれないね!と盛り上がり、結局のところ新劇はパラレルワールドかループなのかを散々話し合った。

Qは大学生の頃で、上京もしていて、誰といったかは思い出せないけど、公開してすぐに劇場へいった。Twitterにログが残っていた。それで、そのときは「終わらないんかい!」と少なからず憤ったと思う。早く終わりが観たかった。幼い頃から観続けていた“エヴァの果て”へ到達したかった。序破を共にした友人も似たような感想だったし、でも考察がはかどるね、とも言っていた。

大学院生の頃に漫画が終わった。実家にいた頃まで(11巻、ネルフが強襲されるまで)買っていたけれど上京してから買わなくなってしまっていたので、卒論のために導入していたKindleで全巻揃えた。読むために兄から許可を得ることも、病院に足を運ばなくても、もう平気だった。アニメ版とも旧劇とも違う、他者の存在を自ら望んでいるシンジに感動さえした。いまの自分が納得できる、ひとつの結末が観られたから。単行本の最後に、破でいきなり現れたマリが描かれていて、そのことについても友人と話した。



シン・エヴァ、途中からずっと泣いていた。本当に終わってしまうのだと信じられなかった。テレビ版を彷彿とさせるカットが流れるたびに、かつての記憶が呼ばれては剥がされていく感覚があって、終わりへ向かって加速してゆくのを感じた。果てが見たいと言っておきながら決して終わらないコンテンツなんじゃないかと錯覚していた。そうやってすべての終わりに到達した瞬間、引き剥がされた奥にあったなにかが撫でられ、それからゆっくりと失くなってゆくのがわかった。いま燃えているささやかな炎も、きっとやがて死んでしまうと思う。すばらしい終わり方だった。

ひとり歩きをくり返し、膨張のしすぎで巨大になり、もはや輪郭さえ見えなくなった「エヴァンゲリオン」という作品を救って、庵野秀明自身も救って、同じように囚われていたファンを少しでも前に進ませるためはやっぱり“外からやってきた人物”が必要だったんだなあ、とも思う。

庵野秀明その人自身が所帯を持ったせいなのか、東日本大震災があったからかはわからないけど、エヴァの外も、エヴァのない世界もいいものだよ、と優しく諭された。もしかしたら、兄たちや、それよりも歳上のファンは憤る人だっているんだろうな、置いていくなよって。でも私はこれが最適解だと信じてるよ。


序破を共にした友人は果てにたどり着く前に亡くなってしまった。
なんでネタバレを気にしなくなったんだろうと思ってみたら、そうか、もう話す友人がいないんだということに気づいてまた泣いてる。モンハンの新作がいまだに出続けていることや活動を再開したエルレのライブにいけたことも伝えたいけど、いまは間違いなくこの結末を教えてあげたい。

あーしゃべれなくてつまらんね。結局、私たちが考えていたことはちっともあたらなかったよ。でも、この終わり方に私は満足してるし、これ以上、考察したり聖書と睨めっこもしないと思う。それくらい素晴らしい終わりだった。けど、あなたはどう思うんだろうね。きっとそこは見晴らしもいいだろうから、もしかしたらそちらからも見えてるのかな、そうだったら嬉しい。

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